ミラノ〜
ヴェネツィア
ヨーロッパで最初に訪れたのがイタリアだ。日本人に大変人気がある国で、殆どの人が観光に満足し、リピーターになりたいと思うのではないか。かつてはドイツと共に3国同盟を結んだ事もありお互いに親近感を持っていることもあるかも知れない。

その素晴らしさは口ではなかなか説明できないが、2回に分けて印象を述べてみたい。
この時のツアーは日通航空主催の企画だったが人気観光地なので参加人数は20名を超えていたと記憶している。

ミラノ美人?
復活祭の頃の
イタリア北部

ミラノ
観光名所

季節は4月、イースターの頃だった。ANAでヒースローまで飛びアリタリア航空でミラノに到着した。
時間は夜の10時頃だった。バスの中で添乗してきたOさんから治安状況について一通りの説明があり、その中で翌日からの観光の際には「ジプシー」については十分気を付けるように注意があった。またバール、トラットリア、リストランテ等飲食店の違いなどの説明も受けた。

夜のリストランテ

この時添乗していたOさんはベテランの男性ガイドで、イタリア語は勿論数ヶ国語が話せる人だった。大変落ち着いており笑顔を絶やさず、信頼できる優れたガイドとの印象を受けた。ホテルはミラノ駅に近いところだったがはっきり覚えていない。
翌朝先ずお定まりのコースである、ドゥオモ〜ブィットリオエマヌエーレ2世ガレリア〜スカラ座などを見てからスフォルツェスコ城などを見て回った。4月中旬のミラノの朝は東京より寒く感じたが、日中はすがすがしく非常に気持がよかった。
それぞれの観光名所についての解説はナンセンスだが、一番感動したのはドゥオモである。
この大聖堂のゴシック様式の外観もスゴイが、一歩仲に足を踏み入れたときのインパクトは例えようもなく大きかった。ショックといってよいような感情を抱いた。今まで全く見た事がない石で出来た巨大なゴシックラインの柱、彫刻等内部の構造や雰囲気に度肝を抜かれた。後日ローマのサンピエトロ大聖堂も見たが、この時のようなショックに近い感動を受けることはなかった。
もう一つ印象に残ったのはスカラ座だ。云うまでもなくここはイタリアオペラの殿堂で、シーズンには地元を始め世界中の音楽家がその芸を競い合い多くのファンを引きつけているのだ。建物の外観は思ったより質素だったが出来ることなら生の演奏を聴いてみたいと思った。


ドゥオモ

屋上の彫刻

ガレリア

スカラ座


教会

ドゥオモ広場で
当時日本円は強く米ドルの為替レートは約80円近い円高だった。一方イタリアの財政赤字は大きく、リラは非常に弱かった。広場を散策していると、例のジプシーやいろいろな物売りがすぐさまやってきて絵葉書などいろいろな小物を薦めた。かなりしつっこい商売のやり方だった。私は総て無視したが彼等の売り方は千円千円!とおかしな日本語で連呼するやり方だった。つまり一つ或いは一組が1000円単位になっていた。
買いたいような品物は全く見当たらなかった。この広場には怪しげな人物が大勢ウロウロしていた。


言うまでもなくミラノは世界のファッションの最先端を行く街として有名な場所だ。そう思って辺りを見回すと観光客と思しき人は別として、センスは抜群だった。衣服の色彩感覚が豊で、靴には特に気を使っているように感じた。勿論何処を見ても美男美女揃い?だが、マンジャーレ(食欲)のお国柄のせいか超肥満体を大勢見かけた。

ミラノの観光は半日で終り、午後の専用バスでヴェネチアに向かった。ドライバーは全行程を通して一人であったが、まだ若い人だった。テクニックは大変上手く、特に混み合った狭い街並みを巧みに切り返しながら進む技術に感心した。添乗員のOさんも褒めていた。彼は飛ばし屋だった。

確か高速道路で3時間程度走ったと記憶しているが、道すがらイタリアの派手な色のスーパーカーが次々と滑るように猛スピードで追い越していくのに思わず見とれてしまった。真っ赤なフェラーリやランボルギーニなどイタリアのクルマは本当に美しい。一度はハンドルを握ってみたいと思っていたが‥ 運転しているドライバーは男女とも本当にカッコがよかった。

