<おことわり>
必死で家捜ししたら当時の写真が一部出てきました。但し予備で携行した使い捨てカメラで撮ったものだけです。本来のモノは行方不明になりいまだに見つかりません。
ワシントンでの赤ゲット振りは前に述べたとおりであるが、この時は憧れのニューヨークに数日間滞在した。ここで大変お世話になったのはNY在住のHasegawa夫妻である。
二人は私どもとは近しい縁戚関係にある人達である。お二人の事を紹介するのが目的ではないのでこれ以上は省略させていただくが、若い頃からNYに移り住み事業を営んでいた。勿論旅行会社の現地ガイドがいろいろセットしてくれたが、日中はともかくとして夜の部となると全くの不案内で、もし夫妻がいなかったら味気ないものだったろう。
特にブロードウエーのミュージカルやNYフィルの演奏会各種グルメなどを堪能できたのは二人のお陰である。
あれから15年も経つが、当時を思い起こし、改めて深くお礼申し上げる次第です。

◆なお本文ではお二人を便宜的にH夫妻と呼ばしていただきます。

◆ニューヨーク到着
夕刻バッファローを離陸したUnited Airlinesの国内便は一時間足らずで、ラ・ガーディア空港に到着した。迎えに来ていたのは近ツリの若い男性ガイドだった。彼の大きなアメ車にのりNY.cityのManhattanに向かった。確か30分程度で宿泊先のマリオット・マーキスという大きなホテルに無事到着した。
途中ハイウエーらしい道路を走っていたが道路の端にホイールキャップがいくつも転がっているのに驚いた記憶がある。道路も荒れているさまが夜目にも確認できた。また周りが全体的に暗く、えぇ!世界一の都会の道がこんなに汚く暗いのか!というのが率直な第一印象であった。
ホテルには前記夫妻がわざわざ出迎えに来てくれていた。ホッとしたと共に本当に有難かった。初めて緊張から開放された。(この後、私の娘や縁戚関係にある若者が何人もNYを訪れているが、その都度皆大変お世話になっている)
ホテルの立地は良かった。場所はミッドタウンのブロードウェイの劇場街のど真ん中に位置しておりどこへ行くにも便が良かった。部屋は確か最上階に近い方だったので真下に華やかな劇場街の明かりが広がっていた。このホテルは部屋も広くキレイで居心地はとても良かった。

◆夫妻と共に夕食
チェックインを済ませると二人で夕食に誘ってくれた。近くの和食の店であり、日本人のママさんが気持の良い接待をしてくれ、久しぶりに日本の味を堪能できたが酒の味も格別だった。料理は日本のものと全く変わらない味がした。
夕食はその後イタリアンレストランで夫妻の家族全員(二人の姪)と共にしたり、寿司屋に行ったり、自宅のバーでご馳走になったりと、夜の部はとにかくお世話になりっぱなしだった。こんな事はお仕着せのツアー旅行では望むべくもない。
英語もろくに話せない「赤ゲット」が治安に問題がある場所でナイトスポットをエンジョイするなどは不可能なことだ。
その後団体で海外旅行をする機会が何度かあったが、夜フリーの時でもツアーコンの案内でぞろぞろ皆で行動したがる人が多かった。これは分からないでもない。自国でも見ず知らずの所で飲食店を選ぶのは結構難しく、全くちんぷんかんぷんの海外ではひどくストレスを感ずるものだ。



ロックフェラーセンター

市街からハドソン川

飲食店で特に印象に残っているのは「NY寿司清」である。その店のマネージャーは小林さんと云い Mr.Hとは学友で親密な関係があったようだ。寿司清と名のつく寿司屋は日本には数多く見られ、築地にある店は有名であるが、この店が支店だったかどうかは分からない。しかし、この店は造りから云っても高級な店で雰囲気としては落ち着いた感じだった。出された魚貝類はNYの近海で取れたモノだと説明されたが非常に新鮮で美味かった。違和感は全く感じられなかったが当時日本ではお目にかかったことがない「巻きもの」が珍しかった。
もう一箇所印象に残っているのは食後に行ったナイトクラブである。
非常にシックで落ち着いた感じの店であったが、ここでグランドピアノの伴奏で歌ったエンターティーナーの素晴らしい歌声だった。本当の大人の遊び場だと思った。

