青葉城恋歌

♪広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず
 早瀬躍る光に 揺れていた君の瞳
時はめぐり また夏が来て 
あの日とおなじ流れの岸
  瀬音ゆかしき杜の都 あの人はもういない♪

これはかつて歌謡界で一世を風靡した美しい歌だ。
     「
さとう宗幸」さんが素晴らしい声で歌っていたものだ。

廣瀬川のほとり

仙台というと今でもこの歌と、廣瀬川がすぐ頭に浮かんでくる。1982年4月、杜の都、仙台支店に転勤した。すでに40台の後半に差し掛かっていた。

日立に4年間在任し名古屋や北海道を加えると地方生活が長くなり、そろそろ東京に帰ることが出来るのではないかと期待していたが、そうは問屋がおろしてくれなかった。
転勤そのものはサラリーマンなら誰しも経験することなので覚悟の上だが、やはり個人の生活設計やいろいろな家庭的な事情は厳しいものがあるのだ。
ご多分にもれず子供の教育や、年をとりつつある親との関係などの問題が重くのしかかっていた。
転勤者にとって子弟の教育は大きな問題だ。

長女は東京の大学、次女は日立の県立高校に在籍していたが仙台の公立高校への編入がうまく行かず、日立の知り合いの所へ下宿させることにした。女の子だから非常に心配したがやむをえない措置だった。担任の先生も転校に反対だった。下宿先のご家庭は大変温かい人々だったので本当に助かった。
奥方は東京の家に戻り、このときは単身赴任となった。しかし、世帯が事実上3箇所に分かれるというのは経済的にも気持ちの上でも今思うと大変つらいことであり、3年間よくすごしてきたとつくづく思う。
もちろん家族の協力があって何とか乗り越えてこられたと思うのだか…。口に出して言うことは無いがこの点では今でもとても感謝している。

仙台というと東北の表玄関であり、経済、観光の中心、風光明媚な文化都市、各企業の支店所在地、生活しやすい気候条件などのイメージが浮かんでくる方は多いだろう。それはその通りだ。しかし、仕事となると話は全く別だ。

社宅の環境は素晴らしかった


川向こうのマンションに居住
赴任したときのルートは日立駅から常磐線で郡山を経由、仙台まで直行した。数少ない特急が走っていたが時間は結構要したと思われる。
居住したマンションは会社が借り上げをしたものだった。廣瀬川沿いの「土樋」というところである。近くに愛宕橋という橋があったのを覚えている。当時仙台市は未だ政令指定都市ではなかった。この界隈の眺めや環境は真に素晴らしいものであった。
11階のベランダの先には廣瀬川がとうとうと流れ、近くにはなだらかな丘が連なり、真下の川辺には地元財界人の広大な居宅が並んでいた。本当に「杜の都」と呼ぶにふさわしい美しい都会だった。気候風土は文句なく最高であった。
このとき新幹線は大宮から仙台までであり、上野までの乗り入れは確か一年ぐらい後のことだ。地下鉄は未だ開通しておらず、社宅からは市営バスで通勤していた。当時、仙台支店は広瀬通一番町、歓楽街で著名な国分町の近くの東北銀行のビルに入っていた。

会社の業績は低迷していた
赴任先は支店として歴史のある名門と云われていた。過去にはマーケットシェアーも高く、かつては業界5本の指にも数えられていたが、当時は昔日の面影は無く、毎年シェアダウンし苦戦を強いられていた。理由はいろいろあったが要は昔の栄光にしがみつき、激変しつつあった業界の競争に後れを取り続けていたということだ。このことに今更触れてみても始まらないのだが、仕事の面からいえば全く不本意の連続だった。だがそのことを今更嘆いてみても始まらない。責任の一端は私自身にもあるのだから…
ここえ赴任してみて、今まで過ごした日立の営業環境が如何に素晴らしいものであったかが身にしみて分かった。この支店は余りにも保険商品の販売網が脆弱だったのだ。

この時期、私は「専任支店次長」と言う肩書きだった。支店長の補佐、代行が主たる仕事だった。当時仙台支店は宮城、福島、岩手三県にまたがる十数か所の支社や営業所を所轄していた。支店長のKさんは超多忙であり、トップ営業のため毎日の様に各地を飛び回っていた。私は支店長不在時の母店の責任者の立場であり、営業、内務のほかに「労働組合対策」も大きな仕事であった。

