護衛艦「きくづき」

毎年7月19日は海の日だ。今回はこれに因んだお話をしたい。10年ほど前にさかのぼる。海上自衛隊の護衛船「きくづき」に乗船し、2時間ほど航海したときの体験談だ。

何故乗船したのか?
当時、親会社を離れて、ある調査会社に籍を置いていた。ここは保険会社の事故処理の下請けを仕事にしていた。
社員にはいわゆる新卒は一人もおらず、100%中途入社の人々だった。仕事の中味は自動車事故の損害賠償の調査と解決が主たるものであり、特に人身事故の解決には、人生経験が豊かで、バランスの取れた常識がある優れた人材が必要だった。
自衛官は比較的定年が早く、特別な人を除き、50代の半ばになると、退官することになる。まだ働き盛りで、有能な人材が多いのに目をつけ当時かなりの数の方々を採用し活躍してもらっていた。
確か防衛庁援護課でもこのような人材の民間での積極活用に協力的だったと記憶している。私は研修担当責任者で採用にはタッチしていなかったが、こんな事情は承知していた。

ある時、防衛庁の人事担当部署から我々に対して「艦船か航空機に体験搭乗してみないか」とのお誘いがあった。既に体験者が居たので私にお鉢が回ってきたのだ。飛行機で稚内かどこかの基地に飛行するのと艦船に乗船するコースがあったが私は海のほうを希望した。とにかく軍艦に乗ったことは全くなかったので非常に興味があった。また、当時仕事をしていただいていたA氏から薦められたこともきっかけになったと思われる。A氏は海上自衛官出身で、退官時の位ははっきり覚えていないが海佐クラスだった筈だ。

横須賀から乗船
晩秋の頃だったと記憶しているが、ある休日の朝九時ごろ横須賀の基地に停泊していた護衛艦「きくづき」の近くに行ってみるとナントあのA氏が出迎えてくれた。


きくづき
(自分で撮った写真はこの一枚だけしか残っていない)
彼の案内で乗船すると艦長が直立不動の姿勢で彼に向かって恭しく敬礼した。彼の柔和だった顔つきが引き締まっていつもと違うように感じた。二言三言言葉を交わしたが、明らかに現役時代彼は艦長より上官だったという態度だった。エェー!彼はエライのだなぁ‥ とチョッと驚いた。
当日体験乗船したのは数十人居た記憶があるが、お互いにどんな関係なのかさっぱり分からなかった。ただ圧倒的に働き盛りと思しき男性が多かった。老人や子供は見かけなかった。
出港の時はとても勇壮だった。曹士が甲板に立ち並び、艦首に日章旗がスルスルと上がり、3名の乗組員が「行ってきまーす」と朗々とラッパでファンファーレを吹奏し、指揮官が敬礼する。

そうすると向こう岸の艦からも呼応するように海を渡って答礼のラッパが高らかに鳴り響くのだ。船尾には昔懐かしい「軍艦旗」がたなびいていた。

これは素晴らしく感動的な出港風景だ。「カッコいいなぁ!」と、年がいもなく、ヒドク感激した。
護衛艦というが、タイプはいろいろあるらしい。乗船したのは「きくづき」だがタイプは「たかつき型」と呼ばれ、かつては花形艦艇であったらしい。

見たところ戦時中「駆逐艦」といわれていた艦ではないかと思ったが、対潜ロケットを装備した戦闘能力の高い艦だった。艦の長さ136mに比して幅が13m余で狭く、如何にもスピードの出そうな船体だった。
この艦の性能等については下記のとおりだが(注記)を除き総て、「海上自衛隊ホームページ」の記事を転用させていただいた。(引用可の表示あり)

昔の「軍国少年」
♪「度胸一つに火のような錬磨
旗は鳴る鳴るラッパは響く
行くぞ日の丸日本の艦(ふね)だ
海の男の艦隊勤務
月月火水木金金」 ♪
こんな歌を昔唄っていた。また勇壮な軍艦ーマーチの途中で突然「海行(ゆ)かば水漬(みづ)くかばね、山行かば草むすかばね、大君の辺(へ)にこそ死なめかえりみはせじ.‥」という
「汝天皇のために死ね!」というオソロシイ歌が出てきたのも記憶しているが‥
私はかつて「軍国少年」だったのだ。なにしろ生まれてから小学校時代まで長年にわたり軍国主義時代の教育を受けてきたのだ。昔は海軍にあこがれたものだ。陸軍では憲兵は別として歩兵はダサくていやだったが、セーラー服の水兵さんはスマートで好きだった。7つの海を航海し、戦闘にもどことなくロマン?を感じたものだ。
戦争そのものはいやだが、軍艦に乗ると年甲斐もなく、血が騒ぐのは何故だろうか。
護衛艦「たかつき」型  DDA"TAKATSUKI"Class
艦番号(Hull Number) 艦名(Ship's Name)
164 「たかつき」 (Takatsuki)
165 「きくづき」 (Kikuzuki)

