top
幼少時代



思い出話」の最後に出生から幼年時代のことについて触れておきたい。

■両親のことなど

まず出生の地、両親のことについて若干触れておきたい。生まれは東京豊島区である。

東京は江戸府から東京府に変わり、その後都になった歴史があるが、区政が敷かれる以前はこの辺は北豊島郡長崎村という地名であり、田畑が広がる武蔵野台地であったと云われている。池袋村などと異なり、鉄道駅がなかった事こともあり人口密度は低く雑木林が広がる過疎地帯の農村であったようだ。

土地の歴史を調べるには郷土史を紐解くのが正解であるが、近くの神社を訪ねるとある程度分かることがある。

自宅から2キロほど離れた西武線の椎名町駅の前に長崎神社という社があり、今でも正月元日には、初詣客が長蛇の列を作るのだが正に地元に根付いた神社と言えよう。
ここに長崎村の原点を見出すことが出来る。


私が生を受ける前年の1932年(昭和7年)に豊島区が誕生し、その後東京郊外の住宅地として発展していったと言われている。(区史による)

父親は指方家の3男の龍二といい、母親は中山家4女幸子である。その長男として生を受けた。

父の龍二は長崎県佐世保の出身で、素性はよく判らないが、文学青年で田舎の漁師町と貧困がイヤで大阪へ出奔、雑誌社に勤め、更にその後上京し、編集者になった男である。

彼は本来小説家になりたかったようであるが才能及ばず編集者に甘んじたらしい。

家の押入れの中には昔の同人雑誌がかなり多く残されており、その雑誌のページを繰ってみると髪を長くした若かりし頃の親父の写真を見ることが出来た。

又確か「指方蒼月」とか云うペンネームで三文小説や随筆などを投稿していたらしい。作品を目にすることも出来た。

関係していた出版社は苦楽、春陽堂、講談社、新潮社、小学館などと聞いており、編集者時代、大仏次郎、吉川英二、江戸川乱歩氏など著名な作家とかなり懇意な仲であったらしい。

その後ユーモアクラブなる雑誌の編集長になったと記憶している。

学歴は早稲田大学夜間部にいたというが真偽のほどはわからない。

    サシカタという姓は珍しいがルーツは九州の長崎県北松浦郡近辺にあるものと推測される。
(注)2006年8月に九州を周遊した際、指方町と言う町が佐世保の近くにあるのを確かめた。

両親がどんな経緯で一緒になったのかはわからないし聞いたこともない。

母は東京牛込の出身で、チャキチャキの江戸っ子である。父親(祖父)は中山太郎といい長年教職にあり、最後には江東小学校の校長であったと聞いている。後に東京の小学校校長会の会長まで勤めたと聞いていおり当事の教育界ではかなり名の通った人物であったらしい。

家のたたずまいは80坪ほどの土地に約30坪ほどの平屋建ての木造住宅が建てられていた。この家は親父が建てたものではなく前述の祖父に当たる中山が娘のために建ててくれたものとの事であり、このことを後年母が何かにつけてイヤミたらしく口にするので親父は不快な気分であったと想像する。

家は典型的な当時の日本建築で極めて平均的なグレードであったようだ。間取りは、和室が四部屋と台所風呂場といったところであるがかなり広い廊下があった。この内2間は廊下で仕切られていた。

この家の普請は実にしっかりしていた。後年いろいろな事情でこの建物の上に2階部分を増築したが、このような工事は「お神楽」といって本来危険なのでやってはいけない工事であるが、柱が太く、土台もしっかりしていたため出入りの工務店が請負った。地震などのときにどうなるかと心配したが、数年前に全面立て替えるまで原型を留めていた。当時の建築技術は大変優れていたことを証明している。庭は比較的広く門から玄関までは広い石畳が敷かれていた。

