金のシャチホコ
<名古屋・残酷物語>
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金のシャチホコ
脅された日々
長良川の氾濫
悲しい出来事

1975年(昭和50年)4月に名古屋市に転勤した。ここでもいろいろなことがあったが、「楽しかったこと」や「遊びのこと」は殆ど思い出せない。

今でも強烈な印象として、残っているのは毎日、朝から晩まで仕事を通して無法者に「脅された」という思い出ばかりだ。この面から云えばはなはだ印象がよくない。私にとってはとてもコワイ土地柄だった。

しかし、前任地の北海道の時代が「楽しいお遊びの時代」だったとすると、名古屋では、仕事の面で大変よい体験が出来た。苦しい日々だったが、仕事らしい仕事が出来、ビジネスの厳しさを、身をもって体得できたと感じている。
ここでの厳しい体験は後々の仕事に非常に役立った。


2度目の地方転勤


名古屋城

御園座

地下鉄?
既に40歳の坂を越えていた。サラリーマン出世の登竜門?である「カチョーさん」の辞令もらって赴任した。配属先は名古屋支店であった。仕事は相変わらず事故係であったが、自動車の事故処理がメーンであった。転勤については全く抵抗感や心配はなかった。既に地方生活は体験済みであり、むしろ新天地でいろいろなことが出来ると思い期待感で胸が膨らんだ。

転勤当日のことは良く覚えている。当日同じ時刻の新幹線で転勤する予定の社員が私を含めて3名いた。本社時代大変お世話になった同じ課のO氏と後輩のM社員であった。
Oさんは静岡、Mさんは広島に転勤することになっていた。
列車が東京駅を離れると3名で示し合わせたように食堂車に集まり、お互いの健闘を祈りながらビールで乾杯した。O氏は静岡でおり、やがて名古屋に到着した。
社宅は地下鉄東山線の「一社」という駅から歩いて数分の所にある、2階建ての共同住宅だった。新築したばかりの建物で「シャルダン亀の井」というしゃれた名前がついた小型のマンションだった。街の名前は「名東区亀の井」という場所で、市の東部に位置し、東名高速道路のインターチェンジがあり、名古屋の東玄関となっていた。

辺りはマンションや住宅が立ち並ぶ環境の良いところだった。ここは新興住宅街で東山線の終点である藤が丘までは程近かった。一部分は地上を走るユニークな地下鉄東山線沿いは、活気にあふれ、終点藤ケ丘は、郊外の落ち着きとファッショナブルな都心の機能を併せ持った街だった。一方、幹線道路を少しはずれると、自然を生かした起伏に富む静かで明るい、市内でも屈指の住宅地が広がっていた。
勤務先は地下鉄東山線の伏見駅の傍のビルだった。ここはある大手都市銀行のビルだったが、オフィスはその2階にあった。広い交差点の角に位置し、通りの向かい側には歌舞伎等で有名な「御園座」が位置していた。名古屋駅や繁華街の栄にも近く、大変便利でしかも落ち着いた雰囲気のオフィス街だった。

金のシャチホコ

名古屋城の天守閣に光り輝くシャチホコはここのシンボルだ。
説明するまでもなく徳川御三家の城下町であり、名古屋大都市圏の中心拠点都市だ。江戸時代は御三家筆頭・尾張藩の城下町。戦後は100メートル道路など大規模な都市計画を推進してきた。特産品は有名なところでは、きしめん、守口漬、ういろう、みそ煮込みうどん、名古屋コーチン、天むす、豆味噌、等等だが正直言って余り美味いものは見当たらない。
この中であえて云わしていただくと、栄にある山本屋の「味噌煮込みうどん」は、なかなかうまかった。この地方の味噌は八丁味噌といい、黒色に近い茶色の甘みと、こくのある味だがこれをベースにした、こしの強いうどんの煮込みだ。

名古屋名物

具に入っている名古屋コーチンの鶏肉がうまく、昼食や一杯飲んだ後、締めくくりによく食べた。
煮込み用の土鍋のふたに穴が開いていない。熱いのでこのふたをお皿代わりにして食べるのだ。なかなか合理的だ。値段は比較的高かったと記憶している。
八丁味噌を使ったもので「味噌カツ」だとか「どて焼き」とか云う味噌料理もあったが今ひとつピンと来なかった。

