楽しきかな フラメンコ

数年前にスペインへ出かけた。
季節は12月中ごろ、観光客は少ない時期だった。エキゾチックで、見所は非常に多い。観光の目的は主としてバルセロナでこの国の生んだ天才建築家「ガウディの遺産」を見ることにあったが、それ以外にもいくつかの得がたい体験をした。
これを2回に分けて述べてみたい。今回はこの国の伝統的な民族舞踊や歌であるフラメンコの見物その他を駆け足で巡ってみた。

「団体さん」ご一行

このツアーは「ANA」が企画したものだ。
そのコース名は「太陽の海岸コスタ・デル・ソルと情熱のアンダルシア…」という大仰なものだ。
ツアーコンダクターはTさんという女性だった。まず当然のことながらANAでヒースローまで行き、イベリア航空に乗り換え、夜遅く首都マドリードに到着した。確か数年前までは直行便があったはずだが… 
到着した晩、マドリードは寒かった。ここは標高700メートル近い高地なのだ。
とにかく長時間かかり,クタクタに疲れた。総勢25名近い参加者がいたが我々夫婦がそれまで参加したツアーでは最も人数が多かった筈だ。
若々しい新婚さんが大勢参加しているのが特徴的だった。記憶では数組すなわち半数を占めていたと思う。アツアツのツアーだったのだ。何しろここはイタリアと並んで日本人には最も人気のある観光地であり、新婚旅行のメッカということだ。

「ご一行様」の中で70歳に近い我々夫婦はダントツの年長者だったが、近い年代のKさんご夫婦が愛知県安城市から参加されており、この方たちとは懇意にさせて頂き、楽しかった。
当時の記録によると前半の行程は別記のとおりである。
(注)海外旅行のスケジュール表は殆ど保管してあるので、これを眺め写真と照らし合わせると記憶が鮮明によみがえってくる。

マドリードの観光はスリと引ったくりに注意
翌日「プラド美術館」「スペイン広場」等を中心とした観光が行われたが、この辺のことについては数多の観光案内に記述があるとおりなので、下手な紀行文を書くまでもない。プラド美術館の絵画の鑑賞は現地の日本人画家(女性)がガイドしてくれた。彼女は毒舌家だったが大変面白い説明だったと思う。スペインの生んだ画家といえば有名なピカソのことがすぐに頭に浮かぶが、かつてフェリペ4世の時代、宮廷お抱えの絵師だったベラスケスを始め、グレコやゴヤの大作には大いに感銘を受けた。
彼女の解説によるとベラスケスは「馬の絵」だけは苦手でヘタだったという。なるほどそう云われてみればそのようにも見えるが…
プラド美術館」へのリンク

この日、朝食後ホテルからバスで出発した。9時過ぎだったが辺りはまだ薄暗く街灯がついていた。バスはホテルの前の公園の向こう側に停車しており、ツアー客はそこまで数十メートル歩いてゆくが、途中我々を守るように警察官が数名立っていた。
ガイドの話では辺りの治安が悪く、日本人は格好のカモだという。用心のためにバスに乗るまで警護を頼んだとのこと。バックなどひったくられたら手放さないと相手は強引なので、引き倒され大ケガする恐れがあると注意された。
えぇー! こわーぁ!  だがこれは実際に起こったことらしい。
市内観光の帰り道、ご一行様とは別行動で例によって地下鉄に乗ってみた。中心街からホテルまで数駅だったが、全体的にこじんまりしており、車両は3両程度の編成で小型だった。一昔前の地下鉄という感じだった。まだ日が明るく、客はまばらで、老人が多く我々のほうをジロジロ。途中で民族衣装を身にまとった2名の楽士が乗り込み、目の前でギターを弾きながら歌を歌いだしたのには驚いた。知らん顔していたら次の駅で降りた。他の乗客も全く無関心だった。


プラド美術館
この絵はベラスケスの
ラス・メニーナス(女官たち)
この絵をクリックするとマルガリータ
皇女が拡大されます


スペインの誇り
世界屈指の絵画の殿堂


◆スペインの新幹線に乗る
翌日スペインの新幹線とも云えるAVEでコルドバへ向かった。マドリッドのアトーチャという駅から南に向かって伸びている鉄道だ。駅の構内がまるで植物園のようで面白かった。

スピードは驚くほどではないが、電車の乗り心地は上々だった。2時間あまりでコルドバに到着したが途中は畑やなだらかな丘や草原が続いていた。下車した途端にマドリードとは違う空気を感じた。ここはイスラムの香りが色濃く残っていたのだ。
メスキータ(モスク=回教寺院)に足を踏み入れて実感した。ここの歴史は古い。8世紀の初めに北アフリカからイスラムの進入をうけ、13世紀にキリスト教の再征服をうけるまで、イスラム文化の支配下にあったとのこと。


メスキータのシンボル

モスク内部

イスラムの世界?