ヴェネツィア
サンタルチア駅近くでバスを降り、水上バスでカナルグランデ(大運河)を下り、サンマルコ広場に着いた。
はっきり覚えていないが1時間くらいかかったと思う。左右の対岸に広がる風景に見とれてしまい、最後までデッキに立ちつくしていた。ツアーの行程表では当初ヴェネツィアのホテルに宿泊する予定だったが、何かの手違いでリド島にあるリゾートホテルに変更になっていた。この季節はイースターで観光客で賑わっていた。
船は更にリド島に向かい、20分足らずで波止場に到着した。
ここはカナルグランデの河口に位置する小さな島だが、マイアミやワイキキと並ぶ国際的リゾートであり、この変更は我々にとっては願ってもないことだった。


バスから船へ

鐘楼とドウカーレ宮殿

サンタマリア・デラ・サルーテ教会


カンパネルラからのパノラマ(S.Iさん撮影)
(注)この旅行で親しくなった方々がいる。若い女性の二人連れだった。お二人とも一流企業のOLだった。
旅行を通して何かにつけて声をかけていただき、我々夫婦も大変楽しかった。夕食を共にしたこともあった。お話では我々夫婦が、丁度お二人のご両親に近い年配だとのこと。上の写真はそのお一人のS嬢が撮影し、帰国後送っていただいたものだ。

ホテルで
波止場からホテルまでは徒歩で10分程度だったが、辺りの自然は素晴らしいものだった。ホテルの名前はHOTEL DES BAINS であるが、どのように読むのかが分からない。格式のある立派なホテルだった。


ロビーで
案内された部屋は一階で、部屋のつくりは古いが広く開放的で、テラスの前の庭の先には白い砂浜とアドリア海が広がっていた。
すっかり気に入ってしまったが、家内が用を足そうとトイレに入ったら「水が流れない!」というではないか。なるほど今にもトイレの水があふれ出そうになっていた。添乗員のOさんからの連絡ですぐにホテルの係が2名でやってきていろいろ試したらしいが上手く行かず結局我々だけが新館のほうに変わることになった。

新館は近代的で非常によい部屋だったが景色はあまりよくなかった。その晩はホテルで夕食をとったがレストランの雰囲気やボーイの態度などは格調が高いので、全員リラックスというより少し硬くなっていた。

ヴェネツィアの印象
ここはローマと並んでイタリア観光のハイライトであり改めて説明の要はないが、2.3の出来事や失敗談を書き留めておきたい。翌朝先ずサンマルコ広場に向かうため船に乗るのだが、モーターボートを利用することになった。実に速い。あっという間に到着した。河口付近は小型のボートや水上バス、ゴンドラ等が縦横無尽に動き回り危ないなと思ったが、我々にはわからないルールがあるのだろう。


ホテルの正面

サンマルコ寺院

アトリウム

ここは昔、無数の島と干潟のよせ集まっただけの土地で、年々沈下が激しいようだ。運河から見ると建物が水面から直接建っているように見えた。ご存知のようにクルマは一台もないので、総て徒歩で回ることになるがクルマが見当たらないというのはのんびりするし安全この上ない。

ここで特筆すべき建物を一つだけ上げるとすれば、何といっても「ドゥカーレ宮殿」だろう。
サンマルコ広場に面し、外部のピンクががった白い大理石も美しく、ひときわ目立つが内部の壮麗さは比類がないほどだ。
この宮殿の大広間は「大評議員の間」と呼ばれ、かつて「ベネツィアサミット」が開催され、わが国の、時の総理であった中曽根康弘氏が参加したのだという。 天井一面に描かれたベネッイアの生んだ天才画家(名前は失念)たちの絵画は「素晴らしい!」の一言に尽きる。


ゴンドラ


狭い水路
数人ずつ分散して乗った。船頭は実に巧みに竿一本で操船する。
特に細い水路を曲がるときなどは船が岸にぶつからないかとヒヤヒヤしたがギリギリのところで上手く回転させる。本当に感心した。数多くのゴンドラがひしめき合っているが事故は無いのだろうか。オーソレミヨなどのイタリア民謡を歌っている船もあった。さすがに「カンターレの国」だけのことがある。
水面が目線の近くでユラユラ揺れるので、気分が悪くなり青い顔している人も見かけた。
狭い水路はドス黒く汚れ、ドブ臭いにおいが鼻を突いた。最近、日本の川では殆ど感じられない悪臭だった。周りにはホテルが林立し生活廃水も出ているのだろう。