特に教条主義的で既得権を頑固に主張する労働組合(イデオロギーは無関係)とは鋭く対決していた。色々な事件が発生し、対応に追われる日々だった。今でも当時の出来事を苦々しく思い出すことがあるが、後味が悪い気持ちが抜けきらない。委員長、書記長等幹部は個人的には非常に優れた人々だったが、組合組織の元では頑迷だった。

各社間の競争は熾烈の度を深めつつあったが、マーケットシェアーは毎年低下し続け、かつては10%を超えていたものが当時は数%にダウンし、低落傾向に歯止めがかからない苦しい状況だった。

会社が私を大支店のナンバー2に据えたのは、前任地での数字の大幅伸張の実績を買われたのかも知れない。しかし、私はその期待に全く応える事は出来なかった。
私にそんな能力はもともと無かったのだ。前任地で営業成績が驚異的に伸びたのは、私のなせる業ではなく周りの環境がよかっただけに過ぎない。

マーケットシェアはあるとき突然ダウンしたのではなく長い間かかって徐々に低下し続けていたのだ。それに対して的確な手が打たれないままこのような事態になっていたのだ。支店全体に沈滞ムードが漂い、皆がぎすぎすしていた。

私は3年間を単身赴任という形で過ごした。支店のトップは最初の2年間がK氏、一年間はH氏であった。
特にH氏は後年役員にまで昇進した「営業の神様」とも云うべき有能な人物だったが、さすがの彼を以ってしても任期中に劣勢を回復することは出来なかった。私は支店経営の補助者だったので密接な関係を保ちつつ仕事を推し進めたつもりだが、すべての面で「役立たず」だったと思う。

「ホケン」という商売
ここで「保険屋の商売」とは如何なるものかについて若干述べておきたい。
本業は損害保険商品を売ることだ。至極当たり前のことだ。だが保険屋と言う商売は保険だけ売ればすむというものではなく、商売上の取引がある企業などの商品を斡旋販売の形で売らなければ本業に大きな差しさわりがあるのだ。この頃はすでに自動車保険が商売の中心であり、同業各社ともシェア競争にしのぎを削っていた。
自動車保険は当然クルマに付随するものであり、保険を販売するチャンネルの中で自動車デーラーは大きなウエートを占めていた。メーカー又然りだ。
保険屋と同様、自動車の販売はメーカー及びデーラーにとっては最大の課題だ。どんなによいクルマでも売れなければ全くお話にならないのは云うまでもない。

自動車業界にとって本業以外に多くの販売ルートを持っている保険業にクルマの販路を広げるのは当然の戦略なのだ。つまり「クルマ屋」と「保険屋」は切っても切れない関係にあり、持ちつ持たれつの関係でもあるのだ。これは全く理にかなったものであり、ギブ、アンド、テークの考え方から云って当然のことなのだ。
最近でもこの関係は続いており、クルマの斡旋販売の実績を上げれば上げるほど保険も売ってくれると言う関係なのだ。逆もまた真であり、クルマの斡旋販売実績が劣れば、保険はシェアダウンを余儀なくされる。OBとなり社友会メンバーとなった現在でも自動車購入斡旋の依頼が行われ、生き残りの重要課題と位置づけられているのだ。

ホケンの営業マンは新車が発表されると何台かの斡旋販売義務を課せられるのが常であり、マイカーのローンでアップアップしている社員は数多くいるはずだ。勿論私もその例に漏れず新車の買い替えでアップアップしていた。もっとも前任地の日立と同様、マイカーは必需品であったため利用価値は非常に大きく、私は月に一度程度は家族のいる東京間を往復していた。(当初新幹線は大宮、仙台間の開通だったので不便)東北自動車道路の走りや雪道での走行のコツをしっかり身につけたのもこの頃だ。
保険商品は当時大蔵省の護送船団行政下にあり、商品の価格は一律だった。他の商売に比べるとまだまだ甘っちょろいものだったかもしれないが、この支店ではこの競争にも完全に打ち負けていた。

仙台で3年間を過ごしたが一度も勝利を味わった事はなく、ずるずるとシェアダウンを繰り返し、何らの成果を挙げることなしに終ってしまったのは今になって考えても忸怩たるものがある。