名古屋は歴史のある都会で中京経済の中心でもあり交通網も発達し、地元は勿論のこと、周囲に観光名所も多い。白川郷、飛騨高山、平湯、乗鞍岳、下呂、三重の伊勢志摩、神宮、賢島、その他木曽御岳や周囲の温泉などは、比較的近く、どちらも素晴らしい。観光地の印象は薄いが、各地のお城と神社はいずれも古い歴史や由緒のあるものばかりで
、非常に印象に残った。特に木曽川沿いの断崖絶壁に聳え立つ犬山城は、スケールこそ大きくはないが、周りの景観に溶け込んで真に優美だった。


熱田神宮

犬山城

伊勢神宮

また、ゴルフコースも日本でも有数のチャンピオンコースが各所に点在しており、どちらも一流だったと思う。何箇所かでプレイした覚えがあるが不思議なことに、いずれも印象が希薄で殆ど名前を覚えていない。

ただ、社宅から程近いところに「東山ゴルフコース」と春の中日クラウンズで著名な「和合コース」というゴルフ場があったのは覚えている。
プレイも何回か行っている。

右の写真は大学の先輩社員である。

木曽駒カントリー?

代表する企業は、今や世界に冠たる超優良会社に発展した「トヨタ自動車」であり、その傘下の各企業が集まり、一大経済圏を成していた。また、トヨタ以外にも堅実経営を誇る企業が集まっていた。
市内の道幅は広く、いかにも自動車中心の都会という印象であった。ただ街全体に緑が少なく東京に比較すると何となく殺風景な感じがしたのも事実だ。

名古屋の四季について特徴を挙げると、冬は「伊吹下ろし」という風が冷たく、寒いが、夏は異常なほど蒸し暑い。表現が下品で恐縮だが「クソ暑い!」という言い方がピッタリだ。
とにかくエアコンのスイッチを切った途端に汗が吹き出てきて体を伝わるように流れ落ちる。この暑さには閉口したが、2年目になると体も慣れてきてさほど感じなくなってきた。
北海道で快適な夏を過ごした後、東京へ転勤となった年にもその暑さには参ってしまったが、人間は環境への順応性が高いらしい。

当時から経済合理性は非常に進んでいた。商売のやり方はシビャーだ。ここで営業が一人前に勤まれば全国どこへ行っても通用するといわれていた。バブルがはじけ、誰もが安くてよいものを選ぶ時代になったが、当時から安くてよい物を見極める鋭い眼を持っているように思った。何かを買うとき必ず「安くしてくれ」と値切るのだがこれは一種の挨拶みたいな感覚で使っていたようだ。よく名古屋人はけちだといわれる。確かに経済観念は発達していたが、いわゆる吝嗇ではない。カネの使い方をよくわきまえ普段は締めても使うべきときには使っていた。
だから今のようにデフレの不景気な時代になってもビクともしないのだろう。日本で一番元気があるのは名古屋でありそれを取り巻く経済圏だ。
流行や建前だけを重んじ、カッコウだけつけたがり、衝動買いに走り、ズルズルと無駄なものに金を使う私のような「バカ」にとっては、いい勉強になったと思っている。もっともなかなかマネは出来なかったが‥
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脅しにあった日々
名古屋時代のことは仕事抜きで語ることが出来ない。当時名古屋支店管は岐阜、三重両県を管轄していた。
いずれも岐阜市と津市に出先の損害調査のオフィスがあり管理責任者は私だった。総勢20数名を束ねる役職だった。週に一回の割合で出張し、業務点検、社員指導、コミュニケーションの維持等に当たっていた。
いずれも名鉄や近鉄で1時間程度の距離なので日帰りが可能だが、月に一度程度は宿泊することもあった。こんな状況の下で「脅される日々」が始まったのだ。

最近でも自動車保険金の支払を巡る詐欺、恐喝、殺人事件などは頻発しておりマスコミを通して毎日のように報道されているが、当時は商売柄、私の周りでもこのような事件が日常茶飯事のように繰り返されていた。従って、通常の業務以外に、これらの不正、不当請求、恐喝、威力業務妨害、等の対応に明け暮れる日々であった。