「赤ゲット」 イン NY

◆ブロードウェイのミュージカルを見る
夫妻が我々のためにチケットの予約をし、ある晩案内をしてくれた。アメリカ出発前スケジュールを詳しく聞かれた理由がはじめて分かった。背広にネクタイの正装で出向くように言われたが、ピンとこなかった。ミュージカルはこの時まで見た事がなかったので、せいぜい日本で云えば宝塚歌劇程度のショーかと思っていた。この認識はとんでもないマチガイだった。
劇場の数は10数ヶ所あったと思うが皆異なる演目であり我々が鑑賞したのは「CATS」という出し物であったが、夕刻劇場に到着して驚いた。 ここは社交場だった。
観客は欧米人が殆どで皆が正装していた。シャツ姿のようなラフなスタイルの人は一人も居らず、男性はタキシードに蝶ネクタイ、女性は背中が大きく開いたドレスを着た人が多かった。
私は持参した紺のブレザーを着用し黒の革靴家内はワンピース姿だったが、それでもちょっと気が引けた。その雰囲気は豪華で男女共に美男美女揃いで何か上流階級の集まりのような場違いのところへ来てしまったような気がした。
舞台がまた素晴らしかった。音楽,歌唱、演技、ダンス、舞台装置や照明のなに一つを取り上げても総合芸術として一流であり、ヘタなオペラそこのけで、出演者はよく訓練されていると思った。人間がネコの仕草を完全に身につけており理屈ぬきで面白かった。
これ等の演目は同じものが何年にもわたって演奏され続け、長いものは10年以上のロングランだというが出演者の競争は激しく層の厚さは大変なものだと思った。
その時にはポピュラーなシカゴ、美女と野獣、オペラ座の怪人、レ、ミゼラブル、キャバレーなどの看板を見かけた。


ポイントすると別画像
ノーベル賞受賞詩人のT.S.エリオットの「ポッサムおじさんの猫行状記」を、作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーがミュージカル『CATS』としてロンドンで上演したのは、1980年代のこと。それ以来アメリカでも超ロングランの人気度ナンバーワンのミュージカルだ。(米国での公演は最近完了したと思う)
日本でも劇団四季が全国各地で公演を行い、確か述べ回数で
5000回を超えており大勢のファンがいる筈だ。


幕間で一番エライ長老猫のアーチストが一人舞台に現れた。
サインに応ずるとのことで大勢の観客が舞台に上がった。我々夫婦も舞台に上がりプログラムにサインを貰った。
彼は私の目を炯々と光る鋭い目でジット見てサインしてくれた。終始ニコリともしなかった。

◆NYフィルの演奏会
これもH夫妻が予約しておいてくれたオーケストラ演奏会だった。
会場はリンカーンセンターのホールだった。ここはセントラルパークの西側、前記ブロードウェイと9番街の交差する辺りの広大な敷地の中にジュリアード音楽院を含めて、大理石をふんだんに使った古典的なビル群が建っている。音楽をはじめオペラ、バレェ、演劇などニューヨークの芸術の総合センターだという。
音楽のホールではCarnegie Hall(カーネギーホールが日本では余りにも有名だが、ここも正に世界一流のアーティストたちが連日演奏している芸術のメッカである。ここにあるAvery Fisher Hallアヴェリー・フィッシャー)はセンターの中で最初に出来た建物とのことだが白い石の柱に囲まれ、ギリシャ神殿を想わせるような佇まいを見せていた。ロビーには彫刻が飾られていており、明るい感じのホールで、客席数は3000席程度と思われる。
ここはアメリカで一番歴史のあるオーケストラ、New York Philharmonic「ニューヨーク・フィルハーモニック」の本拠地である。客層は年配者が多く雰囲気は最高だった。
当日の曲目は正確には思い出せないがブラームスとドビッシーの作品であったことは間違いない。指揮をしていたのはオーストリア出身で著名なエーリッヒ・ラインズドルフだった。
キレイなドレスを身に着けた女性の歌い手が出演したのははっきり覚えているが曲目は普段余り演奏されない曲だったような気がする。非常に満ち足りた気分になったことは間違いない。