南側の庭は全面、芝生で木製の門の傍に松、並ぶようにして桜の木が3本植えられておりその内1本は八重桜であった。これ以外には紅葉、梅、つつじ、イチジク、等が植えられ、垣根は生垣であった。子供の遊び場としてはブランコと砂場が設けられていた。庭の片隅には木戸があり、通常の出入りや商人の御用聞きなどはそこから出入りしていた。

日当たりはよく環境的には問題なく生活も中流家庭の平均的なものであったと記憶している。

生まれ育ったところ(現存していない)

立地は冒頭述べたように豊島区であり23区内ではあるが最寄の駅はJR池袋であった。なお、西武線(当時は武蔵野鉄道)の椎名町もほぼ同じ距離に位置しているがローカル線であった。池袋は今でこそここは大変な賑わいを見せている街であるが当時は東京の郊外といった趣があった。

小学校の校歌に♪土さえ香る武蔵野の‥♪とあり、近くの立教大学の校歌にも♪芙蓉の高嶺を雲井に望み、紫匂える武蔵野原に‥♪とあるように当時この辺は武蔵野というに相応しい場所であったようだ。
武蔵野の趣は今、武蔵野市吉祥寺以西や埼玉県の志木、
付近にわずかに面影を残しているが特徴は雑木林だ。

池袋は西口を中心に発展したが、当時はきわめて辺鄙なところで、駅を降りると左側は豊島師範と云う学校でそれに続いて今の立教大学が並んでいた。それ以外に目立った建物もなく繁華街もない淋しいが環境の良い文教地区であった。

住居の近くは雑木林や田畑が多く見られ、家はポツンポツンと建っていた程度だと思われる。その後、宅地開発が盛んに行われるようになり住宅街として発展していったものと思われる。

まだまだ自然は豊富で家の前はやや高台の広々とした土地が広がり、草木が生い茂り、魚のすむ小川や池なども点在していた。ありとあらゆる昆虫類の天国であり、小学校低学年の時代には朝晩昆虫採集に熱中した。

住居は駅から3キロ程度離れており、子供の足では40分程度を要したのでバスを利用していた。


■幼年期
の出来事
生まれたのは1933年4月21日である。
当日の新聞記事の一つを貼付してみる。この記事は神戸大学電子図書館からの引用記事である。
「ドル暴落」の経済記事だがこんな事態が現代にも近々起こりうる可能性は大いにあると思われる。


1933年(昭和8年)前後の世相
当時の主な出来事を挙げると以下のとおりだ
この数年前の1929年にニューヨーク株式市場が大暴落し、その後の世界恐慌の引き金になった。この日は「暗黒の木曜日」などと呼ばれている。この大恐慌はわが国にも飛び火し、社会、経済への不安が一気に広がった。
そして満州事変と5.15事件など軍部の暴走が日本を戦争と破滅へと導いてゆくことになる。軍国主義の暗黒の時代への幕開けである。

幼年期とは何時までを指すのかよく判らないが、一応この世に生を受け、物心がついてから小学校入学までを一つの時代と捕らえ記述してみたい。

それこそ昔々の事なので記憶は無いかあってもきわめて断片的なものである。

兄弟は3名であり私は長男である。3歳下の妹と10歳近く離れた弟が居る。

当時は「生めよ 増やせよ!」が国策であったから3名程度は普通であり、多くの家庭は3〜5名程度は居たものである。一人っ子は非常に少なかったと記憶している。そして、当然のことながら男の子が大切にされた時代であった。理由は「将来お国を背負って立つ…」からだった。

*マンガの世界
今のようにテレビやゲームがあるわけでもなく楽しみは絵本やマンガだった。
勿論玩具も一種の宝物だった。子供向けのマンガは数多くあったと記憶しているが特に今でもよく覚えているのはのらくろ(田河水泡)冒険ダン吉(島田啓三)フクちゃん(横山隆一)などだ。本当にわくわくしながら読んだものだ。
当時のマンガは現在の劇画風のマンガとは全く異なっていたが、良くも悪くも世相を反映した内容だった。
買ってもらったものもあったが当時は個人的な貸し借りも多かったと記憶している。いずれも新聞や雑誌の連載以外に、立派な装丁を施した単行本として出版もされていた。


