白夜のロシア・音楽三昧


サンクトペテルブルグ〜

モスクワ
サンクトペテルブルグで首脳会議が行われ、プーチン大統領がホスト国として大活躍したことは記憶に新しいことだが、数年前、夏にロシアを旅したことがある。
その旅は今までのそれとは少し趣を異にしていた。そこで見たもの聴いたものの中からいくつかに絞って書いてみた。目的はサンクトペテルブルグとモスクワで本場もののオペラとバレエを鑑賞することと「白夜」を体験するというものだった。

この年にアエロフロートロシア航空が東京からサンクトペテルブルグに初めて直行便を運行するというのも心魅かれた理由の一つだった。
ここはネヴァ河の畔
対岸はエルミタージュ美術館、背が高い二人は添乗員
小生は寒さに震え上がっていたが、さすがにロシア生まれのミーシャは半そでで平気

◆ロシアの気候風土
ヨーロッパに旅すると今は殆どシベリア上空を飛行するが、行けども行けどもロシアの上空である。国土の広さを身を持って実感できる。出発の日は6月も末で東京はひどく蒸し暑かった。10時間ほどで目的地に着いた。ロシアでもここはヨーロッパ圏で夏のシーズン、日中は結構気温が上がることを予め確かめておいたので半そでの薄着で出かけた。ころが前日北から季節外れの寒気団が入り、広い範囲で雷雨を伴った嵐に見舞われ、気温が一気に10度以上も下がったと言うことだった。
10日足らずの旅行だったがその間どんより曇った日が多く、気温が上がることはなく、ひどいときには日中でも10度そこそこにまでしか上がらない日もあり寒さに震え上がってしまった。東京で云えば3月頃の陽気にもどってしまったことになる。セーターでも持ってくればよかったなと思ったがあとの祭りだった。ただ正装用の背広と薄いパーカーがあったのでどうやら過ごせたが、考えてみるまでもなくここは北の大地なのだ。気象は甘く見てはいけない。



古いが立派なレストラン。
元は宮殿だという。雰囲気は最高だった。

寒いので真昼間からウォッカを飲みすぎ、すっかり出来上がった。

                    

これがボルシチです。



ウマイよー
ホテル事情と食
海外に旅するとき泊まるところや食事には無頓着な方であるが、古都のホテルは「アストリア」と云い目の前にイサーク聖堂、すぐ近くをネヴァ河が流れていた。古い歴史と格式のあるホテルであった。一言で云えばヨーロッパ各国のホテルとほぼ同じ雰囲気を持ち、終始気持ちよく過ごせた。
ただモスクワの赤の広場の前にある「ロシア」という大きなホテルはひどかった。なんと1000以上の客室があるというが、室内のひどさに同行の宝石屋のオバサンはカンカンになり、数人の子分?と共に夜の夜中にホテルを変更すると言う騒ぎまであった。

トイレの紙は巻紙ではなく、ゴワゴワで黒く尻の皮が擦り切れそうな代物だった。この時日本から持参したトイレットペーパーが役に立った。ベッドはギシギシときしみスプリングはへたり、寝具は湿っぽくかび臭かった。前のホテルと比較すると正に天国と地獄だ。トイレの水洗の取っ手が硬く、手では動かず足で蹴っ飛ばす始末であり、困っていた女性軍にコツを教えてあげた。
滞在中、食事は決して不味いものではなかったが、何処へ行っても変化に乏しく毎日ワンパターンなのでやや飽きが来るのは事実である。スパゲッティのようなヌードルの類は全くお目にかからなかった。肉や魚料理に野菜のサラダが付くが赤カブのようなビートが主で、キュウリやトマトは薄くスライスしきれいに並んでいた。生野菜は貴重な食材らしい。
必ず付いてくるのがボルシチという赤い色をしたクリーム入りのスープであるがほんのりと甘く、酸味があり美味い。主食は黒パンが主でわが国の白くて柔らかなパンになれているとボソボソして硬く最初はなじめなかった。かみ締めていると味が出てくる。
外国では昼でもサケを口にするのがごく当たり前だが、ロシアでも同じでありウォッカが用意されている。日本人にとっては超強いサケである。ウォッカの語源は水と云われているがアルコール度数は50度以上あり、これはロシア人がまるで水でも飲むように、一気飲みのマネでもしようものなら大変なことになる。命は保障しかねる。
我々は飲むにしても水で割りたいところだが、ロシア人はそんな呑みかたはしない。彼等の感覚では日本酒を水で割って飲むようなものだからだ。因みにサケ類は一通りそろっており、ビールは不味くワインは輸入品なのでまあまあである。
有名なキャビアは原産地でも今や高価な食べ物でほんの申し訳程度、添えられているだけだった。

