大学生になる
1952年(昭和27年)4月に立教大学に進学した。希望通り学部は経済学部経済学科であった。
この頃になると戦後社会もようやく落ち着きを見せ始め、前年にはサンフランシスコ講和条約が調印され、引き続いてアメリカによる占領の終結が宣言された。
経済的にも朝鮮戦争勃発により軍需景気をもたらし、日本は次のステップに踏み出そうとしていた。贅沢を望まなければモノも潤沢になり生活水準は年毎に向上しつつあった。国民生活白書に「もはや戦後ではない」という名文句が生まれた時代である。

この頃の史実について概要を記しておくと、翌年の1953年には朝鮮戦争が終結し、わが国ではテレビ放送が開始されている。1955年になると政治的に大きな変化があった。すなわち日本民主党と自由党が合同し、自由民主党が結成され社会党も統一されいわゆる55年体制が確立することになる。

前にも述べたとおり、立教高校の卒業生は本人が希望すれば原則として総て推薦入学が許された。とうとうエスカレーターでお気軽に最上階に達した事になる。

学業のことなど    
大学の4年間にも実にいろいろな出来事があったが断片的にしか覚えていない。むしろ遥か昔の小学校時代の方がよく覚えているのはどうしたわけか。

入学直後のクラス編成の際運命的な出会いがあった。
それは生涯の刎頚の友ともいえる人物に出会ったことである。その人の名前は.M君といいその時以来今日に至るまで、途中で私が転勤したために物理的に中断したことを除けばご家族を含め親友としてお付合いいただいている。
たまたま入学の礼拝か何かで整列した際、前後にいたため言葉を交わしたのがきっかけであった。話が弾みお互いに親近感を持った。

人間の出会いは実に不思議なものだ。この時、たまたま前後にいなければどうなっていたかは分からない。
この頃M君は千駄ヶ谷の駅前のアパートに入っていた。

当時のことだからマンションではなく狭い木造のアパートの一室であった。時々ここに泊めてもらった。自宅から離れて親友のアパートに泊まるのは大変新鮮でヒミツめいており楽しかった記憶がある。こんな生活がしてみたいなとうらやましく思ったりしたものである。
夜になると彼からサケをご馳走になったこともあるが、酔いが回るにつれて気持が高揚し、愉快極まりなかった。
後年彼は川越の一般家庭に寄宿したが、そこにも何回かおじゃまし、レコードなどを聴かせてもらったことがある。
M君は総ての面で私よりはるかに大人であり、知識も豊富であったが真面目な青年だった。また、潔癖なところがあり、しっかりした考え方を持っているように感じた。
ロマンチストでもあった。

経済学部でどんなことを学ぶのかもよく分からないままに選択したが、それはそれでよかったと思っており後悔はしていない。

肝心の学業の方は余り印象に残っていないが高校時代と異なり選択科目があったので、私は辻壮一教授の音楽史を選択し受講した。
彼は当時音楽特に宗教音楽に関する学者としてかなり著名な人物であった。講義の中身は少し専門的で難解であったが「すこし大学らしいな」と思ったものである。

専門科目のことについて云えば当時の流行は「マルクス経済学」であった。
経済原論を学ぶのであるがマルクス・エンゲルスの資本論が中心であり、原語で読む時間もあった。この原理は一言で云えば弁証法的な思考形態である。

例えば、量質の変化、否定の否定、矛盾と云った哲学的な概念が重要なのだがマルクスレーニン主義の思想であるから社会主義または共産主義社会を目指すのが究極の目的であり、分かりやすい理論構成なので学生の間では人気があった。
マルクスの理論は一時代を画するものであったが、陳腐化しいまや見向きもされない。これも時代の流れでありやむをえないものだろう。

一方でケインズやシュムペーターを中心とする近代経済学も注目されつつあり、この理論に傾倒する学生もいたが難解であった。科目の選択は自由であったが、無論私は易しいマルクスであった。今の経済理論はケインズの亜流だがこの理論でも追いつかないほど、経済は複雑怪奇になってしまった。