このことは何も当社だけの問題ではなく同業各社共に対策に頭を痛めていた。ここで一つ一つの手口について説明しても意味がないのでやめておくが、一般的によくある手口は外車(当時はアメ車が殆ど)を乗り回し、接触されたと称して法外な対物の損害賠償金を加害者に請求することだった。ホンのかすり傷でも、全塗装の要求があり、修理では「元に戻らないから新車をもってこい、同じ外車の代車を手配しろ!」などだ。外車の事故は正に鬼門だった。
また、追突事故の{むち打ち症}の介入をして、法外なホケンを請求する事件も少なくなかった。彼等自身が事故の当事者になる事は勿論、身内の者や親兄弟、の事故の示談介入をしてくるケースが多かった。鞭打ち症の場合は悪徳病院と結託して、入院を長引かせ法外な賠償金を要求していた。

当時この地方では広域暴力団××組が幅を利かせており、ホケン屋は多かれ少なかれ被害に会っていた筈だ。同業責任者等の集まりが月一回程度開かれていたが、話題はもっぱら脅しへの対処策であった。皆被害に泣いていた。
支払を拒否できればこんな簡単なことは無い。それが出来ないから問題になるのだ。彼等は「脅しのプロ」でありそのテクニックは非常に長けていた。
怖がるように仕組むのが仕事だから、実に巧妙であり、脅される方はとてもコワイ。言葉での説明は難しい。その怖さは体験した者でないと分からないだろう。脅しの手口等は、ほぼ共通していた。事実の一部については別項で述べることしにし、ここでは省略するが忘れられないことがある。
実は私が散々脅されたある組員が2名も、暴力団の抗争で射殺されたことが新聞に載った。

この新聞記事は名古屋を離れた後、転勤先に同僚だったK氏から「貴方が散々苦しめられた○○が射殺された云々」と、コメント共に切抜きが送られてきて初めて知ったことだが、改めてその怖さを思い知らされた。

その内の1人をAとよんでおこう。彼は朝鮮総連系で、私との交渉の際、必ずかつての日本軍による虐待の話を持ち出し、私に対して「同じような目にあわせて仇をとる」と脅した。真に筋違いな話であり、そんな理屈は、常識的に通用はしないのだが、彼等の言い方は有無を言わせないど迫力と妙な説得力?があった。日本が朝鮮半島を統治していた時期にどんなことが行われていたのかは私には知る由もない。

しかし、同席していた年老いたAの母親が涙を流し、私をなじり、絶叫する様を目の当たりにしたときの怖さは口では到底言い表せない。これは相手の巧みな演出かもしれないが、体験した者のみが理解できる恐ろしさだと断言できる。数回にわたり威嚇的な罵詈雑言をを浴びたがその時の怖さは、いまだに忘れることが出来ないでいる。「人格の否定」どころか、踏みにじられ、引き裂かれたような屈辱感と恐怖は、決して忘れることが出来ない。
このこと以外にも軟禁され恐怖の余り、不覚にも失禁してしまったことや、夜中自宅に何度となく電話で、家族が震え上がるようなことを云われたりと‥数え上げればきりがない。

今思っても本当にコワイ土地柄だった。理不尽な「脅し」にあうというのは、心に大きなダメージを受けるものだ。一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)?として何時までも残った。
彼等が抗争事件で射殺されたことを新聞で知ったときは、ほっとしたということより、やりきれない気持のほうが強かった。

ヤクザモノから褒められた?
このような脅された体験は枚挙にいとまが無い。今から思うとずいぶんヤバイ連中ときわどい交渉をしたことになる。だがヤクザモノに一度だけ「お前は度胸があるな‥」とほめられた?ことがある。ある幹部と単身で向き合ったときのことだ。
私はその時、話し合いの条件として1対1を主張し、子分を同席させないのなら話し合いに応じてもよいと提案し、相手がそれに乗ってきたのだ。彼の事務所?であるマンションの一室だった。彼はすらりと背が高く、浅黒い精悍な顔つきでその目は暗く沈んでいるように見えた。言い方は静かだったがなんともいえないコワサがあった。
話し合いが終わったとき彼から「名誉なお言葉??」を頂戴したのだった。
1対1で話し合うと相手は意外に静かなことがある。単身で出向くのは一見無謀なようだが、私は心配して同行してくれた社員に外で見張らせ、1時間以上経過したり、何か異常を察知したらすぐ110番するように指示しておいたのだ。
★職場の人々は心の支え
当時私は保険金支払責任者だったので、コワーイ人たちの矛先はどうしても、こちらに向かってきて逃げようがなかった。勿論、上には支店長がいたが、体を張ってでも彼を表に出すようなことがあってはならなかった。当然のことだ。
私が窮地に陥ったとき、心の支えになってくれたのは同僚や上司だった。当時、社員は粒揃いで、皆が団結し、一緒になって応援してくれた。どんなに助けられたか分からない。いくら感謝してもし足りないくらいだと今でも思っている。


