この世に生を受けたからには、死はいつしか必ずやってくる。確率は100パーセントだ。不公平な世の中と云うが、トシを取ることと、死ぬことだけは、誰しも全く公平だ。
これは死についての感想とお葬式の体験記だ。人の死は尊厳な筈だが、現実は馬鹿げたことが平然と行われている。「互助会」もその一つだ。
◆最初のお葬式![]() ![]() ![]() |
過去2回の葬式を出した。両親の葬式だ。 普段余り考えたことがない「死」というものをいやでも身近に感ずるときだ。昔「お葬式」という映画を観たことがある。大変な才能に恵まれた映画制作者だった故伊丹十三監督の作品で話題作だった。 「葬式というのは人生締めくくりの儀式で、荘厳な中で行われるべきだが、実際は死者の尊厳や意思とは関係なく、遺族や取り巻きの勝手な思惑や打算で進められてしまい、中味は滑稽極まりない悲喜劇」 というようなテーマだったと記憶している。この映画はテーマも内容も大変面白かった。 葬儀には莫大なカネがかかる。私自身も最初の葬儀の時には、何がなんだか分からないうちに葬儀社の言われるままに葬式を出してしまい、後でつくづく自分の世間知らずに嫌気が差した。人間「葬式を出して初めて一人前」といわれるが確かに一理があると思う。 親父は私が40前後の頃、手遅れの癌でN大学付属病院で他界した。 あっけない最後だった。臨終を迎えたのは夜半だった。遺体は拭き清められ直ぐに地下にある遺体安置所に運ばれた。 |
◆死体安置室
私はそこで遺体に寄り添い一晩を明かすことにした。
霊安所には既に先客?が2体ほど置かれていた。すぐさま病院出入りの葬儀屋がやってきた。やけにタイミングが良かった。二三日前から個室に移されたので死は覚悟はしていたが、葬儀社のことまで頭が回らなかった。疲れと混乱状態の中でその葬儀社に一切を任せることにした。
もう深夜だったので、遺体は翌朝自宅へ帰還することにした。葬儀社が帰った後ここで一晩を過ごすことにしたが、少し落ち着いてあたりを見回すと他にも遺体が安置されており、生きている人間は私一人となった。
勿論余り気持の良いことはないが、さりとて特に居心地が悪いとも思わなかった。単なる物体が並んでいるだけだと思った。中は薄暗くシーンと静まり返っていた。椅子に座って「死人には何も出来ないよな‥」などとくだらないことを考えているうちに、ウトウトした覚えがあるが、朝は意外に早く来た。
翌朝、葬儀社が来て、その車で遺体と共に自宅に帰った。その後のことはよく覚えていない。
◆葬儀
当時は今のように寺や会場のような場所で葬儀を行う例は少なく、自宅で一切を執り行うのだった。初めてのことなので、何をどうしてよいのかさっぱり分からず、葬儀屋の云うがままに対応せざるをえなかった。喪主は母親であったが、実質は長男である私が主宰しなければならなかった。それまで親戚や知人の葬儀には数多く出席していてもイザ自分自身の事になると分からない事だらけだった。
「おふくろ」の話では、この時のために夫婦で「冠婚葬祭互助会」に入り、長年にわたりかなりのカネを積み立てていたという。だがこの時には既に業者が決まりドンドン進行しており、互助会を使った葬儀は間に合わなかった。また、親父は長年出版業界で編集の仕事をしてきており、知合いも多く、また私も会社の関係者が多くなっていたので、それ相応の葬儀を出す必要があった。何も見栄を張る必要はないのだが、自宅から出す最初の葬儀が余りにもみすぼらしいのは避けたがった。
自宅での葬儀は何かと大変だ。庭に面した八畳間に祭壇を設け、その隣の部屋を控えに使ったが昔の家はふすまで仕切られただけだから便利だった。
お定まりの通夜と葬儀を済ませたが、私の会社関係や死んだ親父の関係者がかなり大勢会葬に来ていただいた。総てが終わったときどっと疲れが出た。 葬儀社はそれなりにテキパキ処理してくれたと記憶している。だが葬儀費用の請求書を見て驚いた。私が見積もっていた金額よりはるかに高額だったからだ。明細を見ると確かにその通りなのだが、当初想定していなかった費用が相当かかっていたのだ。 |
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勿論これは私自身の責任だから文句のつけようがなかった。この時オフクロは「互助会を使っていればタダのはずだったのに‥」とブツブツ云っていたがもう後の祭りだった。
タダというのは全くの誤解であり、互助会を使うと割安になるというだけだが、彼女はタダだと思い込んでおりその後何時までもそれにこだわっていた。葬式代は高い。高いからといって値切ることも出来ない。
「地獄の沙汰もカネ次第」というが全くその通りで、葬式代くらいはキチンと確保していないととんでもないことになると実感した。