私が最も興味を持ったのは民法の講義であった。担当の教師は宮川助教授であったが彼の教え方は丁寧で分かりやすく理詰めかつ実践的であり、この時間だけは熱心に受講したものである。他の科目は全く毒にも薬にもならなかった。
今にして思うと法学部が向いていたと思うのだが当時立教には存在しなかった。
刑法の講義もあったが確かSという老教授で全く面白くなかった。

実際民法は後年非常に役に立った。
就職した会社が損害保険であったが、保険商品に付随している約款は殆ど民法または商法が基本になっていたからである。
例えば仕事では物権、債権債務、不法行為、損害賠償、契約、不履行、各種請求権、時効と援用、訴訟法等についての理解が必要だが、この時に得た基本的な知識を実戦で活用できたからである。

ゼミナール
各学生は3年生になると専門分野の経済学を専攻する。同時により深い理解を求めてゼミナールに参加するようになった。
あくまで選択制であり、必ず受けないとダメというものではなかったが、1年後に控えた就職のためには教授の推薦状があると有利だという噂が流れ、参加希望者は多かったように記憶している。
ゼミナールは経済学部の各教授が主催し、原則としては学生が任意に選択して参加することが出来たが、中には高度な学習をしないと追いついてゆけない中身のものもあるということで選択には迷った。

特に難しいのは会計のSゼミ、金融論のMゼミ、財政のFゼミということであり、確かにマスターすれば就職後役立ったかもしれないが、努力する気がない私にはとてもムリな話であり、高度なものは直ぐ諦め内容が易しく終了できそうなゼミを選んだ。
経済学部の宇治田教授のゼミである。彼の場合は普通に参加していれば総てに合格点を与えるという噂であった。
皆同じようなことを考えると見えて人数はやたらに多かった。

ゼミナールの中味はよく覚えていないが確か経済原論でマルクス経済学ではなかったかと思う。殆ど勉強もせずただ単に出席していただけだが、就職に際して推薦状だけはチャッカリお願いした。
教授は太い万年筆でスラスラと書いてくれ、内容を読み上げ「これでいいかな?」と笑いながら私に尋ねたのを記憶している。これだけが目的の全く不埒な学生であった。

同じゼミの出身者でいまだにお付合いいただいている方々がいる。
その一人はクラスメイトのM君であるが彼は人柄がよくゼミの優等生であったから教授の信頼も絶大だった。卒業後も深いお付合いがあったとうかがっている。
また、サラリーマン時代に5年ほど後輩にI君という社員がいたが、この人もUゼミの出身者であった。彼はロンドン駐在なども経験した優秀な男であったが、私が在職中一時人事部にも居り、組織改変その他の時には大変お世話になったことがある。

野球部の優勝


優勝の瞬間

在学中に画期的な出来事があった。6大学野球で東大と万年ビリを争っていた野球部が優勝したことである。
現在と異なり、6大学野球は絶大な人気があったメジャースポーツであり、プロ野球より人気があった。
早慶戦などはいつも大入り満員で切符を手に入れることもままならなかったほどである。
確か4年生の春のリーグ戦だったと記憶しているが当時「鬼の砂押監督」に率いられたナインが頑張りを見せ天皇賜杯を手にしたのであった。
当時は特に早稲田、慶応が強豪で優勝争いは殆どこの二校で行うのが常識であったから正に奇跡的な出来事だった。

メンバーも非常にレベルが高く、ピッチャーには後年プロの南海で大活躍した杉浦選手またサードにはこの国の人気者になっている長島選手がプレーしていた。
彼等は二年生であったと記憶している。しかし、彼等が入学したときには無名の選手であり、指導者の砂押監督が素質を見抜き徹底した訓練で才能を開花させたと見るべきであろう。

