毎年7月19日は海の日だ。今回はこれに因んだお話をしたい。10年ほど前にさかのぼる。海上自衛隊の護衛船「きくづき」に乗船し、2時間ほど航海したときの体験談だ。
▼何故乗船したのか?
当時、親会社を離れて、ある調査会社に籍を置いていた。ここは保険会社の事故処理の下請けを仕事にしていた。
社員にはいわゆる新卒は一人もおらず、100%中途入社の人々だった。仕事の中味は自動車事故の損害賠償の調査と解決が主たるものであり、特に人身事故の解決には、人生経験が豊かで、バランスの取れた常識がある優れた人材が必要だった。
自衛官は比較的定年が早く、特別な人を除き、50代の半ばになると、退官することになる。まだ働き盛りで、有能な人材が多いのに目をつけ当時かなりの数の方々を採用し活躍してもらっていた。
確か防衛庁援護課でもこのような人材の民間での積極活用に協力的だったと記憶している。私は研修担当責任者で採用にはタッチしていなかったが、こんな事情は承知していた。
ある時、防衛庁の人事担当部署から我々に対して「艦船か航空機に体験搭乗してみないか」とのお誘いがあった。既に体験者が居たので私にお鉢が回ってきたのだ。飛行機で稚内かどこかの基地に飛行するのと艦船に乗船するコースがあったが私は海のほうを希望した。とにかく軍艦に乗ったことは全くなかったので非常に興味があった。また、当時仕事をしていただいていたA氏から薦められたこともきっかけになったと思われる。A氏は海上自衛官出身で、退官時の位ははっきり覚えていないが海佐クラスだった筈だ。
▼横須賀から乗船
晩秋の頃だったと記憶しているが、ある休日の朝九時ごろ横須賀の基地に停泊していた護衛艦「きくづき」の近くに行ってみるとナントあのA氏が出迎えてくれた。
![]() きくづき (自分で撮った写真はこの一枚だけしか残っていない) |
彼の案内で乗船すると艦長が直立不動の姿勢で彼に向かって恭しく敬礼した。彼の柔和だった顔つきが引き締まっていつもと違うように感じた。二言三言言葉を交わしたが、明らかに現役時代彼は艦長より上官だったという態度だった。エェー!彼はエライのだなぁ‥ とチョッと驚いた。 当日体験乗船したのは数十人居た記憶があるが、お互いにどんな関係なのかさっぱり分からなかった。ただ圧倒的に働き盛りと思しき男性が多かった。老人や子供は見かけなかった。 出港の時はとても勇壮だった。曹士が甲板に立ち並び、艦首に日章旗がスルスルと上がり、3名の乗組員が「行ってきまーす」と朗々とラッパでファンファーレを吹奏し、指揮官が敬礼する。 |
そうすると向こう岸の艦からも呼応するように海を渡って答礼のラッパが高らかに鳴り響くのだ。船尾には昔懐かしい「軍艦旗」がたなびいていた。
これは素晴らしく感動的な出港風景だ。「カッコいいなぁ!」と、年がいもなく、ヒドク感激した。 護衛艦というが、タイプはいろいろあるらしい。乗船したのは「きくづき」だがタイプは「たかつき型」と呼ばれ、かつては花形艦艇であったらしい。 |
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見たところ戦時中「駆逐艦」といわれていた艦ではないかと思ったが、対潜ロケットを装備した戦闘能力の高い艦だった。艦の長さ136mに比して幅が13m余で狭く、如何にもスピードの出そうな船体だった。
この艦の性能等については下記のとおりだが(注記)を除き総て、「海上自衛隊ホームページ」の記事を転用させていただいた。(引用可の表示あり)
昔の「軍国少年」 ♪「度胸一つに火のような錬磨 旗は鳴る鳴るラッパは響く 行くぞ日の丸日本の艦(ふね)だ 海の男の艦隊勤務 月月火水木金金」 ♪ こんな歌を昔唄っていた。また勇壮な軍艦ーマーチの途中で突然「海行(ゆ)かば水漬(みづ)くかばね、山行かば草むすかばね、大君の辺(へ)にこそ死なめかえりみはせじ.‥」という「汝天皇のために死ね!」というオソロシイ歌が出てきたのも記憶しているが‥ 私はかつて「軍国少年」だったのだ。なにしろ生まれてから小学校時代まで長年にわたり軍国主義時代の教育を受けてきたのだ。昔は海軍にあこがれたものだ。陸軍では憲兵は別として歩兵はダサくていやだったが、セーラー服の水兵さんはスマートで好きだった。7つの海を航海し、戦闘にもどことなくロマン?を感じたものだ。 戦争そのものはいやだが、軍艦に乗ると年甲斐もなく、血が騒ぐのは何故だろうか。 |
護衛艦「たかつき」型 DDA"TAKATSUKI"Class
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@航行中のきくづきクラスの護衛艦![]() A横須賀の護衛艦 ![]() ![]() ◆左記データと写真@は海上自衛隊HPから転載 ◆Aと下のキャップの写真は下記サイト運営の小川様のご好意で転載させていただいた。 |
「きくづき」の現在について少し調べてみた。 海自の護衛艦は約60隻現存する。(因みに潜水艦は約20隻現存する)このタイプの護衛艦は、汎用護衛艦といわれるが、その後、はるな型,⇒しらね型に引き継がれている。最近新造されている艦艇はいずれも大型化し、ヘリコプター搭載のタイプが多いようだ。このタイプは今2隻あるだけだ。いずれも1968年建造されかなり古いタイプに属する。今は横須賀には所属しておらず、舞鶴に配備されているようだ。 |
海上自衛隊ホームページ <国民とのふれあい> に、「海上自衛隊の現況を紹介し、理解を深めていただくため音楽隊演奏、艦艇による体 験航海、航空機の体験搭乗 部隊の見学、部外行事への参加などを行っています。」とあり、この一環として行われたものと思われる。 |
「なだしお」衝突事故 1988(昭和63)年7月23日 横須賀港北防波堤灯台東約3キロ沖で海上自衛隊第2潜水艦群第2潜水隊所属・潜水艦「なだしお」(艦長・山下啓介二佐 SS577 排水量2250トン)と遊漁船「第一富士丸」(富士商事有限会社(穴沢薫社長)所有 近藤万治船長 154総トン 全長28.5m)が衝突 「第一富士丸」は沈没 乗客39、乗員9(定員超過)のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負った事故 「なだしお」は伊豆大島北東沖での自衛艦隊展示訓練を終えて定係港の横須賀へ帰投中「第一富士丸」は横浜から大島に向かっていた |
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東京湾に入った艦はスピードを落としのろのろ運転に終始、昼過ぎに東京晴海の竹芝桟橋に横付けされた。 艦内で乗船記念のグッズが売られていたので ![]() 帽子は紺色で金色の刺繍が施され、美しくセンスがあり、気に入ったので数年間被っていたが、使い古したので廃棄してしまった。 |
◆もう一人のケースを紹介してみたい。 この方はSさんと云い、新潟で活躍していた。彼はかつて航空自衛隊、ジェット戦闘機のパイロットだった。やはり定年で50代の前半に退役し当社へ入った人である。業務指導で新潟に出向き、彼と面談したことがある。重厚な感じの紳士だが、姿勢が良く目の光がすごかった。話すとき背筋をピンと伸ばし私の目を見つめるのだが、眼光が炯々としており、目の印象を今でもはっきり覚えている。 |
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