続 ***第2の人生***


1995年(平成7年)6月に子会社を円満退社した。その後約半年間、ぶらぶらし、少し充電期間を持った。
この間2回ほど海外にも出かけた。しかし、会社からのお声もあり、その後新たに嘱託契約を結ぶことになった。
仕事はComputer System構築のお手伝いだった。周2日〜3日程度の出勤でOKという条件だった。

更にその後、今度は親会社の損害調査部門からも「休日の電話による事故対応」をしてみないかという話があった。休日の顧客サービスが必要な時代になり、お声がかかったのだった。会社が休みの日のすき間を埋めるのが目的だった。
このような仕事は即戦力になる経験者が必要であり、私は損害調査と営業現場の体験者なので適材とみなされたようだった。むげに断ることも出来ず受け入れることにした。

このとき以来結局、2002年(平成14年)6月末まで、途中で半年程度の空白があったが2社の嘱託として働くことになった。真におかしなことに忙しさは現役のときと余り変わらなかった。勿論責任者ではなかったので気は楽だった。
ある意味では幸せなことだった。スキルを評価し買ってくれる人がいたからだ。また、この時期は、かつてなくリッチだった。すでに65歳から年金ももらっていたからだ。結局68歳のときまで働いていた。

* NAC社の嘱託として

1996年(平成8年)4月になり会社と委嘱契約を結んだ。業務の肩書きは「ナクネス推進チーフインストラクター」という聞くだけでオソロシイものだった。所属は「情報システム推進部」であった。
この頃会社は「ナクネス」というSystemを推進しようとしていた。ノートパソコンが社員一人ひとりにゆきわたり、社内イントラネットもNOTESというシステムで構築された。損傷自動車の修理見積もアウダデックス社のソフトを使い、Computer化されつつあった。正にIT時代の幕開けだった。

仕事の内容はこれ等を側面から援助することだが「チーフインストラクター」はいかにも仰々しい。出勤は周2日、一年契約であったが、会社から退職の勧告は最後まで無かった。その間社長は3名代わったがいずれも委嘱契約を延長してくれた。大いに感謝すべきことだ。

仕事についてこと細かく書くつもりは無いが、ビジネスの移り変わりは激しく、業務内容もドンドン変わり現役でないとついてゆけず、責任ある仕事は出来なくなっていった。これは当然のことだ。
最後の頃はもっぱらEXCELを使った統計資料の作成が仕事となっていた。お蔭様でグラフ作成や、関数について相当詳しくなったが、現在はほとんど忘れてしまった。その時感じたのはEXCELというソフトの奥の深さだ。セル一つの持つ能力に驚嘆したものだ。この時期は自由な時間もあったので仕事を客観的に分析し、いかにパソコンに結びつけるかを考え、曲がりなりにも形にしていたので自己のPC能力を高めるには絶好の機会だったと思う。

私は社長交代の際には、いつでも辞める用意がある旨お話していたし、会社の状況を考え、最後のNM社長にはこの際辞めたいとの意思表示もしたが彼は引き止めてくれた。心苦しかったが反面嬉しかったのも事実だ。

主たる仕事の中味について簡単に触れておきたい。

@各種統計管理資料の作成と活用
一例を挙げると「台帳集計システムの活用」、「個人業績評定システムの構築」などである。以下はフォーマットのほんの一部を示したものだ。数字を入れると社員個人の業績が指数化されて表示される仕組みだった。このデータを社員人事考課の一つの資料として活用することを提案していた。これ又労組からの猛反対で実現しなかった。
このような仕組みはEXCELやACCESSを使うと効率よく出来上がる。

 
00年度・個人業績評定フォーマット(首都圏)
量:250点
部署名 氏名 立会 デジカメ 書面 相手 左の小計 完了状況計 50万超事案
計@ 計A 計B 計C @〜C 指数a 指数b 件数D Dの寄与指数a Dの寄与指数b
0 0 0 0 0


