6・B・3 制

中学へ進学
1946年(昭和21年)4月に近くの立教中学に入学した。池袋の西口にあり自宅から徒歩で約15分程度の距離である。

この年から戦後の教育改革により6.3・3制が実施になり、新制中学は5年制から3年制となった。中学は義務教育となり、公立中学に入るのであれば学区により定められた学校に原則無条件でそのまま進学できたが、近くの公立学校はどこも荒廃していた。
立教学園の構内は周りが総て焼け野原になっていたが、幸い消失を免れ校舎も無傷であった。
私立であり入学試験が行われたが倍率は確か2倍弱で、出題内容も難しいものではなかった。私立であるから志願の内容や家庭環境、内申書などを重視したのかも知れない。
問題なく合格でき通うことになったが、この学校を選択した理由は極めて単純であった。
当時、教育方針などはどうでもよく、学校がきれいに焼け残り、家から近く徒歩で通えるという理由だけで選んだものである。
前述のように当時の交通事情はひどく、遠距離通学は避けた方がよいとの判断であった。結果的にはこの選択は間違ってはいなかった。
最大のメリットはその後、高校、大学まで苦しい「入試の体験」をしなくて済んだという点にある。私のような「勉強嫌い」にはうってつけの学校だった。

ただ立教学園の大方針である「キリスト教による一貫教育」が本当によかったかどうかは分からない。中学校での生活を述べる前に当時の社会の動きについて特徴的なことを簡単に述べておきたい。

1946年には「天皇人間宣言」が出され「農地改革」が行われている。1947年には日本国憲法が制定され直ちに施行され、1948年には極東国際軍事裁判の判決が下り東条英機等28名のA級戦犯のうち7名が処刑されている。占領国による各種の政策が着々と実行に移されていった。

池袋の闇市
敗戦の日から半年程度過ぎ、社会も少しずつ落ち着きを見せ始め、復興の機運が生じつつあったが、混乱状態は続いていた。しかし、配給される食料の中には米軍の物資と思われる粉乳、ピーナツだとかコンビーフの缶詰だとかが時折混じるようになっていった。たまには人間らしい食べ物にありつけることもあった。

しかし、アメリカによる無差別の絨毯爆撃の結果、首都東京は完膚なきまでに叩きつぶされ、復興は遅々として進まなかった。
学校の近くは丸焼けであり池袋の駅までバラックのマーケットが雨後の竹の子のように建ち始めいろいろな商売を始めるようになっていた。


豊島区郷土資料館ミニチュア
このようなマーケットは「闇市」とも呼ばれており、都内各地で次々に出現したが池袋の西口のそれは規模から言っても最大で、その後10年近くにわたって存在し続けた。今でも池袋は都内でも有数の危険区域だ。それはこのような無法なマーケットの影響がいまだに尾を引いていると考えられる。とにかくいかがわしいものであったが、一方非常にバイタリティがあり、商売人のしたたかさを存分に発揮して膨らんで行った。当時の物不足に悪知恵を働かせ一財産作った者もいたはずである。
犯罪の温床でもあり、中学生が出入りするような場所ではなく、当時は出入りすることはほとんど無かったが、ヤミルートで、どこからともなく集められた品物が売られており、飲食店も数多く出店していた。

ささやかな庶民の楽しみである酒に関しては、危険な工業用のメチルアルコールなどが平気で売られており、それを飲んだ人々が命を失ったり失明したりし、大きな社会問題になった。
もう一つの嗜好品であるタバコなどは簡単に手に入る可能性もなく、スモーカーだった父は大分参っていたようであったがそれでも止めようとしなかった。
当時「タバコ巻き器」というものが発明されていた。自宅で得体の知れない刻みタバコの葉っぱらしいものを紙に巻き、シガレットにする道具である。
これで一本ずつ丁寧に作り吸っていたが、タバコというものはこんなにしてまで吸いたいものなのかと浅ましい気がした。
駅やマーケットには「モク拾い」というプロ?がいてタバコの吸殻を拾っていた。進駐軍の兵隊が吸っていた外国タバコはラッキーストライクやキャメルが多かったが「洋モク」といわれ、最高級品で、この吸殻は貴重品であった。これで立派に商売が出来たのだからオドロキである。