バレエ、「白鳥の湖」のカーテンコール、右端は指揮
実演中の撮影についてはOKだ。



白夜
午前0時 ホテル前のイサーク寺院

ASA400のフィルムで撮影

◆バレェの鑑賞そして白夜
サンクトペテルブルグではチャイコフスキーの「眠りの森の美女」、ビゼーの「カルメン」、モスクワでは同じく「白鳥の湖」、マスネーの「タイス」等をみたが特に伝統あるロシアのバレーは素晴らしかった。
十二分に堪能することができた。中でもマリンスキー劇場で見た出し物はこの劇場の古い歴史と雰囲気が独特であり、さすが世界に名だたる劇場との印象を深くした。観客はロシア人以外にヨーロッパ各国特にドイツ人が多いように感じた。

いずれの劇場もオペラ、バレー、が中心であったが日本とは異なり、観客席は木でできており一つ一つが独立していた。日本にはすばらしいコンサートホールが全国各地に箱物ブームのときに造られたが、内部の重厚な造りや雰囲気は到底マネできるものではない。
ヨーロッパでは夕食が遅く、したがってこのような興行の終了時間も遅くなる。終わりの時間は殆ど11時過ぎになるが外に出てみると薄暮と言った感じでまだ薄明るい。曇っていたせいか街全体がミルク色に染まったような印象で非常に幻想的であった。
こんな時間なのに犬を散歩させている人を何人か見かけた。
ホテルに帰ると夜中の12時を過ぎているのにまだ明るい。気分が昂ぶり寝付けず冷蔵庫のワインなどを呑みながら飽かずに外を眺めていると2時ごろになってやっと夜の帳が下りた。不思議な気分だった。
その時昔夜中によく聴いていたJET STREAMを思い出した。あの城達也氏の独特のナレーションで始まるイージーリスニング番組である。さしずめ「白く明るい夜、ワインを汲みながら‥ 眠りそこねた朝を迎えようと‥」そして音楽は「ロシアより愛をこめて」といったところか。朝は5時になると明るくなるので夜と呼べるのは3時間程度しかないことになる。毎晩寝不足気味であった。




内部の回廊ロールオーバー効果
画面にポインターをあわせるとと展示室へ移動
◆エルミタージュ美術館で
この有名な美術館は第二次世界大戦の際ドイツ軍によって完全に破壊されたと聞いているが、今も営々として復旧作業が行われているという。
建物は元エカテリーナ冬の宮殿であり、女帝エカテリーナ二世が世界各国から収集した美術工芸品は正に世界の宝でもある。その数300万点?素晴らしさはここで改めて説明するまでもない。
美術品にカメラを向けることは原則としてダメであるが、展示室によってはカネを払えばOKだという。
美術工芸品を撮影しても全く意味がないのだが一応お金を支払い中に入った。
マークを見てここはOKの場所だと確認してカメラを取り出したとたんに、監視していたコワイ顔の大きな太っちょのオバタリアンが何か大声でわめきながら突進してきたではないか。正直言って怖かった。

「看板に偽りありだ!」と云いたかったがその剣幕のオソロシさにタジタジとなりカメラを引っ込めてしまった。
彼女はそれでも忌々しげに目を三角にして小生をにらみつけ何かブツブツ云っていた。
後で同じ目に遭った同行の面々が異句同音に
「カネだけとりやがって!」
と怒っていたが全く人をバカにした話である。

ま、日本人がチャラチャラした格好で、おそらくロシアでは庶民が簡単には手にできないようなカメラをぶら下げ、ペチャクチャとおしゃべりしながら国宝級の美術品の前を通り過ぎるのに腹を据えかねたのだと思ったりしたが、真に腑に落ちない気持だった。

ツアーコンダクター
ロシア旅行社という会社のツアーであったがロシア人の若い男性が添乗し案内してくれた。
彼の名前はミーシャである。彼は福岡の大学に留学しており、出身はサンクトペテルブルグとの事で夏のシーズンにはアルバイトで添乗しているとの事。日本語はペラペラであった。
背が高くハンサムで同行の若い女性(因みにツアーは15名程度であったがオトコは小生と親子2名のたったの3名だった)に人気があったがなかなかの好青年であった。

彼から日本の経済や政治情勢についていろいろ質問を受けたりもしたがそれはさておき、彼の自慢は勿論伝統芸術文化だがそれ以外に小生に対して「サシカタさんロシアの女性は美人が多いでしょう。これは宝です」と自慢げに同意を求められた。
多分、街中を歩いていて私が終始キョロキョロ若い女性に視線を走らせるのを観察して云ったものと思われる。