のらくろ

冒険ダン吉

フクちゃん


流行マンガのキャラクター


*楽しい紙芝居
マンガは当時文句なく楽しい読み物だったが、それにもまして面白がったのが紙芝居だ。

一種の動画の世界で、水あめなどを口にしながら洟垂れ小僧が目を輝かせながら食い入るように眺めたものだ。お話はいずれも他愛ないものだったが、勧善懲悪、礼儀作法、愛国心などを取り挙げたものが多かったと思う。
テレビなど全くない時代だからとても楽しいものだった。

■ 23歳の頃までの記憶は全く無い。
その後であるが、この時期はひと言で言えば「腺病質の時代」と云えるだろう。
兎に角俗に言う「蒲柳の質」で医者のお世話になることが多かったようである。

何故なのかよく判らないが一ついえるのは長男で甘やかされた一方、母親が全ての面で異常なほど神経質であったことが挙げられよう。

今でもこの時代の育て方はマチガイであったと思うことがある。

子供はもっと自由奔放に育てないとだめになる典型であった。精神的にも肉体的にも非常に頑健になったのは後年田舎に縁故疎開して親元から離れてからだ。

この頃はよく熱を出した記憶があるが、カゼや扁桃腺炎の発熱であったことが多かったように記憶している。医師からは扁桃腺肥大と診断され、切開手術を薦められたらしいが実行はしなかった。

食は細いほうでヒョロヒョロにやせていたので食べ物には関心が薄く、もっと食べろといつも言われていた。

しかし、いくら云われても食べたくないものはダメであり、うるさく言われれば言われるほど拒否反応が強くなった。

特に米の飯はキライであった。好きなものはバナナとかスマックというアイスクリームの一種、カステラなどだが当時は全てが高価であり簡単には口に出来なかった。

そんなわけで熱を出すとよく医師の往診を受けたが先生は赫(テラシ)さんと云い近くに医院を開業していたはずである。

大体風邪の発熱程度で在宅往診を受けるなどは今では考えられないことなのだが、母親が異常なほど神経質でありこのようなことになったのだと思われる。

子供は熱があっても比較的元気でありじっと寝ては居ないものだが、医者が来るときには床に入り大人しくしているよう厳命された。真にこっけいな話である。

後年、小生が実際に子供を持ったときに感じたことは、人間は意外に丈夫なものであり発熱でも元気なら全く心配は要らないということである。

この医者は読んで字のごとく赤ら顔の比較的年配の医者であったが、いつももったいぶった態度であり、直ぐに注射を打ちたがった。

もう一つの特徴はこの頃、体がひ弱であったためか、やることなすこと全てに自信が無く、鈍重で消極的、顔つきはオトコとしては優しすぎたためか、近所の「悪がき」にいじめられる事が多かったと記憶している。いじめは現代の大きな社会問題として騒がれているが、当時から堂々と行われていたのであり、何も特異な現象ではない。

「泣き虫」で近所でも有名であったようだ。だから遊びも女の子と一緒にいわゆる「ままごと」や「お医者さんごっこ」なる女々しい遊びをやることが好きであった。今から思うと少しエッチ??だったのかもしれない。

親父は育児には無関心なほうで、単行本や雑誌の編集者故か生活は不規則であり、いつも帰りが遅く、何を感じていたのか余り記憶にないが、富国強兵の時代であり、弱虫で女々しいのをひどく心配していたようだ。

この時代余り楽しい思いではないが、3月の「ひな祭り」とか5月の「端午の節句」などには床の間に結構大きなひな壇が飾られ、雛人形や鎧兜などが並び楽しかった思い出が今でも鮮明に残っている。

妹が居たため3月の「ひな祭り」には父親がしまいこんでいたひな壇を組み立て、赤い毛氈の上に人形を箱から取り出し丁寧な手つきで飾っているのを子供心に覚えている。夜になると、雪洞の幻想的な明かりが床の間や8帖の間を照らし、何かうきうきした様な気分になったのを覚えている。端午の節句やこいのぼりのことより良く覚えている。