Aパワーポイントによる各種デモンストレーションの作成
10種類程度を作成したと記憶しているが、残念ながら余り活用されなかった。今見てもわれながら結構よく出来ていると思うのだが…  いずれも画像にして15枚程度の作品だった。

当時は会議などでも相変わらず大量のペーパーが主役だったのだ。プロジェクターも非常に高く、子会社のため予算を取ることも困難だった。Televisionで代用できたが十分アピールできなかった。

しかし、個人的には作成技術や発想力がアップし、現在Homepageの作成に大いに役立っていると考える。




これは難しすぎて実現できず

これは実現した(一般社員とは技術以外の担当)

経営会議資料 会議のポイント???・・・ おこがましい。


B社員CS研修の実施資料の編集など
例えばこんなものを作成していた。そして社員研修のほうはリポートを提出させ添削などもしていた。


テキスト

幹部社員出張報告の校正編集


* 親会社、N社の嘱託としても働いた

この頃各社とも顧客サービスの一環として、休日にも自動車事故を中心に対応することが必要になっていた。

各社ともコールセンターを設置し、連日電話で昼夜を問わず事故の対応を余儀なくされていた。そして親会社であるN火災海上は立川に大掛りなコールセンターを設置し、NTT関連の会社に業務を委託していた。
通常の業務はここの女性オペレーターがこなしていたが、苦情や対応が困難な事案は、マネージャーやスーパバイザーといわれる人々が捌いていた。

DESKTOPのPersonal Computerを前にしたオペレーターは事故の受付も行っており皆忙しかった。
しかし、中には脅しに近い苦情や、言いがかり、非常に判断が困難な事案等については会社のOBの知恵がどうしても必要だった。その要員として白羽の矢が立ったのだ。このような要員は当時数名登録されていた。

私は休日にテレフォンセンターに出向きこの仕事にも携わったが、当初からヒマをもてあました。
苦情はせいぜい1日2〜3件程度だった。捌くのはかんたんだった。あとはただボンヤリと若い女性オペレーターの対応や横顔を眺めているだけだった。何もやることが無いのはとても苦痛だ。
目の前のPC相手に遊んでいた。余りヒマなので会社の資源の無駄払いだと判断し、一年足らずで当方から申し出て辞めた。休日の出勤手当てはバカにならない額だった。

ところがこの後、半年ぐらいたったときに、当時の取締役損害調査部長のN氏から直接、会社の方針が変り、休日は原則として全案件に対応することになったので再度力を貸してほしいとのお話があった。

コールセンターのイメージ


断るわけにも行かないので仕事の中味を確かめた後、再登場することになった。改めて嘱託契約を結んだ。肩書きは「アドバイサースタッフ」という名称だった。要は「休日の事故相談員」という立場だった。

今度は一転して多忙になった。理由はかんたん、仕事が以前とは比較にならないほど増えたのだ。正月やゴールデンウイークは事故のかきいれどきで、新年は元旦から出勤していた。「あけましておめでとう」どころではない。元旦から死亡事故の対応をしたこともある。
仕事の中味や色々な事件は別ページで紹介している。結局この仕事は会社が合併する前日の日曜日まで続けた。
◆この仕事の中味については首記のリンク先をご覧ください

合併寸前に親会社から別の仕事を頼まれたいた。
PCを使ったある作業の責任者が3月末で退社し補充できなかったためだ。

顧客からの連絡、要望、苦情が昼夜を問わずコールセンターに飛び込んでくる。オペレーターがすべてデータとして記録しているが、これ等を仕分ける仕事だった。一週間分のデータをPCで仕分けて本社へ報告する判断業務だった。私はこの前後、超多忙だったのだ。
最後までPC操作のスキルと長年の経験を生かすことが出来たのは幸いなことだったと思う。表面上はコツコツとまじめに??過してきたおかげだ。