この当時のインフレーションはひどく貨幣価値は毎日のように下落し、ありとあらゆるモノが足りなかった。
この当時、国債が紙切れ同然になり大損した庶民が多かったが、我が家でも大きな損害が生じたと聞かされた。生命保険なども実質パーになり、多くの人々の不信を買った。通貨の切り上げ等の措置も行われたが焼け石に水だった。

学校のこと
中学では小学校とは異なり、担任教師が専任の学科を受け持っていた。
一年生の頃のクラスは3組であり、担任は小林という教諭であったが彼の専攻は英語であった。
年は多分40台の半ば、背が高く、ひょろりと痩せて、首の長い英国紳士風のスマートな感じの教師であった。「保」という名前でタモッチャンと呼ばれていた。教師のあだ名はさまざまだった。数学の「赤トン」、国語の「クマ」、英語の「タコ」、物理の「ゲタ」などなどだが、風貌から連想されたものが多かった。

この学校は元来アメリカ人、聖公会宣教師ウィリアムズ主教によって、1873年(明治6年)に江戸幕府のキリスト教禁令が撤廃された翌年1874年、築地で開校されている。
後1918年に池袋に移転したが、既に1899年には中学になっており、歴史は古く、その後1907年に設立された大学までの一貫教育を売り物にし、開校時代の精神を受け継ぎキリスト教(聖公会)を教理の中心に据えていた。

戦前から英語教育に熱心との評判であり、英語の時代到来とばかりに力を入れていた。事実、英語教師の頭数も比較的そろっており、確かに教育は熱心であった。
中学に入っても、学業の方は中程度といったところであり、平均点は取るが図抜けたところはなかった。相変わらず目立たない存在であったが、特に問題点も無かったのか父母会などで担任から注意を受けるようなことは無かったと思われる。

当時の遊び
@鉄道模型
この頃、熱中した遊びは模型の電車つくりである。モーターを載せて線路の上を走らせるのであるが、今と異なり材料に乏しく、いろいろと工夫して作った。
神田に行くと模型店があり、数少ないながら部品を売っていたが今のミニチュアの精巧な模型とは似ても似つかない代物であった。買った部品は車輪、モーターの組み立てキット、連結器、ギァ程度で後は手作りだった。レールやトランスは買えず、近所の家で動かしていた。

レールのゲージは今はNが主だが、当時は確か45mmのGといわれるサイズだった。台車の部分は工作がしやすい木で作った。モーターも銅線を鉄心に巻きつけて作った。
電気をモーターに送るのには集電子とか云う部品を使ったと記憶している。一番苦労したのはモーターを縦に置き、動力を車軸に伝えることだが、これはウオームギアかベベルギアを使った。

近くに兼子さんという画家の家があり、そこの息子さんが私より3歳程度年上であったが彼が同じ趣味を持ち、いろいろ教えてくれた。因みに兼子さんは小柄でやや小太りの少年であったが、何をやらせても器用な人で、私が所属していた草野球チームのサウスポーのピッチャーでもあった。

今の模型は本物そっくり

彼の家には広い板の間があり、そこに手作りのレールを敷いて走らせるのだが、スピードのコントローラーは手元のトランスだけでコントロールするため、微妙なコントロールは出来ず、走行が不安定でありカーブでは脱線転覆の連続だった。特に連結した貨物車はよく脱線した。電源は家庭のコンセントから取り、トランスで電圧を20〜30ボルト程度に落としたが、よく感電した。
また、カーブではバンクをつけないといくら台車にウェイトをかけても横転することなどを知ることが出来た。そのお陰で電気の原理やモーターの仕組みなどを理解することが出来た。

この頃、小型のガソリンエンジンをつけた模型飛行機にも興味を持ったが高嶺の花であった。
後年、鉱石ラジオの作成を経て5球スーパーラジオの製作や更にはステレオのスピーカー、プレーヤーなどを試作したことがあり、一時かなり入れ込んだが、この時に半田ごてを使ったり配線をしたりしたことが非常に役に立った。いずれにしてもこのようなことに非常に興味を持った時期があったのは確かである。今でもあらゆる電気製品について、興味があり取扱説明書などを読むのはヘタな小説を読むより好きなのはこのお陰だと思う。

A草野球
この頃一番流行ったスポーツは野球である。
軟式野球であったが放課後や休日には学業そっちのけで暗くなるまで熱心に取り組んでいた。革のグラブを持っている者は少なく、ボールも粗悪なものが多かったが貴重品でいろいろな工夫をして遊んでいた。