また、この床の間には普段掛け軸が下がっており、季節の変化に応じて架け替えられていたが、当時の中流家庭では行われていた風習であり、これらの行事は一種の風物詩であり、季節感を養うことと子供の情操教育には非常に効果的ではなかったかと思われる。都会では住環境もあり今はこんな風習は廃れてしまった。


◆やがて6歳になり近所の幼稚園に入園することになった。

その幼稚園は徒歩10分ぐらいのところにあり、「若葉幼稚園」という名前であり、園長は佐々木と云い、おばさんかお婆さんであった。幼稚園経営は同族で行い、だんな、娘や息子も手伝っていたと記憶している。








この写真は卒園式 ナント70年も昔のこと

この幼稚園は現存しないが近くに佐々木医院という医院があり、そこで息子が医者を開業していたが10数年以前に亡くなった。

この園長は、意地の悪さは無く、単純な性格であったが、いつもガラガラ声を頭のてっぺんから出すような人だった。ここでも余り楽しい思いではないが、クリスマスの飾り付けや有名な賛美歌、「諸人こぞりて」とかを教わった記憶がある。

この時期だけは楽しかったものである。また、それに続く正月も楽しかった記憶がある。昔は「はぁやくこいこいお正月♪」の歌にあるように正月は本当に楽しかったものである。

この時代の正月は何時もは口に出来ない山海の珍味や甘いものが食卓に上り朝から親父がご機嫌で一杯やっており何時もはウルサイお袋もニコニコし、何がしかのお年玉も貰えたからである。

当時女中と呼んでいた「お手伝いさん」が同居していたと記憶している。名前は「オシズ」といったと思う。
この人は裏の3帖間に寝泊りしていたが何がおかしいのかよくゲラゲラ笑う女性であった。とにかく太っており鏡餅を連想させた。こういうのを当時「百貫デブ」と呼んでいたが、全く馴染めなかった。私もいろいろ意地悪なことをした記憶があるが何時も軽くあしらわれていた。

記憶では1〜2年程度で田舎に帰ったと聴いたがこれ以上の詳細はわからない。

この頃、近所に家を建て住んでいた祖父母のうち祖母が突然亡くなった。真にあっけない最後であった。病名は「腸ねん転」であったと記憶している。

この祖母の印象はきわめて薄く、小柄な老婆としての印象しかない。

その直後から独りになってしまった祖父が廊下を隔てた6畳間に同居するようになったが、その祖父との折り合いは余りよくなかったように記憶している。

彼は教職にあった者にありがちな中身はカラッポの癖に妙に尊大ぶった態度を示す権威主義者で、ある意味では滑稽なオトコであった。その上、極端に神経質でありその仕草がわざとらしくてどうしても好きになれなかった。


後年、母が「貴方はトシを取ってきたら死んだお祖父さんそっくりになってきた」と言われ、エェ!やだなと思ったが、血は争えないものだと改めて感じた次第である。よく聞いてみると容貌のことらしかったのだが、あの嫌っていた性格はこちらに引き継がれているのかと思うと憂鬱になった。


■親戚の人々

この時代は親戚づきあいが結構盛んで父母の親戚がよく来宅し、母方の親戚とは特に往来が多かったと記憶している。

特に伯母に当たる高橋キヨコ宅との往き来は頻繁であった。家は小岩付近だったと記憶しているが、この伯母は教師をしており非常にモダンなタイプでなかなかの美人であった。

遊びに行くと家には当時としては珍しい大きなオルガンがあり、彼女はそれを弾きこなしていた。母方の親類ではこの伯母が最も魅力があり、彼女も小生にはとても目を掛けてくれたと記憶している。この伯母には非常になついていたと思われる。