砂押氏の指導の厳しさは当時よく話題になっていた。余りの厳しさに耐えられず合宿を逃げ出した選手もおり、前記選手も同様な経験をしたらしいが、家の近くに東長崎の立大のグランドがあり、時々覗いてみるとそのことがよく実感できた。
ノックでゴロやフライを落すと硬球を素手で受けさせるようなことやボーンヘッドでミスをするとバットで頭を小突いたり、グランドをヘトヘトなるまで回らせるなど見物人の前でも平気で行っていた。
見ている方で気の毒になったが、弱小チームを優勝するまでにするには根性も含め体で覚え込ませることを徹底していたに相違ない。
スパルタ指導と批判するのは簡単であるが、優勝という喜びを選手に与え、学校の知名度を高めた功績は十分評価されてしかるべきだろう。
その後も数は少ないながら優勝したことがあるが、この時ほど盛り上がったことはなかった。
勝負をかけたスポーツやゲームは勝つことが目的である。参加することに意義があるとはどうしても思えない。
よく勝敗は二の次にしてベストを尽くせばそれで良しというが果たしてそうだろうか。若いオリンピックの選手が予選であえなく敗退し、帰国時にニヤニヤしながら「楽しんできました」などとぬけぬけと云うのを聞くと非常に腹が立つ。
勝つのと負けるのでは大違いである。勝利の喜びと栄光はそのときだけのものではなくその後にも大きな影響を与える。
前述のように私は高校時代にバレーボール部に在籍し何回か対外試合を体験した。残念ながら負けることが多かったがその時の気持の落ち込みは大きく、自信を失うことも多かった。勝負の世界は勝たなければダメである。

因みに「親分」などと呼ばれ、日本ハムの前監督でマスコミにもよく登場している大沢氏は私より1年先輩であり、優勝には絡んではいなかった。
優勝したときは学校や地元の池袋は大騒ぎであった。
東京でも田舎くさかった池袋がこんなに盛り上がり知名度が上がったのは後にも先にもない。確かちょうちん行列が行われたと記憶している。

◆話は横道にそれるが、私はかつて一度だけ野球部の選手諸君と飲食を共にしたことがある。

40代の後半、仙台に転勤していたときのことだ。当時私は会社の懇話会ルートで、サッポロビールの二階堂氏と懇意にして頂いていた。彼はかつての立大野球部のピッチャーで仙台出身だった。現役時代は私よりも小柄だがサウスポーで大変な技巧派投手であり、頭脳的な投球術で有名な選手だった。卒業後も社会人野球で活躍され、その後は夏の高校野球解説者としても活躍したことがある筈だ。
ある夏の日、彼から電話があり、立大野球部が遠征し仙台で東北の雄である「福祉大学」と試合があるので見に来ないかとのお誘いだった。この頃になると東京6大学野球はすっかり色あせ、大学選手権でも優勝できなくなっていた。
立大は又ビリを争うようになり低迷していた。市民球場で行われた当日の試合は完敗だった。試合終了後、二階堂氏と共に部長、監督以下全員を「サッポロビアホール」に招待し飲食を共にした。何人かの選手とビールを飲みながら歓談したが、皆意外に小柄で華奢な体格だった。彼等は「借りてきた猫」みたいにおとなしかった。

当時の野球部長は浜田教授と云い後年総長になられた方だった。彼は私に対して「期待に添えなくて‥」と謝り「何しろ体格が悪いので‥」と嘆いた。
この頃は体育会でも推薦入学が出来ず、いい選手が入ってこないとこぼしていた。
「学校当局もつまらんことするなぁ」と思った。

就職活動
4年生になると就職の問題がにわかに現実味を帯びてくる。
当時は日本が好景気に沸く前で、かなりの就職難の時代であり、各企業とも人数を絞り込んでいた。
ただ今のように新卒の学生に対して一年も前から青田刈りをするようなことはなく、一般的には秋から冬にかけて行うのが通例であった。就職は人生の一大事である。最後の夏休みが過ぎると皆就職情報を求めて血眼になってくる。