始めた頃はグラブが無かったので母に頼んで布で作ってもらったが、やがて粗悪なものではあったがボツボツとスポーツ店の店頭に並ぶようになった。
何とか親を拝み倒してグラブを買ってもらい、それのアンコという内部の綿のようなものを加工したり、保革油を塗って皮を柔らかくしたり工夫してボールをキャッチし易くしたりした。
特に2〜3年生の頃は同級のT.M君とバッテリーを組んでいた。彼が投げ私が捕手として受ける立場であった。

このTM君は高校から大学まで硬式野球部に入り選手として活躍したが、当時は草野球のチームに属しており、いろいろな試合に出ていた。
私は同年代の少年としては背が高かったので、ファーストを守ることが多かったが肩がよかったので彼が投げるときにはよくキャッチャーを務めていた。サインはまっすぐ、カーブ、シュートの3種類後はコースを変えるだけだったが、コントロールは抜群で4球を出すことは殆どなかった。
彼はいわゆるボス的存在であったが、「ターちゃん」と呼ばれ親分肌で人気があった。私は彼とは性格も全く異なっていたがウマがあった。
彼の自宅にもよく遊びに行き彼の兄や母親とも懇意の仲であった。ま、当時は親友であったといってよかろう。大人のチームの対抗試合に2人で駆り出されバッテリーを組んだこともあった。
バッティングの方は、当たるとレフト方面に大きな当たりを飛ばしていたが、完全なプルヒッターだったため三振も多かった。肩は強く自分でも自信を持っていた。高校に入っても草野球やソフトボールは好きで、時々ゲームに参加していたが、硬式野球部から入部勧誘があったときは断り、その後野球からは遠ざかってしまった。

このTM君は立教高校では硬式野球部のエースであったが、その後進学した立大野球部時代はやや上背が足らず、球速も今ひとつ不足していたので、リリーフとして何回か登板した程度と記憶しているが定かではない。しかし、かつて立大野球部に所属していたピッチャーの球を受けていたことがあるのは事実だ。
ついでに、その後の彼のことについて若干述べておくと、卒業後大手ゼネコンのK組に入社し、確か常務兼ニューヨーク支店長まで昇進し活躍したはずである。彼とはその後音信不通だ。機会があれば是非再会を果たしたいものだ。

B読書江戸川乱歩に熱中−
親父が編集者であったためか本の類は数多くあった。大きな本棚には作家から寄贈された全集などが並んでいたが、よく読んだのは大仏次郎、江戸川乱歩、芥川龍之介、吉川英二、山手樹一郎氏等の作品だ。西洋の作家のものも数多くあったが殆ど目を通したことはなかった。

特に好きだったのは江戸川乱歩で10数巻ある全集を何回か読み返した。猟奇的な内容が多いというのでおふくろは余り良い顔しなかったが、禁止はしなかった。私が好んだのは明智小五郎や少年探偵団が活躍する「怪人20面相」のような子供向けの?物語ではなく、吸血鬼、盲獣、陰獣、闇にうごめく、一寸法師、屋根裏の散歩者?押し絵と旅する男、等‥オドロオドロしい作品だ。いくつかは映画化されているのでご覧になった方もおいでになると思う。アブノーマルなセックスを連想させる描写もあり、中学生には余り薦められる読み物ではなかったかも知れない。しかし今のSF小説や推理小説を超える面白さがあったのは事実だ。
但し私は本家本元?のアラン・ポオの作品は読んだことがない。この全集は黒っぽい金色の装丁で、本としてみた場合も独特な感じだった。

記憶では戦前から本棚にあったが、江戸川乱歩氏が我が家の近くに居を構えておられ、親父が仕事でご本人と何度か接触し、全集には自筆のサインがしてあったはずだ。今あれば非常に貴重な蔵書ということになるが、いろいろな理由で散逸してしまった。数冊残っていたが、総て家の改築の際、欲しいという人に差し上げてしまった。この時同時に親父の蔵書の大半は処分してしまった。
今、残っているのはある著名作家から親父が結婚のお祝いに頂いたと称する古い本棚だけだ。