彼女には3人の子供がおり上からヒロコ、タケシ、キヨシと名乗っていたが、

特に影響を強く受けた人はタケシであり年上の従兄に当たる人物である。

彼は、小生より5〜6歳年上で確か中学生であったが、博識の上に、なんでも器用にこなす人物で小生があこがれた人でもある。

特に、絵がとても上手く、色々な楽器を器用に弾きこなしていた。当時一番手軽で流行っていた楽器はハーモニカや木琴であり、ピアノやオルガンは家庭には存在しないのが普通であった。

彼はオルガンやアコーデオンも上手に弾きこなしていたが、ハーモニカの吹き方は彼に負うところが多かった。

ただ彼にはドモル癖があり時々妙な咳払いをするのが気になったが、非常に繊細な神経の持ち主で不あったようだ。しかし、後年私が小学校高学年になる頃から彼らとの交流はぱったり絶えてしまった。

ヒロコは派手で大柄な感じの女性で妙なシナを作る笑い方をした記憶があり、弟のキヨシは甘ったれなガキという感じで深く付き合った記憶はない。

それ以外の親戚づきあいとしては、母方に山崎という一家がおり、船橋で大きな卸問屋を営んでいた。ここの伯母は豪放磊落なタイプで、でっぷりしており女親分の風情があった。商売柄そうなったものと思われるが、子供は女の子が一人居たが名前は忘れた。当然小生より数歳以上年上であったと記憶している。

父方の親戚では長野に伯父がおり、遠方ではあったが、比較的行き来があった。

特に夏になると避暑を兼ねて涼しい信州に何泊かお世話になったことを覚えている。

この伯父は安市といい、当時中部電力に勤めていたが、長野市郊外の吉田というところの社宅に住んでいた。一級建築士であり、仕事も会社の施設を保全管理するようなことをしていたが酒好きであり、かつ酒癖は悪かった。

いわゆる酒に飲まれるタイプであった。伯母はこのことでずいぶん苦労したものと思われる。

決して悪い人間ではなく頭も良かったがサケを飲むと人格が変わってしまうのであった。オンナ癖もかなりのものであったらしいが詳しくはわからない。

彼はサラリーマンといっても一種の技術者であり、いろいろな現場に出張し、職人を指揮していたので、遊ぶほうもかなり派手であったらしい。

幼い頃、法定伝染病の天然痘にかかり、不幸にも疱瘡が顔に残ってしまった。

いわゆるアバタヅラであった。

今でこそこのような不幸な病気は日本では皆無になったが、当時は結構いたものらしい。

なかなか苦みばしったイイオトコであったが、彼はこのことをひどく悩み、一種のコンプレックスを抱いていたらしく、サケを飲んだりすると悪酔いしたり、オンナに狂ったりしたのはこのことも原因の一つであったらしい。

小学校高学年の頃、この家に縁故疎開したことがあり、日常生活を共にした体験があるがそれは戦時体験というサイトで記述した。

この家にヨシコという女の子が居たが彼女は実子ではなかった。

当時は今と異なり男の子の跡取りがほしい時代なのに、伯母が生まず女であったことから、酒を飲むと辛く当たっていたらしい。
原因はどちらにあるのか分からないのに、当時は子供が出来ないのは一方的に女性側に責任があると決め付けていた。全くオカシナ風潮であったが当時はすべてが男社会でありなんら異論を唱える者はいなかった筈である。

また、この家に指方募(ツノル)という若者が寄宿していた。この人物は私にとっては従兄に当たるが、父方の長男である指方惣吉の子で長崎から建築の勉強のためここ長野の伯父のところに寄宿し、市内の建築専門学校に通っていたものである。

当時はさほど親しい仲ではなかったが、後年、彼が横須賀の久里浜にある海軍兵学校の生徒になり、休みの度に寮から自宅に遊びに来るようになってからいろいろな面で影響を受けるようになった。