戒名 葬式は一般的には仏式で行われている。両親共に無神論者で、特定の宗教を信じているわけではなく菩提寺もなかったので、何でも良かったが黙っていると葬儀屋は当然のことのように仏式で進める。 困ったのは死後戒名はつけず本名(俗名なとど云うこともある)のまま葬るように強く言われており、おふしろもこの点だけは譲らなかったことだ。この考え方は合理的で、私自身も戒名は仏教とは全く関係の無い、「金もうけのシステム」でしかないと思っている。 遠い親戚筋に寺の住職がおり、普段は往き来がなかったが、その方に事情を話すと理解してくれ、読経だけを引き受けてくれた。宗派は何で良かった。 |
◆お墓
幸いなことに当時既に、松戸市にある東京都の霊園の芝生墓地に狭いながらも墓地を確保してあった。
これは私が対処したのではなく、死んだ両親が生前に確保してくれていたものだ。
納骨のときまでに墓石を建立すればよかったので助かった。親父の納骨の際、おふくろは何を思ったのか墓石に赤い字で自分の本名を早々と彫りこんでしまった。明治生まれの人間としては進歩的?なところがあった。 常々、親が付けてくれた立派な名前があり、坊さんが金儲けにつける「○○院××大姉」等はナンセンスと言い放っていた。 |
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◆二度目の葬式
お袋は長生きだった。90過ぎまでかくしゃくとしていた。
5年前の1月過ぎに突然体中が痛いと云いだし、近くのT病院へマイカーで連れて行った。検査の結果即入院となった。それから一度退院したが直ぐ再入院し、その年の5月末に死去した。やはり個室に移されたのでもうアカンと思ったが、何か心臓がやけに丈夫だとか云うことで呼吸器をつけながら頑張っていた。
最後の日病室にいたが、看護婦が「大丈夫だから少し家でおやすみなさい‥」と云ってくれたので帰宅し、気休めに晩酌を一杯やっていたら突然、臨終だと電話が入った。あわててすっ飛んでいったが部屋に入ると既に顔は白い布で覆われていた。酔いはいっぺんに醒めた。
死亡診断書を見ると病名はC型肝炎⇒肝硬変⇒肝不全であった。
私は長い間、ホケン屋の事故係りを商売にしてきたので、交通事故死した他人の「死体検案書」「死亡診断書」は見慣れていたが、親のモノは初めてじっくり眺めた。直接原因と、その原因になる病名がさかのぼって示されていた。
今度こそ故人が長年積み立ててきた互助会を使い、遺言どおりの格安の葬式を出そうと思い、直ちに「H祭典」電話した。程なく遺体引取りのクルマが到着し、担当者と共に帰還し自宅の座敷に安置した。
直ぐ葬儀の日取り等について打ち合わせに入った。彼はカタログを示した。それを見て「やはりそうか!」と思った。
いろいろなランクがあり、最低ならイザ知らず結構高かったのだ。一体どうなってるんだ!と思った。確かおふくろはこれを使えば、タダで葬式が出せる‥と云っていた筈だが‥
説明によるとタダになるのは祭壇と棺だけで、これも最低ランクの場合だけであり、それ相応のものにするとカネがかかるのだ。その他の費用は総て実費が必要なのは云うまでも無い。別に驚かなかった。最初からどうせそんなことだろうと思っていたからだ。
ただどうしても納得が行かなかったのは、互助会には5口分の会費が完納されていたにも拘らず、今回は4口分しか使えないと説明されたことである。1口分は余計だという。
「冗談じゃねえぞ!何のために積み立ててきたのだ!」と思った。私も相当頭にきて食い下がったが「規定によりダメ」の一点張りで埒があかなかった。もう夜も遅く、遺体の前で口論はみっともないと思いしぶしぶ引き下がった。
◆互助会の仕組み
改めて互助会の「加入者証書」を読んだが、どこにもそんな規定は見当たらなかった。また加入者証を良く見ると「N冠婚葬祭互助会」とあり小さい字で株式会社となっていた。何のことは無い民間会社が運営している営利事業なのだ。うかつにも「互助会」というからには何か公的な機関が行っている「共済システム」かと勘違いしていたのだ。当然儲かるように仕組まれているのだ。互助会に加入する人々は例外なくお年寄りであり、なけなしのカネをイザというとき役立てようと思い積み立てているのだ。まさか積み立て分が一部使えないなどとは思っても見ないことなのだ。
それで仕組みがやっと少し分かったが、それでも使えない分が1口あり、その分ムダになったことがどうしても引っかかった。
葬式の費用は中味がよく分からず、多額の費用がかかることなどから最近大きな社会的な問題になっており、「葬儀は出すな」「墓は不要」「遺骨は散骨せよ」と遺言を残す人もいると聞いているが、ごたごたの際に、つけ込まれる惧れは多分にあると思った。
◆アンケート