昔の全集

チョッと意味ありげな挿絵
乱歩の記念館
豊島区長や立教大学が、本格的にこの事業に乗り出すことになった。
 当初、この記念館計画は財政難から、実現を危ぶまれた。しかし昨年の春先、小手調べという感じで開かれた〈江戸川乱歩展〉が、予想外の数の観客を動員して成功裡に終わったことから、事業推進に拍車がかかったようだ。
 新聞報道によれば、現在土蔵(いわゆる幻影城といわれている建物)を所有する立教大学が保存修復工事を行ない、近く、記念館を完成させる方針だという。これが実現すれば、日本の本格的推理小説草分けの江戸川乱歩の足跡が、余すことなく保存されることになる。
また、この8月末には池袋界隈で大々的な乱歩イヴェントが開かれるようだ。蔵の解放、展示会、講演会、映画作品の上映などだがいずれも面白そうな企画なので見学してみたい。


江戸川乱歩

★池袋東武デパートにあったチラシからコピー

声変わり
中学生になると声変わりという肉体的な変化が現れる。少年から男へと変身する思春期の訪れである。早い者では1年生頃から遅くとも3年生になると殆どの生徒が声変わりする。そして人によっては男性ホルモンが活発になり、ニキビがポツポツ顔に出てくるようになる。この時期の特徴は身体的な急激な成長があり、内分泌の変化に伴う第二次性徴の出現がある。この時、自分の体の変化に戸惑いながら大人の性を受け入れて行くのである。具体的には同性の大人、つまり親や教師、先輩などと同一化して大人の性を引き受けてゆくことになる。

思春期の始まりであるがそれと同時に総てが男っぽく変わってゆく。別の言い方をすれば「春に目覚める」頃を迎えるのである。私は体が大きい方でこの頃は背丈だけはクラスでも5本の指に入っていたが、いわゆる早熟と云われる部類とはいえなかった。
確か2年制頃から体の方は急に大人っぽくなっていったと記憶している。
この頃の肉体の成長振りは目覚しいものがあるが、精神の方がその変化についてゆけず不安定な心理状態に陥ることがある。自立と依存との葛藤や自意識過剰と劣等感が混在している時期でもある
無知なるが故に、男としてのセックスに戸惑いを感じたり悩んだりする始まりであるがこの辺のことについては記述するのは非常に難しい。簡単に言えば性欲が非常に高まりをみせ、そのことにより、闘争本能のようなものが顕在化してくる。
またこの時代は「恋に恋する」年頃でもある。夢が多いのは良いのだが、異性に対しての関心が非常に高まり、現実離れした夢想に近い感情を持つ年頃でもあった。

戦後の流行
戦後の社会の風潮の変化は誠に驚くべきものであった。風俗にも大きな変化が現れた。
自由主義、主権在民、男女同権、言論の自由が叫ばれ、戦時中の為政者による統制とか統治は全く姿を消し、すっかり様変わりした。

娯楽は映画全盛の時代であったが、ストリップショーが始まりだし、世の中の男は夢中で見に行ったものである。日本にはレビューが戦前にはあり、確か日劇でラインダンスなどを興行していたはずだが勿論戦時中は行われていなかった。
カネさえ出せば女のハダカがおおっぴらに眺めることが出来るというので大人気であり、話題が絶えなかった。男で女性のハダカに興味を示さないものは居ないのだから当然である。当時映画やストリップショーは浅草がメッカであったが、日本中でストリップショーが行われ、多くの男たちが鼻の下を長くして、劇場に足を運んでいた。とにかく日本ではそれまで女性のハダカを、金を払って見るなどということは出来なかったが、戦後外国からの影響や自由の気風もありこのようないかがわしいショーや夜の女による売春行為が盛んになる一方であった。