確かに子供やティーンエイージャーと思しき女性は色白で本当に妖精のようにきれいである。
しかし少しお年を召した女性は何でああもデブが多いのか、日本のデブなどは物の数ではない。
可愛いものである。それに反して‥もう肉の塊としか云い様がなく、よくもここまで変容?するものだと思った。彼には黙っていたが‥

もう一つツアーの一行が立ち寄るところには必ずみやげ物やがある。女性軍はすぐさま店になだれ込む。中には史跡などはそっちのけで買い物に熱中している人も居る。小生は買い物タイムには家内からもはずれ、いつもポツンとしていた。彼はその度に小生の所へ来てあきれたような顔で「皆さん本当に買い物が好きですねぇ」と云うのであった。確かにそうだが「お陰で貴国の観光地は助かっているんだよ」と言いたくなった。
彼は愛すべき青年であったが添乗員としては問題が多かった。時間にルーズで肝心のコンサートに2回も遅刻し、このことについて小生は厳しく注意した。観光日程が半日狂ったこともあった。何故か彼はキョトンとし、小生の怒りを理解できないようだった。
ツポレフでモスクワ
後半モスクワに国内線で移動することになった。
飛行機はロシア国産のツポレフ、夜8時頃の搭乗なのにお日様はカンカン、搭乗券はタラップの途中に例によってコワーイふとっちよのオバサンが仁王立ちになり、大声でわめきながら切符をもぎりとった。 
エェー!こんなの初めて!
飛行機の中は薄汚れ、綿ごみだらけ、椅子は擦り切れ、ベルトはヨレヨレ、前のトレイは壊れて用を成しませんでした。日本人は皆ビックリし、思わず顔を見合わせていた。ほんとに大丈夫なのかよと‥ スチュワーデスがこれまた怖かった。
今まで聴いたこともないものすごい騒音を上げながら飛行し1時間足らずでモスクワに到着した。思わずホッとした。因みにアエロフロートは日本人にはもっとも人気がない航空会社だそうだ。

ロシアの中距離旅客機ツポレフはボーイング727にそっくりだ

◆クレムリン宮殿
モスクワでクレムリン宮殿の中に入れてくれた。勿論入場料は払う。はっきり記憶していないが確か500ルーブル程度だ。強固な城壁に囲まれた内部には入ることはできないと思っていたがロシアも変われば変わったものだ。ソビエト共産党独裁政権の時には想像もできなかったことだ。中庭に入ると広場があり、その向こうにエリツィン大統領が執務をしている建物というのがあった。何の変哲もない3階建てくらいの普通のビルであった。黒塗りの大型車が頻繁に出入りしていた。
また、外国の首領達を招きいれる迎賓館のようなものも案内してくれたがこの建物だけは現代建築で何か回りとのバランスが取れていなかった。面白いと思ったのは内部にロシア正教の寺院がいくつもあったことだ。

内部の警戒態勢は当然のことながら厳重で、我々観光客の歩くところは決められており、少しでもはみ出そうものなら兵士がすっ飛んできて注意していた。しかし,コワイという感じではなかった。ためしにトイレに入ってみた。独立した建物で大理石でできた立派なもので、旧式だが流石に清潔だった。
<注>用を足すには飲食店か、みやげ物店以外にトイレは見当たらずあってもキタナイ。
これは蛇足だが、欧米の古いオトコ用トイレは便器の背が高く?足が短い日本人はモノが届かず困ることがある。お互いに顔を見合わせて照れ笑いする。このような目に会うとヒドク自尊心?を傷つけられる。日本の公衆便所は世界一キレイで立派だと思う。
            
 
  
  赤の広場とクレムリン宮殿                    トイレ入り口


 クレムリン宮殿内、大統領執務の元老院ビルとウスペンスキー寺院

◆プーシキン美術館

ここのコレクションは素晴らしい。
収蔵
絵画の殆どがルノワール、ピカソ、マティス、モネ、セザンヌなどヨーロッパ特にフランスを中心とした作品群である

ゆっくり時間をかけて堪能した。

◆ルーブル紙幣
ルーブルは自国の貨幣なのにドルの方が信用があり喜ばれていた。かつては宿敵だった米ドルが大手を振って何処でも通用した。ものを買うときも必ずドル表示がありドルの方が喜ばれた。
何か不思議な気がした。自国の通貨より他国の通貨を重んずることに違和感はないのだろうか。

一方、円はまるで通用せず簡単にルーブルに変えることができなかった。
日本を出るときに円をもっとドルに変えておけばよかったと後悔したが、これもまた後の祭りだった。それまでの体験では円はどこでも通用し簡単に交換できたからタカをくくっていた。
モスクワで手持ちの円以外にカネがなくなり、添乗員に頼んで何とか円をルーブルに交換したがレートは悪かった。