* 会社が無くなった日とその後のこと

2002年6月末日で会社は合併した。3社が合併したのだが事実上は大手Y社に吸収されたのだった。

この頃バブル崩壊の後遺症で各業界とも合従連衡が盛んに行われていたが、私のいた損害保険業界も例外ではなかったのだ。
この頃から色々な面でいわゆる「勝ち組」と「負け組」の2極分化が顕在化し、わが社は完全な「負け組」となったのだ。幸か不幸か私はその日まで嘱託として働いていた。最後の金曜日、当時出社していた高井戸の分室で、帰りがけに社屋から長年見慣れたマーク入りの社名看板が下ろされるのを見ていた。正に「負け組」の象徴のような光景だった。
こんな悲しいことを目の当たりにした社員OBはまずいないだろう。

涙が流れ出るのをこらえることが出来なかった。言葉には言い表せない、名状しがたい淋しさだった。何か全身が抜け殻のようになって作業をボンヤリ眺めていた。写真を撮った記憶があるが探しても見つからない。多分破棄してしまったみのと思われる。
現役の諸君の気持ちは如何ばかりかと考え、暗然とした。  この日の出来事は一生忘れられないだろう。


社内報、最終号
   これは出身会社の社内報の最終号だ。
   今でも大切に保存し、時々読み返して
   いる。

   会社は創立90年の歴史があり、社内
   報も誕生して60年の歳月を歩んで
   きたのだ。
   創刊は1938年といわれている。

   「ひまわり」という名前がついたのは
   1968年のことだという。
   中味は最終号にふさわしい歴史の
   刻まれたもので非常に充実している。
   
   私自身の35年近い歴史も刻まれて
   いるのだ。



過去の社報の表紙


これですべてお役ご免かと思っていたら、会社が消えてなくなる寸前に親会社からこんな依頼があった。

「合併後、新会社で3ヵ月ほど手伝ってもらえないか…」と。 突然のことでビックリしたが話を一応聞いてみることにした。

新会社に移行した際の顧客対応や無用のトラブルを避けるための「コールセンター」を臨時に作るので、そこで派遣社員の相談役を引き受けてほしい… というのが主旨だった。期間は7月から9月いっぱいまでということだった。
実はその頃持病の不整脈が悪化し、体調を崩していたので即答は避けていたが、「何とか頼む」と言われ、条件付で引き受けた。

職員の数は約20名、すべて大手人材派遣会社Sからの女性社員だった。しかし全員キャリアは十分あり、電話応答、パソコン操作は手馴れていた。私自身も人材派遣会社に登録し、雇用契約を結んだ。初めての経験だった。このとき人材派遣というシステムを身を以って知ることが出来た。

職場は奇しくも青山にあったN社本社ビルの6階であり、ここはかつて30代の後半勤務した懐かしいフロアーであった。何か不思議な因縁を感じた。久し振りにこのビルに足を踏み入れた。10階建てのビルだが、使われていたのは3階までであり、その他のフロアーは人っ子一人いなかった。電気はすべて消され、デスクとPCが薄暗い中、まるで墓場の墓標のように並んでいた。
書類はすべてダンボールに入れられていたと思うが、この風景を見て改めて会社合併の厳しい現実を目の当たりにし暗然とした。臨時のコールセンターは6階だったが、4階以上はこの一隅だけに明りがつき、生きたOfficeとして機能していた。
このときの異様な光景はいまだにはっきり覚えている。
組織上、管理責任者は新会社若手のK課長であり、私自身は何ら責任を負うものではなかったが、K氏は多忙でほとんど席にはおらず、事実上は私が管理監督を行っていた。この事は想定内だったので別に何とも思わなかった。毎日簡単な業務報告をPCに残し、彼に点検をしてもらうようにしていた。

3ヶ月間だったが実に色々な出来事があった。寄せ集めのキャリアウーマンをチームとして管理し、指導するのも決して楽ではない。色々なトラブルにも見舞われたが仕事の中味を今更並べ立てても始まらない。実務面では2名いた前N社の女子社員が大きな戦力だった。
苦しいこともあったが得がたい体験だったし、最後の最後まで、それまでの長いキャリアを生かすことが出来たと思っている。
会社が変わり今までと企業風土が全く異なっているのに驚いたが、会社の合併統合による事務処理の統一、人的資源の活用などは、想像以上に大変なことだと思った。