秋になると学生部の掲示板に各企業の求人情報などが次々と貼り出されるようになる。それを見つめる学生の眼も真剣そのものであった。
私もご多分に漏れず情報集めに狂奔したが、最初から損害保険業を第一志望に決めていた。

当時親父は雑誌の編集者であり、出版業界の情報に精通しており、知合いも多かったので「受けてみないか」と薦められたが、余り気乗りはしなかった。親父の生き様には反発もあったからである。
親戚にデパートにルートを持っている人がいて「入れてやる」などと云う情報もあったがこれも気が進まなかった。結局損害保険一本やりに絞ることにした。
前にも述べたがこの業界で3年近くアルバイトをしたことや隣家のK氏が損保業界に顔が利き、「推薦してあげる」と云っていただいた事も大きく影響した。
当時の人気企業は官公庁、銀行、商社、海運などで、特に繊維産業は非常に人気があった。教員への道を希望する者も多かった。
一方、自動車、電機、航空業界などの花形産業は当時海のものとも山のものとも分からず、余り話題にならなかったと記憶している。


ポイントすると1953年の映画の一こまが出ます。
俳優は有名な人、分かりますか?

●当時「3種の神器」といわれた家電品
当時は大変高価、例えば白黒テレビは初任給8千円程度の時代約20万円前後だった。
                        下の写真は当時の平均的な家庭の居間を再現したものである。

保険業界は戦後のインフレ騒ぎで信用を失い、あまり人気はなかったが、私はアルバイト先での体験から将来必ず大きく成長すると思っていた。その見通しは当たった。

先ず手始めにT社を受験することになった。ここはお隣のK氏がかつて在籍した会社であるが業界ナンバーワンの超優良企業であり、到底ムリだと思ったが、腕試しとばかりに受験してみた。
競争の倍率等はよく分からなかったが、ここだけは学生の人気は高く、かなりの学生が集まっていた。筆記と適性検査があり残った者が面接ということになったが見事に筆記試験だけで落ちてしまった。
どのような出題がなされたのか全く覚えていないが、一般常識、英語、作文などであったと記憶している。

それではと云うので試験日を確かめた後、次にはA社をその次にはB社を受けようということになった。
筆記試験はかなり難しく、作文や常識問題はともかく、英文和訳、和文英訳共に殆ど出来なかった。何を書いてあるのかさえ分からなかった。私の英文和訳は文中の理解できる単語から想像で大意をつかみ、訳文をでっち上げるインチキな方法なので通用するわけが無い。ただこの手の試験では易しい問題が出る筈が無く、当然他の受験者にとっても難しかったと思う。
自信はなかったがどういう風の吹き回しか幸い一次試験をパスして面接に臨むことが出来た。

どんなことを聞かれどのように答えたのかは全く記憶が無いが、かなり緊張したはずだ。程なくして合格の知らせがあり、4月から出社するようにとの正式通知があった。
面接までいったので、コネが効くと判断し次の候補の会社は受験しなかった。

当時は今と異なり、入社に際して各企業は身辺や家庭の事情など興信所を使って調べさせたようだ。こういうときにはきちんとした人の縁故や口利きは絶対有利になる。損害保険協会でのアルバイトの実績もモノを云ったかもしれない。後日アルバイト先の保険協会に私のことについて身元調査が入ったことを耳にしたが、マジメに働いて良かったと思った。


卒業当日

最大の難関だと思っていた就職もさして苦労することもなくクリアーしてしまった。結局試験と名のつくものを体験したのは中学入試と就職時だけであり、全くノホホンとした苦労なしの10年間であった。
合格後の学生生活は卒業論文の提出だけであり何を書いたかすっかり忘れたがどうせ参考文献を丸写ししただけだと思う。

馬鹿でかい卒業証書には「経済学学士と称してよい」となっていた‥
かくして「すーだら調の学士サマ」が誕生した。

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すーだら学士