彼は映画が大好きであり土曜日に泊りがけで来宅すると翌日には池袋の映画館に出かけることが多かった。

当事の映画は余り記憶がないが、富国強兵の時代であり忠君愛国ものか戦争賛美のお涙頂戴の映画が多かった筈だが、彼は当事非常に人気のあった李香蘭、後の山口淑子の大ファンであった。

■近隣の人々

近所の様子について少し述べてみたい。向かって右隣はKという家で確か兄弟4名であったと記憶している。一番上がヒロオと云いその下がアツシと言ったと記憶しているがその下の男の子と女の子の名前は思い出せない。

また、左隣はH家であり、長男がテツオと云い次男がシュウジと言ったはずである。またカズコという女の子が居た。

この家の子供は皆、なかなかデキが良いというので少しお高くとまっていたように感じていた。全員勉強が出来るとの評判であった。
母親は非常に美人だったと記憶しているが、色白と言うより何時も顔面蒼白な感じで病的な印象を受けていた。子供心では少しコワイ感じがした。父親は新聞社に勤務していたが、温厚な紳士でインテリであった。
















近所の遊び仲間


自宅前の私

当時カメラは高級品で、持っている人は限られていた。
このスナップ写真は誰が撮ったのか判らないがめずらしい。
少なくとも親父が撮ったものではない


もう一家比較的良く遊んだ友達に数件離れた場所のIと言う家があった。

ここの両親は小学校の教師であったが、3名の男の子は不良っぽい連中で、粗野な感じであった。この家の連中との交友を母親は何故か嫌い、何度も「付き合うな」と言われていたのを覚えている。これも母親の真に身勝手な考え方であり私は強く反発した。長男はマサヲ次男はカヅトシといったが他の子は忘れた。

■その他の人間関係で思い出に残っていることを少し述べてみたい。

前述の通り親父は当事「春陽堂」という出版社の「ユーモアクラブ」という雑誌の編集長をしていた。

彼の部下であるNさんと女性記者のNakanoさんと云う人がよく我が家を訪ね仕事の打ち合わせか何かをしていた。男性の新島さんはメガネをかけた優男であったが余り印象に残るようなことはない。

一方の女性記者のNakanoさんのほうはよく覚えている。当事はまだ珍しい職業婦人と呼ばれる云わば時代の最先端を突っ走るような女性であった。非常にモダンな感じのする美人で、我家にもちょくちょく出入りしていた。
彼女を巡って親父とおふくろが何か言い争いをしているのを何度か聞いたことがある。一種の痴話げんかだと思う。
親父とNakanoさんとの間にオトコとオンナの何らかの関係があったかもしれないが、勿論はっきりした事はわからない。

朝日新聞の連載モノに「おやじのせなか」という記事がある。

「子供は親の背中を見て育つ」というが、おやじはどんな背中を見せていたのだろうか。

親も人の子であり、よい面とあまりほめられない両面があるのは当然である。

おやじは前にも述べたようにジャーナリストのはしくれであった。

具体的に云うと若い頃作家を志したが、才能が無いため雑誌の編集者に甘んじた男である。

彼の日常は出版社に勤め、作家のところへ原稿を取りに行き、原稿を校正したり編集したりして出版に持ってゆくことであった。話はそれるが当時大仏次郎とか江戸川乱歩、山手樹一郎というような小説家に可愛がられよく出入りしていたようであるが作家などという連中は性分が勝手気ままで気が向くと原稿が進むがそうでないと仕事にならないこともよくあったらしい。時々こぼしていたが編集者はなだめたりすかしたりしながら根気よく成果を得るような努力も欠かせなかった。

サケの付き合いも多く毎晩帰宅は遅かった。サケは好きで強かった。

仕事は夜が多かった。昼と夜とが逆転したような生活だった。母はそれをひどく嫌がっていた。当然である。父親は教育者であり校長まで勤めた男であり、少なくとも表面的にはキマジメだったからである。

編集者というのは見ていると地味な仕事である。彼は夜の夜中かなり酔っ払って帰宅すると、寝てしまうのではなく原稿用紙にいつも赤ペンで誤字を直したり、文章の添削を繰り返したりしていた。