暑いさなかであり、ストレスも加わり、不整脈は頻発し、職場で気分が悪くなることもあった。我慢できずに、かかりつけの虎ノ門病院にタクシーで駆けつけ点滴を受けることもあった。体力の限界を痛感した。
当初戦場のようだったセンター内は9月にはいると落ち着き予定通り3ヶ月で終止符を打ち解散した。私自身もどうやら責任を果たし、やっと肩の荷が下り、同時に持てる力を出し切ったと満足した。

この時期までこの元本社社屋内で働いていた会社のOBは、知りうる限りにおいて私一人だけであったと思う。

*損害保険業界の保険金支払い渋り

長々と描き続けてきた「自分史」も終わりに近づいてきた。私の半生は損害保険会社の職員としてのものだ。

最近この業界で世間の大きな批判を浴びているのが「保険金の支払い渋り」だ。とても残念な出来事で、大きく社会的信用を失墜させた。最後にこのことについて業界OBとして見解を述べて締めくくりとしたい。

私は最近監督官庁である金融庁に以下のような主旨の投稿をした。これが総てであるが私自身も過去、このような不祥事と無縁であったとはいえない。片棒を担いだかもしれない。だとしたら責任を免れる事は出来ないだろう。

保険業界ぐるみの支払い渋り   投稿  06/10/03

最近のマスコミ報道によると、ナント大手だけで190億円にも上る保険金の未払いがあるといいます。
真に残念至極です。

これらはすべて貴庁の検査により発覚したもので、契約者保護の観点から評価でき、各社の社長が頭を下げていましたが、この公表件数金額は限られたものだと思っています。

まだまだ隠蔽されているケースがあるはずです。特約の数が多くて損調社員も理解把握できなかったなどという言い分は全く噴飯モノで、嘘っぱちで人を小ばかにした言い訳です。

これは確信犯です。私は損保のOBであり退職後、某社で休日の事故相談員を数年体験しましたが、とにかく苦情の多さと、契約者の無知にはあきれていました。

支払えるケースを「支払えない」とごまかすのはお茶の子さいさいです。私は契約者や被害者には不利にならないようにアドバイスしていましたが、現役社員は上司からの指示で、ごまかしが日常茶飯事で行われていたと確信しております。

ホケンのプロが自社商品の特約内容が分からなかったなどという言い訳が通用するわけがありません。
人をバカにするにも程があります。これ等の事はすべて業界の横並び体質によって行われている事は明々白々です。

人身事故に搭乗者傷害保険をうまく悪用して賠償保険金を減らすなどは、昔から業界の常識です。
ひどいのになると自賠責の基準を下回る任意保険損害額を提示して示談してしまうケースさえ散見され、弱い者、無知な人、大人しい人に対しては徹底的に値切り倒す反面、暴力団、示談屋、右翼や似非同和、一部の悪徳政治屋などにはホイホイ払いをしてきました。
残念ながらこの業界は自分等で決めたことすら守れない業界体質を持っております。

生損保問わず、保険金詐欺事件が数多くマスコミ報道で取り上げられておりますが、これは氷山の一角に過ぎません。
自分自身の体験に照らして、表面に出ていないこの種の犯罪は数限りなくあると推定されます。
これは一部のプロ代理店も含めてこの業界の体質です。いわゆる「ホケン屋体質」はいつまでたっても払拭されないと思います。

私は最近色々な会合で友人等から「損保業界はひどいことやっているなぁ…」と呆れ顔でいわれることが多いのですが、弁解の余地もなく「その通り」と応じ、小さくなっております。
今後も徹底した検査の元に、不正摘発と顧客対応にメスを入れるべきでしょう。
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