大衆音楽などにも大きな変化があり、軍歌から歌謡曲全盛の時代となったがジャズの要素を取り入れた軽快なスゥイング調のものがもてはやされた。
代表的な歌手として笠置シズコのブギウギが一世を風靡した。また、シンフォニックジャズなども流行り、アメリカの横文字文化が浸透した。中学生にもなるとこのような風潮に無関心でいられるはずも無い。たしか3年生の卒業を目の前にして、春休みに「ターちゃん」の引率で10人ほどの仲間と横浜までストリップを見に行った記憶がある。勿論親には内緒である。
この時女性のハダカ踊り?を生まれてはじめて見たわけだが驚いた。コーフンするというよりビックリ仰天したと云うべきだろう。
この頃の交通手段の一つとして「輪タク」という乗り物が流行っていた。自転車の後に人力車の座席をつけたような乗り物だった。
戦後復員した人々で都市部の人口が急増したが、一方で公的な交通機関の復旧が間に合わず、その谷間をこのような面白い乗り物が埋めたのだった。
結構遠いところまで走ったらしいが、駐留軍の兵士なども面白がって利用したようだ。その頃都内には約4千台が走っていたが、20年後の東京オリンピックの時にはたったの3台になってしまったという。
ベロタクシー(自転車タクシー)
最近京都、東京などの一部でまた「輪タク」が走り出した。これはスマートで可愛らしい乗り物だ。距離にもよるが300円〜500円程度で狭い路地でもスイスイ進むし、のんびりしているので人気があるそうだ。仕組みは輪タクと全く同じだが、基本的な発想は全く異なっている。"VELO"とはラテン語で自転車の事らしい。ベロタクシーは1997年ベルリンで誕生し、日本では2002年京都で初めて商売を開始したそうだ。うたい文句は「子供からお年寄りまで幅広い人々の気軽な足として利用でき、街中でありながらレジャー気分が味わえ、街の空気、季節感を体感できる楽しい乗り物」とある。
そういえば浅草などで走っている「人力車」も人気があるらしい。

コワイ教師の思い出
3年になると担任が大沢という若い教諭に変わった。この人は社会科が専門であったが教師としての経験は浅く、殆ど印象に残っていない。
中学時代に最も印象に残った教諭は露木という英語の教師であった。彼は別のクラスの担任であったが前評判で非常にコワイ先生だということあったが矢張りその通りだった。

彼は小柄な体格であったが猫背で年は40代の後半と思われたが、長髪で頭のてっぺんはかなり薄かった。黒ぶちのメガネを掛けていたが、眼光が鋭く一見するとひどく陰険に見えた。実際彼が笑ったことは殆どなく、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
性格は暗く、物言いはねちねちとしていた。健康状態が悪いようでいつも顔色がよくなかった。英語の中でも彼の得意は文法とか英作文であり、リーディングなどでの英語の発音はお世辞にもうまいとは言えなかった。(当時の英語教師はみな発音は下手)

彼の授業は予習が欠かせなかった。無差別に生徒を指名し教科書のセンテンスを読みあげさせ、その後和訳しろというのだが、意訳はノーで総て直訳させた。


遠足?(露木教諭は最前列右から5番目

従って単語を英和辞典で引いて、訳の分からない日本語に直訳するとニヤリと笑い、OKが出たが、この頃アンチョコという既に意訳された本などが出回っており、それを基にして訳すとこっぴどく怒られた。彼の基本的なスタンスはあくまでも「基本に忠実であれ」というもので、応用は総て基礎の上に成り立っているというものでありこの考え方を貫いていた。エライ教師だ。

私は小学校時代を通して、これまで殆ど予習復習はしたことがなかった。教科書はカバンに総てを入れっぱなしにしておいた。授業中にキチンと理解すれば、時間をかけてそんなことをする必要はないと考えていたからである。それでもまあ平均点は取り、クラスでは中位にランクされていたからである。
元々勉強は大きらいであった。教科書ぐらいつまらない読み物はこの世の中にないと思っており、特に暗記物は全く興味が湧かなかった。よく英語の単語などをカードに書き込み裏に和訳をしたものをポケットに入れて休み時間でも一生懸命暗記している生徒がいたが、フンと鼻の先でわらっていた。
数学で公式や数式を覚えるのは別にして、化け学で記号を覚えたり、歴史の年譜を覚えたりすることは苦手中の苦手であった。他方計算したり実験したり工作するのは大好きだった。
しかし、彼の授業で突然指名されシドロモドロになったりすると、皆の前で「バカモノ!」とこっぴどく罵倒されるので、予め調べてから授業に臨むようになっていった。ただ辞書を引くのが面倒くさく例のアンチョコで済ましてしまうことも多かった。
指名されて立ち往生するようなことは無かったので、彼からくそみそに罵倒された記憶は無く、テストなども平均点は取っていた。テストは毎週のように行われていたが特に難しいと感じたことはなかった。
要領はよかったが基礎学力は大いに欠けていた。特に読み書きの能力が低下していたがこのことは後年総ての面で大きなマイナスになった。国語は総ての科目のベースになるからだ。当時は小学校高学年時代にキチンとした基礎学力を身につけることが出来た者は多くはなかった。戦争末期で教育界も混乱し一番大切な時期にブランクが出来たのである。
中学時代にキチンとした国語の理解と能力をつけておけば‥と後年非常に悔やんだが後の祭りだった。