記憶に残っている出来事
★社員の不幸が相次いだ
Sさんという優秀な営業マンが居たが、彼は私とは入れ違いに東京の営業拠点の責任者に栄転した。しかし、その直後に真にお気の毒なことだに、東京の自宅で出勤直前に心臓発作で急死したのである。この死去について労働組合が大きな問題として取り上げた。彼の死は労災死すなわち「過労死」だというのだ。
突然の病死と労災事故との因果関係をめぐって労使の対決となり、私は本社人事部長の指示で色々駆け回ったり、厳しい対応に明け暮れる日々が続いた。私は亡くなったS氏とは面識がなく、仕事ぶりや人となりは全く知らなかったため、人事部長から矢継ぎ早に各種調査指示があっても全く情報源がなく困惑した。その時大変助けていただいた方が、Sさんという営業課長だった。彼は営業日誌のようなものをかなり克明につけていたので色々有益な情報を教えていただいた。今でも感謝の気持ちを忘れる事はない。

労組との関係はますます悪くなり、抜き差しならない事態に発展した。
ある日会社側の対応をめぐって、仙台の同業者の組合組織(地域協議会)の代表十数人が支店長室に押しかけ抗議するという事態になった。私は支店長との面会を拒否し、代わりに彼等の全くいわれなき無礼千万な抗議声明を聴き、文書を受け取った。屈辱と悔しさで体が震えた。

更に、その後盛岡の支社でUさんという有能な若手職制が自宅で早朝、急死する事件が起きたのだ。このときは自宅に舞い戻り、マイカーで直ちに急行し、現地支社長と共に後々に禍根を残さぬように万全の策を講じたが、彼の遺体を前にして涙が止まらなかった。

彼はM大学ボート部出身のスポーツマンで明朗闊達、人望も厚い優れた人材だった。
まだ30代の前半だったが全くの突然死だった。立派な体格で健康そのものだと思っていたが、自宅のダイニングルームの棚の上にクスリの袋が山積みされていた。奥様に聞いてみると、ぜんそく発作を抑える吸入剤だという。彼はぜんそくに悩み、これを多用し最後には心臓発作で亡くなったのだ。しかも当日は夜遅くまでデーラー代理店の帳簿を自宅に持ち込み仕事をしていたという。晩秋の寒い朝だった。

私は本能的に「労災死」を懸念し、直ちにその大口代理店のデーラーに帳簿を引き取らせ、証拠隠滅を図った。とっさに「隠蔽」を図ったことになる。奥様にもある種の働きかけをしたが、彼女は夫が休日や帰宅後仕事を家に持ち込むことに何ら疑問は感じていない様子だった。これは私自身にも当てはまることだがビジネスマンの常識だ。

納棺のとき葬儀社が私に「手伝ってくれ…」という。遺体が大柄で並みの棺おけでは収まらないという。彼の硬直した足をさすりながら折り曲げて3人がかりで押し込むようにしてお棺に入れた。その時遺体の一部からツーと血液が流れ出た。彼が「サシカタさん、痛いよー!」 と訴えたような気がして「ゴメンネ」と謝ったが涙がどっとあふれ出た。このときの情景は今でも決して脳裏から消え去る事はない。一生忘れられないだろう。余りにも大きなショックだったのだ。
彼は東京からの若手赴任者の一人で私とは気が合い、懇親会などではサケを飲みながら色々な話をした仲だったので暗然たる気持ちになった。遺体の顔はまるで生きているようで安らかだったのがわずかな救いだった。

2名の有能な中堅社員の死去という厳粛な事実になんともやりきれない気持ちになると共に、身の不幸を嘆いたものだ。こんなことの繰り返しでは業績が伸びるはずもない。

★支店社屋の着工
これは唯一の明るい出来事だった。仙台のど真ん中、日銀のまん前に社有の遊休地があり、駐車場として使われていた。一方会社はT銀行のビルを借りていた。この土地にはかつて自社ビルがあったらしいが老朽化し取り壊されたものらしい。
K支店長の英断で新たにビルを建築しようということになり、確か1982年の秋に本社からH社長とK副社長が来仙し現地を視察した。私はお二人ををご案内し、必要性を強調した。二人は土地を見ながら何かトップ同士の話を交わしていたが、その様子から「ゴーサインが出るな…」と直感した。トップとしても名門支店の低落にカンフル剤を打ち何とか昔日の栄光を取り戻したいとの願いが強かったと思われる。