頼りになるのは警察だけ
その頃よく愛知県警本部捜査二課のお世話になった。所在は名古屋城に近い中区三の丸の官庁街に位置し、暴力犯でも知能犯を中心に取り締まっていた。このような暴力、恐喝、威力業務妨害等を排除できるのは警察権力だけだ。


県警本部
私は捜査2課の窓口に頻繁に顔を出し、具体的な案件について対処方法に関するアドバイスを受けていた。それと共に当方の情報も積極的に提供するようにした。おのずと人間関係も出来、コワーイ相手との交渉の際、かなり詳しい情報をキャッチできるようになり、それが非常に役立った。
また、バックには警察権力がついているという、心の支えが大きかった。
ある年の暮、県警の警察官数名がオフィスを訪問してくれた。年末警戒に当たっていたらしいが彼等は私に向かい「Mr.Sashikataが脅されていないか心配なので立ち寄ってみた‥」と云ってくれた。
この時は他の社員が皆驚いていたが、私にとっては心強くうれしかった。

とにかく愛知県警本部の刑事の方々には大変お世話になり、今でも心から感謝している。こんな事件が多発し、その後ホケン業界でも自己防衛のため地区の対策協議会が発足し、業界全体の問題として情報を共有化し、組織的に対抗するような機運が生まれてきた。同業者の集まりでも論議が深まっていった。
★上掲写真と左のイラストは県警のHPのものを転載(イラストは県の鳥のコノハズクを模した警察のシンボルマスコット)

転勤3年目頃から少しづつその効果が現れ始めた。このような組織的な暴力に対しては業界としての組織的な取り組みが必要だと痛感した。
また、散々脅されると「脅し」に免疫が出来る。少し度胸もつく。こわい事はコワイのだが、舞い上がるようなことはなくなっていった。
場数を踏むと体験の積み重ねで、こちら側も相手の出方が計算でき、落としどころが分かるようになっていった。当時「暴力団対策法」はまだ施行されていなかった。
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長良川の氾濫
愛知、三重県は1959年(昭和34年)に、伊勢湾台風という、どでかい台風がこの地を直撃し、記録的な風雨を記録し、お隣の岐阜県と合わせて死者5000名に及ぶ大きな被害を受けた。長良川や木曽川の決壊、氾濫で大洪水になり多くの人々が亡くなった。
長良川は最近では河口堰のことが、かまびすしい。前記水害から数回にわたり洪水は発生したらしいが、転勤の翌年、大きな台風に見舞われた。1976年(昭和51年)9月のことだ。台風と停滞していた前線が重なって、豪雨が一週間にわたって続き、長良川の右岸が安八町内で決壊した。 安八町や墨俣町の3000戸が水浸しになり、28万人が被害に遭つた。 特にこの地方は海抜ゼロメートル地帯なので、自然に水がひくまでに時間がかかり、大きな被害になったのだ。
この時、岐阜県では豪雨が一週間も降り続き、総降雨量は800ミリにも達し、県を流れている長良川が決壊したのだった。この川は普段は鵜飼が行われている清流だ。被害は主に岐阜県南部だったが、死者こそ少なかったものの、記録的な豪雨で床上浸水の家屋は10000棟を超えていた。大きな水害だった。この時は約2週間にわたり、岐阜市〜美濃市〜関市にかけて泥だらけになった水害地を調査して回った。風水害ホケンの損害調査であった。人手が足りず、管理者だった私も現場に足を運び、一担当者として実務に携わったのだ。