出版業の倒産
戦後の混乱状態のうちに中学生活も終わろうとしていたが、家庭生活では忘れられない大きな出来事があった。
戦後親父は勤めていた出版社も壊滅状態になり、特に紙そのものが無くなっていた為、この業界も大ピンチになっていた。しかし、彼はこの機にナント出版事業を自ら起したのである。一儲けしようと考えたのかもしれない。昭和22年(1947年)頃のことだ。

戦後の言論・表現の自由により、新興の出版社が雨後の竹の子のように出始めていたが、その多くはカストリ雑誌といわれたエログロを売り物にした雑誌であった。
今でも雑誌等でセックスを売り物にしているものが沢山出回っており、殆どは写真でズバリ表現されているが当時はグラビアなどは少なく、三文小説の形で読者の歓心を引こうとしていた。当然内容はセックスを描いたものであったのは云うまでもない。雑誌といってもひどくお粗末なもので、紙はセンカ紙と呼ばれるザラザラの灰色かかった粗悪な紙でページ数も少なかった。

しかし、大衆文化に飢えていた人々は、平和になり、戦争の恐怖から開放されると、このようなものにいち早く飛びついたのである。特にエロ・グロを売り物にした出版物はよく売れた筈である。
親父が出版を始めた雑誌のネーミングは「日本ユーモア」であったと記憶している。
名前が示すようにエログロを売り物にするのではなく比較的健全な読切小説と連載もので誌面を構成していたようだ。資金は何がしかの蓄えと家屋敷を担保に入れた借金で賄ったようだ。

社名は覚えていないが、自宅の一室を編集室にして雑誌造りをしており、2名の社員が働いていた。完全な零細企業で、彼等3名で原稿とり、広告取り、編集、雑誌の取次店への営業等一切を取り仕切っていた。繁忙時に女性のアルバイトがいたこともある。自称作家と称する得体の知れない連中が大勢出入りし、母はその接待等もありこのような環境をひどく嫌がっていた。2名の社員はSさんMさんと云い、かつて親父の部下として働いていたが、何故か親父を慕ってこんな危ない零細企業で働くようになったと聞いていた。
面白いのは表紙を毎月画家に依頼して8号位の油絵で丁寧に描かせていたことである。殆どが美人画であったが写真などでは表現できない美しさがあった。しばらくの間家に残っていたが総て散逸してしまって今は残っていない。
この雑誌がどの程度の発行部数であったのかは分からないが、事業を始めてしばらくは順調であったようだが、その後強敵が次から次へと現れたのと内容がまじめすぎるとの理由もあり、経営は徐々に苦しくなっていったようだ。当たり前のことだが、何でも売れなくなればオシマイである。

やがて売れ残りの返品の数が多くなり、にっちもさっちもゆかなくなり雑誌社は倒産解散に至ったものだが、その前後は大変だった。取次店への売り掛け代金の回収も思うに任せず、特に連日のように押しかける債権者への対応で神経をすり減らしたと思われるが、このときに蓄財や金目のモノを総て手放すことになってしまった。住んでいた家は何とか確保して、家を追い出されることだけはかろうじて免れることが出来たがその後の生活は大変だった。

この時のショックで母は半病人になり、その後もこの失態で永い間、親父を恨み続ける一生を送ることになったのだ。気持は十分すぎるほど理解できる。この事態が発生したのは中学卒業の年だったと記憶しているが、或いは高校に入ってからだったかも知れない。しかし、なんだかんだと言ってもその後、我々兄弟3名、学校通いを続けることが出来たのだから、親に感謝しなければならないだろう。★雑誌の中身はここをクリックして下さい。

中学の卒業時のことは全く記憶に無い。花房校長がいつものようにひどくもったいぶった調子で式辞を述べたこと程度である。
写真を見ると着ているものは質素だが顔つきは皆明るく、無邪気のように思える。
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