着工が決まり私と総務課長のH氏が推進責任者に任命された。これについても色々な事があったが、前任地でのビル建築の経験が非常に役に立ったのは言うまでもない。10階建てのビルだったが半分はテナントに貸す計画だった。設計図の段階で私が注文をつけたのは駐車スペースの倍増と多目的な大会議室の確保だった。本社の抵抗はかなり強かったが強引に押し切りった。この判断は決して間違ってはいなかったと思う。
竣工したのは1985年3月であり、この年の4月に東京に転勤したため、結局新築ビルで仕事をするチャンスはなかった。前任地でも全く同じで、作るほうだけで新ビルのイスに座ることは出来なかった。

★組織の再編成
支店経営の一つとして取り組んだことの一つに大がかりな組織改変がある。当時仙台支店が宮城県のみならず福島県、岩手県の両県を管轄していたが余りにも広すぎた。そこで福島、岩手を切り離しそれぞれを独立させ、支店トップを設け営業基盤を強化する方策を講じた。
完全実施に丸2年間を要した。本社人事部も含めて、大仕事だったが、このことについても労働組合との確執が絶えなかった。
ただし、労組との対立関係は、一方的に相手側に非があると決め付けるわけにはゆかないだろう。
私の人間力や対話力の欠如、コミュニケーションのとり方などにも大いに問題があった事は否定できない。

観光名所その他


瑞鳳殿(仙台市)

中尊寺

名君の誉れ高い伊達政宗公(仙台藩62万石)のお膝元であり、古い歴史のある、緑濃いしっとりとした美しい街並みだ。「仙台」という地名や大崎八幡宮を始めとする神社仏閣など正宗が残したものは数多く見られる。国宝に指定されているものも多い。
市内で行われる東北三大祭の一つ、七夕や、すぐ近くの作並、秋保温泉、松島の瑞巌寺、福島の飯山、東山温泉や会津若松、、岩手県、一関の中尊寺、三陸海岸等々「みちのく観光」には事欠かない。
これらのことをは改めて紹介するまでも無い。私は拠点指導、接待、代理店会の旅行、同業者との交流を中心に各所を頻繁に訪れたが心に残ったところを一つだけ挙げるとすれば一関の中尊寺だと思う。
.ゴルフ場も素晴らしいコースが多いが、地元の仙台CC、秋保CCなどでプレーする機会が多かった。スコアのほうはさっぱりだったが…



代理店会の旅行(釜石)
旅行好きの女性代理店が多い。
皆さんとても素晴らしい方々だった。

松島や ああ! 松島や…!


「食」に関しても名物が数多くあるが、仙台に関して云えば「笹かまぼこ」、「牡蠣」、甘いものでは「白松が最中」などだ。勿論米どころで酒もうまく、浦霞、一の蔵などの銘酒は絶品だ。
ただ、何故か「牛タン」が名物だが、あれは殆どが輸入牛を使っている。私は特に美味いとは思わなかった。

「ドサ回り」の終焉


総務課のメンバーが作並温泉で持ってくれた
送別会の写真(美人揃いだった)
長い、苦渋に満ちた3年が過ぎた。もうすでに50歳になっていた。思えば長い間「ドサ回り」をしてきたものだ。この言い方は余り良いとは思わないが、実感がこもっている。札幌を皮切りに都合15年の長きに亘り、各地を転々と巡業して回ったことになる。

私は東京本社への転勤が実現したし、損害調査部門の「部長さん」に任命された。ま、「ヒラリーマン」では兎にも角にも最高位?まで達したことになる。これは実力なんかではなく、正に長期間にわたる「ドサ回りへの勲章」だと思った。
人事異動の情報が大新聞に載った。それを見た東京の友人知人等、数名からお祝いの電話があった。率直にうれしかった。

赴任の前夜、奥方と下の娘が來仙し3人で仙台の味覚を大いに楽しんだ。今までの苦しかったことはすべて忘れようと思った。
(06/01/31)