こんな有様だから大変なヘビースモーカーであり歯は黒く汚れていた。

タバコの煙がモウモウとしていた筈であるが、昔の家は天井が高く隙間だらけであったためかあまり感じなかった。しかし、母がタバコの吸殻や灰で回りが汚れているのをいつも嫌がっていた。

夜中にトイレに行くといつ机に向かっていたが、うつら、うつら船をこいでいるような事も多かったと記憶している。机の上には何時も分厚い赤い表紙のかなりくたびれた「新村出の広辞苑」がでんと乗っかっていたのを鮮明に思い出す。しかし、彼はそんな生活を苦痛とは感じていなかったに相違ない。むしろ楽しんでいた風であった。好きなことをしていたからである。その意味では幸せな人間であったといえよう。

今私はオヤジが大切に使っていた古い本棚を使っているが、これは江戸川乱歩氏から寄贈たれた品であるという。古いものだがしっかり出来ており昔は乱歩全集が並んでいた。

その他作家から結婚の祝いに貰ったという机や茶箪笥などがあり、母が使っていたが、当方では使う予定も無いので母親が亡くなり改築の際に総て処分してしまった。(2007年6月)

思い出話」はここですべておわり

<あとがき>
これで「思い出話」はすべて終了し、このサイトの作成もほぼ目的を達成した。
私の「自分史」もこれで終りだ。

勿論やがて75年になろうかという人生のすべてを言い尽くしたわけではないが、
これ以上愚にもつかないことを述べ立てても仕方がない。   
ページのトップに戻る


<付録写真>
以下の写真は当時から現在に至るまで.なお姿をとどめている懐かしの場所である。最近撮ったものだ。

但し、母校である要小学校は戦後、木造から鉄筋コンクリートの校舎建て替えられている。しかしそのたたずまいは大きく変わってはいない。
  時々これ等の場所に足を運び、在りし日々のことを思い起こし感慨に耽る。


粟島神社   俗称 弁天様
かなり大きな池に囲まれた神社で、周りには雑木林や小川などもあり悪がき共の絶好の遊び場だった。池の水はこの小川から引き入れていたので比較的キレイで生物も豊富だった。
毎日のように出かけては昆虫とりや池のえびや魚釣りに熱中したものだ。

現在は雑木林や小川は無くなり、宅地となっている。
池は人工のものになり前面に申し訳程度に残っているだけだ。鯉や亀などが飼われている。
本殿や鳥居なども戦後改修されたものだが、御影石で出来ている頑丈な太鼓橋は昔のままだ。
富士塚  俗称  富士神社
ここは歴史的な文化財で、国の重要有形民俗文化財に指定されている。その昔、文久2年に建立された高さ10メートル前後の小山である。

いわゆる富士山信仰の富士講により、富士山に登れない人々のために作られたといわれ、表面は富士山の溶岩等で覆われており、浅間神社と深い関係のある石像、石碑、仏像などが所狭しと配列されている。
かつては悪がきの遊び場で、よくここでかくれんぼや戦争ごっこなどして暴れまわったが戦後大改修され文化財の指定を受けたため今は勝手に立ち入る事は出来ないが歴史的建造物として非常に興味深い場所だ。

要小学校 校門付近 (旧長崎第二小学校)
春は桜がとてもキレイだ。校庭のほぼ中央付近にポプラの大木があったが今はイチョウの木に植え替えられている。
校歌の冒頭に♪朝夕集う鈴掛の…♪とあり、二番に♪土さえ香る武蔵野の…♪とある。昭和の初期、この辺りはまだ武蔵野の自然や面影が残る東京郊外だったのだ。

ここは現在国政をはじめとする各選挙の投票所に指定されており、選挙の際には教室に出入り出来る。
大変懐かしく、その時だけは童心に帰ることが出来るのだ。
卒業は戦争直後の混乱期で、疎開騒ぎ等もあり同窓会などは開かれた事は無い。

2007/08/13