当時は日本人の観光客は少なかったのでやむをえない一面があったと思うが、あれから数年経った現在はどうなっているのだろうか。


ルーブル札

地下鉄の入り口も立派

◆地下鉄
各国に出かけるとフリータイムでは何処でも必ず公共交通機関に乗ることにしている。
観光用のバスに乗っているだけでは本当のことはわからないからである。何回かとてもコワイ想いをしたこともあったが‥

地下鉄に乗ってみた。まず驚いたのは地下へ向かって降りるエスカレーターの速さと轟音である。一律料金で、乗る前にカネを払いコインのようなものに変えて改札を通る。ゴーゴーと音を立てながらエスカレーターが地下に向かって猛烈な勢いで下りており、一瞬乗るのに躊躇したくらいである。
周りは薄暗く、何か地獄の底にでも吸い込まれそうな気分になった。
家内は恐怖でひきつった顔をしていたが今更引き返すわけにもゆかず乗った。長い間乗ったような気がするが、地下鉄はかなり深いところを走っているようだった。地下駅は地上では想像できないくらい立派なつくりであり、電車もやや旧式だったが違和感は感じられなかった。
日中だったが比較的混んでおり、乗客はごく普通の人々で、中には我々をジロジロ眺める人も居たが危険を感じるようなことは全く無かった。数駅先で降りて帰りはタクシーに乗った。

◆旅の終わり

最終日にモスクワ北西100キロ郊外にあるチャイコフスキー博物館を訪問した。郊外に出ると途中には別荘が立ち並んでいた。

別荘といっても我々が考えているようなしゃれたものではなく、雑木林や野菜畑に点在する質素な木造の小屋のような建物である。中には手すりつきのベランダのような造作が施されたものもある。現地添乗員の説明によると、夏の間比較的生活に余裕のある人々はここで過ごし、野菜つくりなどに精を出すのだという。
チャイコフスキーが亡くなる直前に住んでいたクリンの家は雑木林の中に静かな佇まいを見せていた。これがあの大作曲家の住んだ家か‥と思い感慨一入だった。記念にCDを一枚買った。勿論彼が作曲した「ロミオとジュリエット」という管弦楽曲である。因みに私は海外でも土産は家内の専売特許で殆ど買ったことがなく、今回は記念にと思い、人形を模ったグジェリの陶器の一輪挿しを買っただけだった。
昼食は近くのひなびたレンガ造りの教会であったが、ここで思わぬ楽しい接待を受けた。質素な田舎料理も美味かったが可愛らしい小学生?がマメマメしく心からの接待をしてくれた。
司教やシスターの方々も素朴で好感が持て、レンガ造りの建物と木の床の食堂の雰囲気は素晴らしく心が洗われるようだった。思わぬ収穫だった。

最後に思わぬハプニングに見舞われた。
帰国はモスクワのシェレメチェボU空港で、夕刻の出発であるが、どうしたわけかバスの運転手が道を間違えたらしい。幹線道路から未舗装の田舎の道に入り込み雑木林や畑の中を長時間走り回っていたのでおかしいなと思っていると、添乗員のミーシャが「空港への道を間違えたので近道をするが最悪の場合、出発便に間に合わないかもしれない。その場合はホテルの手配をする」と云うではないか。
オイオイしっかりしてくれよ!と舌打ちしたがこうなったらジタバタしても仕方がない。彼は私と視線が合わないように避けていた。「この小うるさいオッサンにまたクレームつけられる」と思ったのだろう。
運を天に任せることにしたが、何とか滑り込みセーフとなった。運転手や添乗員は必死の面持ちであった。

あわてて搭乗手続きをしてあたふたと乗り込んだ。
最後に空港でゆっくり土産の品定めをするつもりだった家内やその他の女性達は不満タラタラだったが、私はそれを横目で眺めながらニヤニヤ笑い機上の人になった。因みに飛行機は行帰りともヨーロッパ製のエアバスだった。
成田でいろいろあった添乗員のミーシャに「スパスィーバ」と心から?お礼を云い別れた。  おわり


チャイコフスキーの家


モスクワ郊外の教会と食堂 人物は司教と同行のメンバー


下の写真は「夏の宮殿」で撮影したもので、ロシアの名君であったビヨートル大帝の遺体が安置されている「棺おけ」だという。大理石で造られ、まだ誰も開けたことはないとの事。非常に立派で美しく大いに興味をそそられた。



<注>海外旅行の際、退屈な飛行時間をつぶすために帰路には旅の印象をメモにして残してきたが今回の紀行文にはこれが役立った。
また、掲載の写真は当時の銀鉛写真が中心である。

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