風水害保険
建物や家財に対し風災や水害で一定の損害を受けたときに支払われる保険のことで、住宅または店舗に「総合保険」をかけておけば、水害の場合、床上浸水になったとき、損害の割合に応じて、契約保険金額の5%から70%を支払うことになっている。災害現場でその損害割合を見極めるのが損害調査である。

私は商売柄、火事の現場は何度も体験しているが、風水害というのは本当に恐ろしい。長良川に架かる橋を渡るとき眼下に流れる川を見た。
ものすごい濁流が川幅一杯に広がり決壊した個所で渦を巻いていた。清流の流れる広い川原は全くなくなっていた。

過去の台風による大災害時に、助っ人として九州や広島に滞在し、保険金の支払業務に従事したことがあるが、大水害の直後、こんな大規模な災害現場を目の当たりにしたのはこの時だけだ。水が引くのを待って、契約者の家を何軒か訪ねた。
地理に詳しい現地の営業社員や代理店の案内で、行けるとこまで社有車で行き、後は徒歩だった。9月の日中はまだ暑かった。太陽はじりじりと照りつけ、たっぷり水を吸った大地からは湿気と異様なニオイが立ち上っていた。糞尿と殺菌のために撒いた薬の入り混じったにおいだった。アタマがくらくらし、不快指数は正に200パーセントだ。

天井近くまで水没した家は殆ど例外なく、家財道具はおろか、たたみ建具などは跡形もなかった。皆流されてしまったのだ。壁もなくなり、がらんどうの家の跡だけがかろうじて残っていた。水害現場というのは真にヒドイものだ。
飲み水もなく食事をする場所も全くなかった。半日近く泥海の中を這いずり回り、お昼に市内に車で戻り食事をとろうとしたが、ニオイと疲労で、食欲もなく、ろくにのどを通らなかった。

こんなことを2週間ほど繰り返し、何とか目鼻をつけた時はホッとしたが、溜りにたまった疲れがドッと出た。だが休むまもなく次から次にと保険金の支払業務に追われ正に不眠不休の日々が続いた。一段落ついたのは10月を過ぎ涼しくなってからだ。この時は我ながらよく頑張ったと思う。疲れ果てたが充実感で一杯だった。
この時のことは当時本社からの求めに応じ、かなり詳しくリポートした記憶がある。そしてそれが記事にまとめられ、全国に回覧されたと思う。

いろいろなところを回っているうち「輪中堤」(わじゅてい)という、構築物があることを知った。これは、木曽川・長良川・揖斐川流域のみに見られるもので、ある特定の区域を洪水から防御するためにその土地の周囲を囲って造られる堤防のことだ。

先人の素晴らしい知恵だが、この時の大水害のときこの中だけは無事だったと記憶している。
提内には石垣の土台の上に建てられた水屋という一段と高い建物があり、中には生活必需品、軒先には避難用の小船までつるしてあった。昔からこの地方を襲った水害対策の一つとして、住人が開発し苦労した治水の様子を、うかがい知ることが出来た。

★2004/07/22 更新記述
先週の梅雨末期の集中豪雨で新潟、福島、福井県などで大きな水害が発生したのは既にご存知のとおりだ。そのすさまじさ、被害の大きさ、泥海の中で懸命に生きようとする人々、ボランテアの活躍など‥新聞やテレビで連日のごとく報道されている。
当然損保や共済保険関係者は、現在、対応に追われているだろう。 私もホケン屋OBの、はしくれなので他人事ではない。 
一日も早い災害復旧と損害保険金の即時支払を強く要望するものである。
 関連するサイトを一つご紹介する。      ●リンク先: 防災システム研究所の豪雨の教訓

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悲しい出来事
配下にM君というまだ20代後半の若手社員がいた。彼は三重県津市のオフィス勤務だったが、技術アジャスターと云い、自動車物損事故の調査や損害見積に従事していた。ある自動車販売会社のサービス部門の出身で、損保協会の2級資格試験にも早々と合格し、活躍していた。人柄は明朗闊達、行動的で仕事が出来る将来が楽しみな社員だった。ある時、急に体調を崩し、入院手術だという。病名は進行性の消化器系の癌だった。

一応手術は成功したと聞き一安心した。しかし、その後程なく再発し、三重大付属病院に再入院した。
回復は思わしくないと聞き、病院に彼を見舞った。事前に担当医と面談したが、進行性の癌であり、残念だが死は時間の問題だ‥と云う意味のことを話してくれた。ビックリすると共に暗澹たる気持になった。