Avery Fisher Hall

Carnegie Hall
◆その他雑感
NYは晴天続きで気温は高く、汗ばむような陽気だった。この間一日大規模な春雷に見舞われた。ツアーとしての観光コースについてはお定まりのコースであり、ヘタな説明は意味がない。
但し、エンパイアステートビルは昼夜2回にわたって訪問している。最上階は思ったより狭かった。その他に覚えているのは
ジョン・レノンが銃撃されて殺された場所、メトロポリタン美術館、貿易センタービル、トランプタワー、セントラルパーク、金融街、サウスストリート、シーポートの帆船など極めて断片的なものだ。このような観光名所の印象が時の経過とともに薄れていくのはやむを得ないことだ。何故かキンキラキンのトランプタワーの印象は強く残っている。当時はモノスゴイ金満家だったらしい。ワールドトレードセンタービルについては今更説明するまでもなく、テロで倒壊の画を何回かテレビで見たが信じられなかった。

シーポートの帆船

郊外の夫妻の別荘で

ブルックリン橋

交通事情はクルマだったのでよく分からなかったが、マナーは良くなかった。とにかく先を争って前に進もうとするドライバーが多く、道など譲っていたら行くところも行けないなぁと思った。信号無視は歩行者も含めてヘイチャラの様子だった。
落書きだらけで有名な地下鉄には乗らずじまいだった。当時は非常に危険な乗り物と云われており、夫婦二人で乗ってみる勇気は無かった。街全体の印象は世界一の都市としてはキタナイということ、また、年老いた老婆が悲しそうにゴミかごをあさっているのを見て驚いた。その時まで世界一裕福な国だと思っていたからだ。
当時の日本はバブル経済が破裂する直前で持てる資産は膨大なものだった。
ジャパンマネーでアメリカ全土が買える等とトンチンカンなことを云う阿呆な知識人までいたほどだ。
市内のめぼしい建物を買い漁る不動産業やセイホなどバブル企業が巾を利かせ、日本の土建屋が此処彼処でビルを建てていた。結局はその後総て泡沫の夢と消えてなくなり、元も子も失うどころかベラボウな借金を抱え込むハメになるのだが‥

市街

タイムズスクェアー

セントラルパーク

ポート

ハドソン川から見るセンタービル

シーポート
(注)上記写真2枚は娘が訪れたときのものを借りた
    メトロポリタン美術館へのリンク

◆ショッピング

ある日、丸一日自由行動日となった。
NYの滞在日も残り少なくなったのでみやげ物を買いに出かけた。当然これは奥方の強い希望である。
何かのガイドを見たら高島屋が出ており、日本人スタッフがサービスしていますとあったので出かけることにした。しかし、かなり遠方だったのでまず手始めに近くのTIFFANY&COの店にぶらぶら歩いて出かけた。今でこそTIFFANYはわが国の有名デパートに数多く進出しているが、当時日本には見当たらず高級なアクセサリーその他は非常に人気があった。
ガイドから聞いていた話では、日本人に人気のこの有名店のきれいな空色の紙包みをぶら下げて歩いていると引ったくりに遭うからきお付けろ‥という忠告?だった。
店は3階建てのクラシックな造りだった。女性店員の応対は非常に丁寧で気持がよかった。
シルバーのアクセサリーとかボールペンなどを買い求めた。銀製のボールペンを3本買ったが今残っているのは一本だけだ。大変使いやすく気に入っているが他の2本は紛失した。
その後タクシーで高島屋に行ったが商品の数が少なく、近所の大きなデパート(シアーズ?)に入った。日本人は見かけなかった。
ここで日本語しか話せない奥方と英語しか話せない現地女性店員との実に面白い買い物風景を体験した。私は化粧品売り場で眺めていたが、家内から「口紅」は英語でなんと言うのかと聞かれ、うかつにも「ルージュ」と答えてしまった。これでは全く通用しない。当たり前だ。「リップスチック」というべきだったのだ。これですっかり信用を失い口は出さないことにした。
しかし、買い物は「売りたい、買いたい」と意思が完全に一致するので日本語と英語のやり取りで簡単に出来るのだ。これはかなり面白いやり取りだった。支払いはトラベラーズチェックで済ましていた。いざとなると女のほうが心臓が強いなぁと思った。中味はカラッポなのに何事にもカッコウだけをつけたがる私には出来ないことなのだ。