主要性能要目
基準排水量: 3250ton
主要寸法: 長さ 136m
幅  13.4m
深さ 8.7m
喫水 4.5m
船 形: 平甲板型
主 機 械: タービン2基2軸
馬   力: 60000PS
速   力: 31kt
主要兵装: 54口径5インチ単装速射砲×1
高性能20ミリ機関砲×1(きくづき)
短SAM装置一式
SSM装置一式
アスロック装置一式
ボフォースロケットランチャー×1
3連装短魚雷発射管×2
定   員: 260名
@航行中のきくづきクラスの護衛艦

A横須賀の護衛艦


◆左記データと写真@は海上自衛隊HPから転載
◆Aと下のキャップの写真は下記サイト運営の小川様のご好意で転載させていただいた。
(注)ノット [knot]
船舶・海流などの速さの単位。一時間に一海里(1852メートル)進む速度をいう。記号は kn または kt〔「節」とも書く〕31ノットの速度はクルマなどで陸上の速度に換算すると、時速約60キロメートルになる。
艦の推進力はガスタービンであり、これは航空機のエンジンに近い仕組みとのことだ。小型だが高性能を誇るエンジンだ。
「きくづき」の現在について少し調べてみた。
海自の護衛艦は約60隻現存する。(因みに潜水艦は約20隻現存する)このタイプの護衛艦は、汎用護衛艦といわれるが、その後、はるな型,⇒しらね型に引き継がれている。最近新造されている艦艇はいずれも大型化し、ヘリコプター搭載のタイプが多いようだ。このタイプは今2隻あるだけだ。いずれも1968年建造されかなり古いタイプに属する。今は横須賀には所属しておらず、舞鶴に配備されているようだ。

 海上自衛隊ホームページ
<国民とのふれあい>  に、「海上自衛隊の現況を紹介し、理解を深めていただくため音楽隊演奏、艦艇による体 験航海、航空機の体験搭乗 部隊の見学、部外行事への参加などを行っています。」とあり、この一環として行われたものと思われる。
  
航行雑感
航行は横須賀から東京竹芝桟橋までであった。スピードが出る船で最高時速は60キロにもなる。出港してからしばらくすると外洋に出た。ここでグーンとスピードを上げた。正に白波を蹴立てて疾走するという感じだが海原を切り裂くように前進する。船体が浮き上がるようなスピード感があり非常に快適だった。波が静かだったせいか揺れは殆どなかった。動力はパワーのあるタービンエンジン2基だが騒音は感じなかった。しかし、戦時速度の半分にも達していなかったと思われる。スピードを上げたのはホンの20分程度だった。
艦内は特別の場所を除くと立ち入り自由だった。上部甲板にある船橋操舵室に案内してくれた。非常に見晴らしがよく,ひときわ目を引いたのは艦長が座る立派な シートだった。艦長は本艦では絶対権力者だが、その責任もまた極めて重いものがあるのだろう。
船内の食堂に案内された。ここは幹部(海尉以上)と曹士の使う部屋が完全に分かれていた。階級社会の典型だ。同行者A氏の案内で幹部専用の士官食堂に入った。部屋はさほど広くなかったが落ち着いた感じの食堂だった。若い海士が飛んできて注文を聞いた。余程ビールと言おうかと思ったが日中なのでコーヒーを所望した。テキパキと感じがよい給仕振りだった。

艦のスピードが急に落ちたように感じたので艦橋の操舵室に戻ってみた。艦は東京湾の入り口付近に位置し6ノット程度の微速前進をしていたが、やがて停船状態になった。何人かの士官が双眼鏡でしきりに前方を凝視していた。聞いてみると航路を他船が航行しており、このまま漫然と進むと衝突のおそれもあるとのことだった。船の動向を非常に慎重に見極めている様子だったが、その船ははるか彼方にあり、私にはピンと来なかった。だが慎重なのには訳があったのだ。
前年の7月この付近の海域で潜水艦、「なだしお」と民間の船が衝突し遊覧船が沈没し相当数の人々が海のもくずと消えたのだ。この事件は当時一大ニュースとして取り上げられ、海自側の責任も問われいてたのだ。よく考えてみると船は小回りが効かず、急ブレーキも効かないのだ。
 
「なだしお」衝突事故
1988(昭和63)年7月23日 横須賀港北防波堤灯台東約3キロ沖で海上自衛隊第2潜水艦群第2潜水隊所属・潜水艦「なだしお」(艦長・山下啓介二佐 SS577 排水量2250トン)と遊漁船「第一富士丸」(富士商事有限会社(穴沢薫社長)所有 近藤万治船長 154総トン 全長28.5m)が衝突  「第一富士丸」は沈没 乗客39、乗員9(定員超過)のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負った事故
「なだしお」は伊豆大島北東沖での自衛艦隊展示訓練を終えて定係港の横須賀へ帰投中「第一富士丸」は横浜から大島に向かっていた
東京湾に入った艦はスピードを落としのろのろ運転に終始、昼過ぎに東京晴海の竹芝桟橋に横付けされた。
艦内で乗船記念のグッズが売られていたのでkikuzukiのマーク入の帽子と、会社の同僚に「桜に碇マーク」入の土産ものを買い下船した。
帽子は紺色で金色の刺繍が施され、美しくセンスがあり、気に入ったので数年間被っていたが、使い古したので廃棄してしまった。

