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第9回目となる『高田の語り部おおいに語る』は、豊島区高田1-36-22朝日第二目白台マンション の「ギャラリーゆめじ」で
竹久夢二についての研究や作品展示・資料収集を行っている笠井千代さんと娘さんの坂原さん親子にお話をしていただきました
 


 笠井千代さんは、大正浪漫を代表する画家である竹久夢二が生涯で最も愛した女性‘彦乃’の妹さん(彦乃が亡くなってから生まれている)で、父親や親類から彦乃と夢二の交際ついて聞いた数多くの秘話を語っていただきました。
 彦乃は山梨県南巨摩郡西島村(現・身延町西島)で生まれ、日本橋にあった宮内庁御用達の紙問屋の娘として育ちました。13歳の時に日本女子大学附属高等女学校に入学。夢二のファンであり、「港屋絵草子店」を訪問したことがきっかけで夢二との交際が始まり、夢二の勧めで女子美術学校(女子美)に入学しました。
 竹久夢二は彦乃との交際が始まった頃、戸籍上唯一妻となった女性である岸たまきと別れ、京都に移り住みました。彦乃にはこの時既に父が決めた許嫁がいたため、夢二との交際に対して反対であったことは言うまでもありません。
 それでも彦乃と夢二のお互いを思う気持ちは萎えることなく、彦乃は父を欺き京都へ向かいました。彦乃はこうして京都で夢二としばらく同棲しましたが、大正7年彦乃が九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で当時不治の病と言われた結核を発病してしまいます。京都まで彦乃を見舞いにきた父は、入院先に訪ねてきた夢二と鉢合わせした際、夢二を階段から一度ならず二度も突き落とし、彦乃の前に立ちふさがったことがあるとのことです。
 その後彦乃は父の手によって東京に連れ戻され、御茶ノ水順天堂医院に入院。大正9年1月16日に23歳で亡くなりました。この時夢二は彦乃の父に面会を許されず、彦乃の死後しばらくショックから立ち直れなかったそうです。
   
 

詳しくは、「笠井彦乃・竹久夢二略年譜」をご覧ください。



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