◆レディファーストやマナーのこと

欧米では当たり前のマナーだが我々日本人特に戦時中に生まれ育った年配の男は、子供のときからオンナよりオトコの方がエライ?と教育されてきた。全く間違った考え方だ。
戦後は男女同権の時代になったが、理屈ではそうであっても、慣習はなかなか直らない。それがすっかり身についてしまい、日常行動に自然に現れてしまうのだ。エレベーター、エスカレーターを始めとして、椅子に座るときなど、どうしても自分がさっさと行動してしまい周りからにらまれるハメになるのだ。
椅子に座るといえばレストラン等に入る場合、それまでは空いている席に突進し座るものと思っていたがこれも「赤ゲット」の浅ましい行動パターンだ。店の人に案内してもらい座るのだがこの時必ずスモーキングするかしないかを訊かれた。最近は日本でもやっとこのようなルールになれて来たが当時は全く経験がなく恥ずかしい思いをした。
日本人同士が人込みなどで体が触れ合っても知らん顔するか、にらみつけるかだったが、米国ではどこでもうっかり体に触れ合うと相手は必ずといっていいほどエックスキューズミーと会釈するのにも感心た。私は「田舎紳士」だと痛感したが習慣はオソロシイ。理屈で分かっていてもとっさに言動で表すことは最後まで出来なかった。「赤ゲット」の面目躍如たるゆえんだ。

◆NY最後の夜
ミスターHが夕食に誘ってくれホテル近くの日本料理店で食事を楽しみ、更にホテルの自室でルームサービスでスコッチを何杯か空けた。11時過ぎに別れを惜しみつつ彼が帰った後もなかなか寝付かれずしばらく外の風景を眺めていた。深夜なのにブロードウェイは賑わっているように見えた。はるか下の方に劇場街が光り輝きイエローキャブが往来しているのがオモチャの自動車のように見えた。

帰国の朝、出発は早くまだ暗いうちにホテルを出た。ケネディ空港でユナイデット航空に乗り、ワシントンで全日空に乗り換える必要があった。乗り換え手続きはワシントンで最初にガイドしてくれたあの女性が現れて総て行ってくれた。こんな程度のことは自分ひとりで出来ると思ったが、このツアーの約束事らしい。彼女は我々に会うなり「よくもまぁご無事で‥」と感心したような顔をした。
空港で待ち時間のとき近くに卒業旅行でアメリカをぐるぐる回ってきた青年がいた。家内が彼に向かって「一番良かったのはどこか?」と質問した。彼は即座に「断然ニューヨークだ!」と目を輝かせて答えていたが、さもありなんと思った。若者のみならず私のようなジジイにとっても魅力あふれる都会であり少なくとも1ヶ月はステイしたいと思った。
この時のカルチャーショックは大きく、その後海外へ何度か出かけるチャンスがあったが、このような感動を受けることは2度と無かった。また、「時差ぼけ」はひどかった。通常の状態に戻るのに2週間もかかった。おわり(03/11/24作成) もどる