カフェ・フロリアン

広場の中ほどにカフェがあり、椅子席が外まで並んでいた。店の前で生演奏もある。創業はナント1700年代で、300年近く続いているのだという。昔は元首やゲーテら文学者等も利用していたらしい。有名な店らしくかなり賑わっていた。
中に入ると広いが部屋がいくつにも別れ薄暗い店だった。カプチーノを注文した。日本人観光客らしい人々も多かった。因みに、コーヒーはイタリアではエスプレッソが中心で、食後にミルクの入ったカプチーノを飲む習慣は無いそうだ。ウェーターが注文を取り、お勘定のときも彼を呼ぶ。昔のバスの車掌さんみたいな黒いバッグを首からつるし、お金のやり取りをし、彼に何がしかのチップを支払うのだ。

お食事タイム

この日は自由行動だった。お昼になったので食事を取ろうとウロウロした。狭い小路の仲に飲食店が軒を連ねていた。パスタの類で軽く済ませたかったのでそれらしい店を物色して歩いたが行き当たりばったりだ。
店の表に「日本航空スチュワーデスご利用で、日本語のメニューがある」と書いてある店があったので入った。

余り大きい店ではなかったがかなり混んでいた。メニューを見ると確かに日本語で注記してあった。ワインとアンティパストを頼み、プリモ・ ピアットにペスカトーレか何かを注文した。食後はテラミスだったが全般に味はまあまあで、特に美味いとは思わなかった。

夕方になり、リド島に戻ったがホテルで食事をするのも能がないと思い、リストランテを探した。それらしい店を見つけて入ったがやはり混んでいた。ここは欧米人ばかりで同行の志はおろか、東洋系はいなかった。メニューを見ると総てイタリア語で全くチンプンカンプンだった。料理の数は非常に多く、何がなんだかさっぱり分からず当惑した。
へたくそな英語で魚料理、サラダの種類を聞いてみたがウェーターは困った顔して首を振るのみ。
飲み物を注文しメニューを凝視し、意を決してそれらしきものを一つづつ注文してみた。やがて運ばれてきたのは鱸か何かの丸ごと蒸したようなものと、大きなサラダボウル一杯の生野菜だった。カンは当たったことになるが‥量が多かったので追加はしなかった。
魚は白身で美味かった。サラダはドレッシングがかかっておらず生のまま、どうやらテーブルのオリーブオイルと食塩で各自が味をつけるらしかった。二人できて一品ずつしか注文しない客だったが周りの人はおしゃべりに夢中で無関心、ウェーターも「おのぼりさん」と思ったのか別にヘンな顔はしなかった。

ヴエネツィアンガラス

ムラーノ島のガラス工場に行った。生産販売している直営店だ。とにかく商売熱心?だ。バカ高いものを売りつけたがる。一切関心は示さず無視。融けたガラスを巧みに操り、たちまち動物の置物をつくりあげ売っていた。これは一つ千円だった。キリンその他を買ったがなかなかよかった。だがその後、家の引越しのときにいずれも細い部分が欠けたので廃棄した。
家内が一つだけキレイな容器を購入し、今も大切に使っている。

迷路
夢中で歩き回っているうちに方向感覚を失った。うす曇なのでなおさら分かりにくかったが、カナルグランデを視野に入れれば方向はわかると思っていた。ところがいつの間にか見失ってしまったのだ。もう午後もかなりすぎた時間になり、島に帰るためサンマルコ広場に戻る必要があった。

それらしき方向に歩いたが行き着かず道路表示も見当たらずどうしたものかと思案していると、可愛らしい少女がいたので「サンマルコはどちらか‥」とジェスチァ入の英語で尋ねてみた。彼女は方向を指差し、まっすぐ行けばOKと教えてくれた。数分で広場に戻ることが出来た。やれやれ助かった。だが、ここで迷うのは当たり前だという。歩いていて感じたのは橋がやたらに多いことだった。

沈み行く水の都

3日目の朝、リドの船着場から水上バスでカナルグランデを遡り、観光バスが待つサンタルチア駅に向かった。

この素晴らしい水の都は最近地盤沈下が大分進行していると聞いている。大雨のときや潮の関係でサンマルコ広場が水浸しになることが再三再四あるようだ。過去何回かマスコミなどでも報じられたのを記憶している。
ここは西暦800年頃までは海に囲まれた干潟であり、そこへ無数の杭を打ち込み干拓し島を造り上げたとのことだ。
海抜が低いのはやむをえないが、地球温暖化が大きく影響しているのは否めないだろう。当然あらゆる対策を講じていると思われるが、この素晴らしい世界的な景勝の地と文化を永久に残して欲しいと思った。(04/04)

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