外部城壁

ショップ

ユダヤ人街

フラメンコ
セビリアに移動し、その晩フラメンコのショーを見物した。非常に面白かった。
劇場は小さく薄暗い。お客はワイングラスを傾けながらショーを眺める。この時期お客は少なくガランとしていた。
歌あり踊りありで変化に富んでいた。スペイン美人のダンスや身のこなしもすばらしかったが、何ともいえない哀愁を帯びた歌声と情熱的な独特の手拍子とリズムの取り方は強く心に残った。「フラメンコ音楽には楽譜は要らない」というのは事実だ。他の西洋音楽とは全く異なる次元のものだ。始まりも終わりもない自然の原点を行く音楽なのだ。
リーダーは舞台向かって左の太っちょのオッチャンだったが、彼の歌声や節回し、独特のリズムの取り方は、すばらしかった。2時間程度のショーだったが瞬く間に過ぎた。ワインのお代わり数杯ですっかりいい気持になった。

男女2名のソロダンサー
女性はとてもチャーミングだったが動きが
速く、撮影は困難だった。
なお、右のタイルの模様は舞台の右袖の
もので大変美しかった。
オールスターキャストのフィナーレ
フラメンコとはジプシーによってもたらされ、南スペインで開花した芸能だそうだ。歌と踊りとギターの構成が最もポピュラーだが、フラメンコの花形は意外と踊りではなく、始めに歌(カンテ)があったとされている。これにギターがつき、踊りは一番最後に発展したというのが通説とのこと。そして、カンテを何度か聴いていると、その虜になってしまうらしい。
これは余談だがスペインの生んだクラシックの音楽家にも優れた人が多い。
作曲家ではファリア、があまりにも有名だがロドリーゴやアルベニスのギター曲などにも傑作が多い。演奏家では何といってもチェロのカザルスが世界的に有名だ。ロドリーゴに関しては、わが国に村治佳織さんという美しいギタリストがいるが、昨年彼女がロドリーゴ室内管弦楽団と競演した「ある貴紳のための幻想曲」の演奏はすばらしかった。

セビリア市内観光
写真の一部を添付するにとどめたい。
アンダルシアの中心で、闘牛と前記フラメンコで有名な都市で、史跡や見所は非常に多いが説明をするまでもない。 カテドラル(大聖堂) 、マエストランサ闘牛場 、アルカーサル、スペイン広場等が有名だ。やはり南だ。12月だというのに春のような陽気だった。闘牛のシーズンではないので闘牛場は閉鎖されていた。
これはガイドに聞いた話だが、闘牛というスペインの国技はあまりにも残酷だというので下火だという。バルセロナ辺りでは「もう止めろ」という声もかなり出ているという。


スペイン広場

回廊

カテドラル

壮麗な祭壇?

絵画

楽譜のような古文書

南の果てのリゾート地
セビリアから更に南下して目指すはリゾート地のコスタ・デル・ソルだ。途中、崖の上にあるロンダの街に立ち寄った。行程はすべてバスだが山岳道路で曲がりくねった道を上がったり降りたり、すっかり車酔いになってしまった。
夕刻に海岸のホテルに着いたが、ジブラルタル海峡の向こうはアフリカ大陸で、モロッコは近くに位置していた。
「遠いところへ着たなぁ…」と思った。日没後の空が何ともいえないくらいきれいだった。さすがにシーズンオフで、ホテルは閑散としていた。

崖の町 ロンダ
右はコスタデルソルの夕暮れ
左はロンダで見かけた教会?

古都グラナダは遺跡の街
翌朝バスで古都グラナダへ向かった。ここの観光の中心は何といってもアルハンブラ宮殿だろう。途中でミハスという可愛らしい感じの街に立ち寄った。まるで童話に出てくるような街並みだった。
アルハンブラ宮殿は丘陵地帯の高所の広大な敷地に建てられており、見る者を圧倒する。イベリア半島最後のイスラム王国の宮殿で、その香りが漂ってくる美しい天井や、壮麗なアラベスク模様に彩られた壁が印象的で、当時の華やかな宮廷生活に、しばし想いを馳せた。
写真は省略したが広い庭園もすばらしく植物の種類も多い。「庭園」と云えば、糸杉と噴水の立ち並ぶ「フェネラリーフェ」も美しい。ここの印象を前記作曲家のファリャが「スペインの庭の夜」というすばらしい交響詩にまとめ上げているが大好きな一曲だ。ネットで美しい素敵な写真集を発見したのでリンクさせていただいた。
スペイン紀行・アルハンブラ宮殿へのリンク

右は日本人夫婦が経営しているお店
左はミハスの街の一隅
アルハンブラ宮殿
煌びやかではないが、すばらしい
遺跡で感銘に残った。
左の写真は宮殿から眺めたアルバイシン
の街。ここはグラナダでもっとも古い地区と
云われており、街自体がすべて遺跡。
道は迷路のようで不思議な雰囲気が漂っていた。
上の写真はヘネラリフェのシェラ・ネバダの噴水。水の音がまるでギターの名曲
「アルハンブラの思い出」を連想させる。

食事の時間が取れず、用意されていた寿司弁当(おかしな味の寿司だった)をグラナダの空港で摂り、いよいよ最終目的地バルセロナに向け空路飛び立った。(次回につづく 05/01/31)もどる