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それでも葬儀は一通り終り、ホッとした。葬儀会場は近くのお寺を借りて行った。互助会指定の葬祭場は荻窪にあり、会葬の方々は主として近隣の人であったので遠すぎてダメだった。近所には比較的良く利用される葬儀場がある。いずれも寺が運営している。私は表通りを避け、裏手にある曹洞宗の俗称「鳩寺」という寺を貸してくれるように寺の住職に頼みに行った。 |
過日、「週刊朝日」に、こんな記事が載った。 「冠婚葬祭互助会の破綻」の表題で、副題には「全国で会員1000万人以上、預かり金2兆円、巨大組織の知られざる実態」とある。、本文には「福島で民事再生法申請第1号、5万人の預かり金どうなる‥」とあった。内容は省くが、郡山市にある「互助会運営会社」の経営破たんと、会員の積み立てたカネの行方等々のリポートである。 冠婚葬祭互助会の加入者数は、経済産業省の推計では日本人の6人に1人は入っているそうだ。 契約者である会員の権利は役所の監督・指導のもと、「割賦販売法」という法律で守られていることになっているという。 引き続いて「互助会ビジネスのカラクリをもレポートする‥」 とあったが是非とも実行して欲しい。 |
◆死者は「穢れたもの」か
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この世の中には真にふざけた話もあるものだ。 葬儀に出ると、会場でオケに入った水で手を洗ったり、「お清めのシオ」などを撒いたり、袋に入れた塩などを渡される。死者は「穢れ」なのか、「汚いもの」なのか?? 全く理解できない馬鹿げた習慣だ。これは正に亡くなった人への冒涜だ。 |
私は今までこの習慣に従ったことは無い。シオはくずかごに捨て手は洗わない。
これ等は葬儀屋が仕組んだ全く何の根拠もない、しきたり?に過ぎない。両親の葬儀ではこのようなことは施主として一切やらせなかった。
生きた人間の「北枕」はイカンという。なぜなら亡くなった人を北枕で安置するから不吉だという。
これも全く根拠が無いバカげた迷信だ。こんなことを信ずるのは日本人の幼児性の一面をよく現していると思う。
昔、商売が「ホケン屋」だったので、毎年、正月行事として「えらいさん」から金一封を託され、幹部職員数名と成田山新勝寺へ行き、事故が少なくなるようにと「厄除けのお祓い」をしてもらっていた。ま、帰りがけに近くで一杯ヤルのが目的?だったのだが‥ 境内には他のホケン屋の寄進を示す名札がズラリと並んでいたものだ。
ある時、祈祷の後、僧侶の説教を聴く機会があった。その時彼は、はっきり「北枕で寝ることは非常によいこと」と言っていた。
理由は死者のアタマを北に向かって寝かせるのは、その方向が「一番安息できるよい方向」だからであり、生きた人間がダメなどはありえないと明言していた。私は以前から長い間、部屋の造りの関係で「北枕」だが、ごく普通の生活を楽しんでいる。方位というのを問題にする向きもあるようだが、方向によいも悪いも無い。こんなことを気にする方がおかしい。
大分以前に「巨悪は眠らせない」で有名な元検事総長だった伊藤栄樹氏という方が書いた「人は死ねばみなゴミになる」という著作を読んだことがある。本のネーミングはショックだが、内容には大変感銘を受けた。
焼き場でお骨をツボに入れるとき、最後におんぼうが「ハイ、一丁上がりぃ!」という調子で、のど仏について尤もらしいセリフを機械的にはき、ブリキか何かで出来た「チリトリ」から灰になったカルシュームの粉をさらさらと入れるのを眺めていると、「ゴミ」という気もしないではない。仮に人間をスクラップにして、「材料」として売るといくらになるか?という話を聞いたことがあるが、たしか二束三文だったはずだ。金やプラチナの入れ歯などがあれば別だが、もともと生まれたままの人間はそんなに高価な材料を使っていないのだ。死んでスクラップにすればゴミだろう。だが氏の云った意味はこんな単細胞の発想ではないと思う。
その時、末期の癌で死と向き合っていたのだ。えらいと思ったのは鬼検事らしく、最後まで自分の死と対峙し、真理を見極めようとしたことだ。死を前にして凡庸な人が出来ることではない。
世の中のどんなものでも寿命が尽きたり役割を終えればゴミになる。人間も例外ではないだろう。
死めと三途の川をわたり、極楽か地獄に行く‥など「死の世界」や「あの世」.などは無く、死んだとたんに人はモノになり、意識が無くなり、熟睡と同様な「無の世界」があるだけだろう。人間誰しも「人殺し」や「自殺」でもしない限り、死は安らぎの中で迎えられるだろう‥ と思っているのだが‥
しかし人生は一回きりだ。最後は皆ゴミになるのなら完全燃焼し、思い残すことなく一生を終わるのが理想だと思うが、私のような「細く長ぁく生きよう」などと思っている「小心モノの凡人」にはムリな相談だ。
(04/05/10)もどる