病室で彼にあったとき既に夕暮れが近かった。彼は私の手を握り「私はもうダメです」と言った。私は努めて明るく振舞い励ましたが、彼の目は暗く沈み、何かにすがりつきたいような様子だったのを、いまでもはっきり覚えている。

数日後に彼は若くして亡くなった。発病後半年も経っていなかったと思う。葬儀のとき地元の社員から「壮絶な最後だった」と聞いた。大きなショックを受けた。現役社員が若くして亡くなるケースはないわけではないが、自分の部下にあたる社員の死に直面したのはこの時が初めてだった。
健康管理は社員各人が自己の責任で行うべきものだと思うが、管理者として仕事のやらせ方に何か問題はなかったか‥ もっと早く気づけば‥等とその後かなり悩んだ。
M君には、まだ若い奥さんと幼児がおり、胸の内を思うと「さぞかし無念だったろう」と今でも時々最後に会ったときの顔を思い出すことがある。
私に何か出来ることはないのか‥と思いを巡らしたが大したことは思いつかなかった。ただ最悪の場合を想定し、予めあることを企んでいた。それを実行に移し、結果的には遺族にとって若干のプラスにはなったと思うのだが‥

体調に異変
もともと体は極めて頑健で、それまで病気らしい病気はしたことがなかった。仕事大好き人間だったが、この頃からしばらくして今まで感じたことがない徒労感や得体の知れない強迫観念、不安感、手や足に冷や汗、激しい動悸、不眠、悪夢にうなされる等に襲われる様になった。不安を紛らわそうと仲間や親しい代理店さんと毎晩のように飲み歩いた。酒を飲んでも心地よく酔えなかった。
診察を受けたが、これといった病気は見当たらず、原因は疲労の蓄積でしょう‥との診断だった。今考えてみると、確かに連日のように発生する脅しに参っている最中に、超多忙な台風災害処理、社員の死などが重なって精神的におかしくなったのだと思われる。完全に、自律神経失調かノイローゼ、軽い鬱?になっていたと思われる。
そんな状態が数ヶ月程度続いたような気がするが、このような不調もいつの間にか脱することが出来た。この間、これといった治療は行わなかった。
今から思うとこの時はサラリーマン時代に於ける最大のピンチだったかも知れない。

またもや転勤
3年目の2月過ぎに支店長から人事異動の意向打診があった。
当時の支店経営者はK氏という方で後に経営トップに躍り出た人物だったが、ある日彼からこんな話を聴かされた。
「君は長い間主として支払業務に従事してきたが、営業を体験して新天地を切り開いてみる気はないか?」と‥
願ってもないことだった。それまで人事異動補正票希望意見の欄にはいつも「どこでも可、何でも可」と書いていたので即座にオーケーした。
私はそれまで永年の間、営業不向きのレッテルを貼られていたのだと思う。それはあながち間違った見方ではなかったかもしれない。頑固で理屈っぽい、無愛想、融通が利かない、何でもストレートにモノを云う‥などの欠点は自分でもよく自覚していたからだ。K氏はよく思い切った決断をしてくれたと今でも感謝している。
やがて人事異動の内示があり、新年度から茨城県の日立市に転勤が決まった。今度は営業職だった。支払屋から稼ぐ方に180度方向転換することになった。
正直云ってこの地と「おさらば」できることの方がうれしかった。
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<愛知万博>
私は30年を超えるサラリーマン生活の中で4箇所の地方都市を体験している。いずれも3年〜4年程度の生活体験がある。いずれも現地には知人友人も居り、現役卒業した後、仕事で再訪問した以外に、フライベートの遊びや会合でかつての地を訪れることもある。だが、名古屋だけはプライベートで訪問しようという気持にはならなかった。暗く、イヤーナ思い出ばかりだったから、総て忘れたいと心の隅で思っていたのかもしれない。
来年3月から半年間、私が住んでいた場所に比較的近い長久手から瀬戸で、愛知万博が開かれるという。
これを家内と一緒に見に行こうと思い前売り券を買った。かつて住んでいた一社がどんな変容を遂げたのか是非この目で確かめてみたい。(04/06/25) 
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