元自衛官の心意気
イラク戦争以降、自衛隊のニュースには事欠かない。派兵の是非については国論が2分していると思うが、派兵されている自衛官に責任はない。彼等は軍人であり総理⇒防衛庁長官⇒幕僚長の命令に従い国益?のために派遣されたのであり、これが本業とは云え、真にご苦労さんなことだ。おまけに米軍の下働きでは余りヤル気が起きないだろうと同情したくなる。
現行憲法との関連が有るにせよ、訓練された戦闘集団が他国の軍隊に守られて支援活動をせざるを得ない馬鹿げた現状は、どう考えても異常であり、こんなことをしている国は世界広といえども見当たらない。自衛官もすっきりしないだろう。

私は前に述べたような訳で、元自衛官の方々とのお付合いは比較的多かったと思う。退役した人々とはいえ、自衛官の気心を知りうる立場に居た。
本艦の搭乗に際してお世話になったA氏が入社した際、同時採用者、何人かの導入研修を行ったことがあり、湯河原にあった「研修センター」で数日間、寝食を共にした。
彼は当社に入社の際、防衛庁で、民間会社へ転出する何人かと研修を受けたと言う。中味は別として、強く言われたことは心構えや発想の転換についてだったと言う。つまり、彼は防衛大学を卒業以来、自衛官以外の体験はなかった。30数年間、「職業軍人」として過ごしてきたのであり、民間のことに疎い一面があったとのことだ。商売で他人にアタマを下げる必要はなく、上下関係がはっきりし、規律規則で縛られた閉鎖社会で過ごしてきたわけで、「民間に移ると全くカルチャーが異なる‥」ということを徹底して再教育されたと云っていた。
しかし、彼は非常にバランスが取れた優秀な人材だった。職場配属後、仕事への理解は驚くほど早く、短時間で一人前の仕事量をこなすようになっていった。しばらく経ってから彼と面談する機会があった。
そのとき聞いた話は、配属された職場の規律についてだった。自衛官だった彼から見ると職場規律はあってない様なものと映ったらしい。第一若い社員の上司に対する態度や、口のきき方に驚いたらしい。
「部課長に対して、まるで友達相手のような口の利き方だ‥」と慨嘆していた。さもありなんと思った。まず自衛隊の組織ではありえないことだからだ。
彼は大活躍し、大変な戦力となったが家庭の事情でやめざるを得なくなった。まだまだ大きな戦力として働いてもらいたかったが事情を聞いて納得せざるを得なかった。私に対しても丁寧なご挨拶があった。今一体どうされているのだろうか。
もう一人のケースを紹介してみたい。
この方はSさんと云い、新潟で活躍していた。彼はかつて航空自衛隊、ジェット戦闘機のパイロットだった。やはり定年で50代の前半に退役し当社へ入った人である。業務指導で新潟に出向き、彼と面談したことがある。重厚な感じの紳士だが、姿勢が良く目の光がすごかった。話すとき背筋をピンと伸ばし私の目を見つめるのだが、眼光が炯々としており、目の印象を今でもはっきり覚えている。
仕事はマイペースで、処理件数は平均をかなり下回っており、私はもっと効率的に行い示談件数を上げるように指導した。これに対して彼はこんなことを云って苦笑いした。
「空の上では思ったとおりのことが何でも出来たが、地上へ戻るとどうも‥思うようには行きませんねぇ‥」と
彼は空を飛ぶ人、「鳥人」なのだ。私は、飛行機に興味を持っていたので、仕事そっちのけで、スクランブル対応、揚力、フラップの上げ下げ、離陸速度、操縦桿の引き方、着陸時の降下率や速度、などについて聞いてみた。彼は意外?という顔つきで「よくご存知ですねぇ」といいつつ丁寧に答えてくれた。さらに愚問を発した。「ジェット戦闘機の操縦が出来れば高給がもらえるジャンボのパイロットになればよかったのに‥こんな会社に居ても貴方の能力を発揮できないのでは‥」と。
彼からこんな答えが跳ね返ってきた。「戦闘機、旅客機、ヘリコプターの操縦はそれぞれ全く異なるものでそう簡単には行きませんよ‥」と そんなものかなぁと思い、自分の知識や指導能力の無さを改めて思い知らされた。
私は当時、子会社の社員研修担当責任者だったが、何のことはない教えるどころか自衛官出身の方々から、逆に多くのことを学んだのだった。
                        (04/07/19 海の日に)もどる