大事にしているアイヌの木彫り

1968年(昭和43年)、入社後10年目に初めて北海道札幌へ転勤した。

これからが転勤の連続だった。


この時の最大の思いではサッポロ冬季オリンピックだ。


お餞別の熊

◆転勤人生の始り
この頃既に結婚し、二児の父親になっていた。子供は女二人で上のM子は小学校への新入、下のR子は幼児であった。この転勤を皮切りにその後一度東京本社に戻ったが3年後に、名古屋、日立、仙台と地方巡業が続き、東京へ舞い戻った時には既に50歳になっていた。実に十数年間にわたる転勤生活であった。
転勤の得失はいろいろあるが良い点を上げれば、官費で全国各地を旅行でき、各地で生活や仕事を通して得がたい体験が出来ることだが、反面、子弟の学校等家庭的な問題もありマイナス面も多い。
私の場合も一時期、家庭が3箇所に別れ、経済的にも精神的にも大きな負担となりシンドイ思いをしたことがあったが、今となってみればすべてが良い体験となっている。

行き先は北海道札幌市の支店であった。年齢は33歳になり、課次長昇進の辞令を貰い赴任した。(この会社では一般には主任程度の役職のことを仰々しく次長と呼んでいた)
初めての転勤であり、総てが新鮮で、この時代のことは比較的よく記憶している。
今でも時々懐かしさを感ずる素晴らしい地方都市である。

転勤の日のことはよく覚えている。4月1日か2日の出発で、羽田から空路千歳へ向かった。搭乗した飛行機の名前は当時の写真によると「よど号」と云い、後年極左の赤軍派による日本初のハイジャック事件(1970年)で舞台となった日航のボーイング727であったのはまったくの偶然であるが面白い。

当時はジェット旅客機に乗るチャンスは少なく、私も家族も含めて生まれてはじめての体験であった。今でこそ飛行機は庶民の足であるが当時は一部の金持ちやエリートが利用する乗り物だと思っていた。今でこそ航空運賃はJRと殆ど変わりないが、当時は非常に高かった。それにしてもたった一時間半で北海道とは‥信じられない思いであったが、本当にあっという間に千歳空港の上空に到着した。列車と青函航路で行くと速くても18時間程度かかるのだ。
着陸態勢に入った飛行機の窓から下を見ると、あたり一面銀世界なので
本当に驚いた。何しろ東京では桜が満開で正に春爛漫の季節であり、それが2時間足らずで冬景色へと暗転したからである。

★燃えろよペチカ!
バスで市内に向かったが、寒々とした曇天で今まで見たこともない荒涼たる冬景色が続き白いものがチラチラ舞っていた。東京から一緒に転勤した数人の社員や家族は皆不安げに押し黙り、外をジット眺めていた。
その中には更に札幌から列車に乗り換え北見や稚内に転勤する人も居た。
一時間ほどであの有名な時計台がある札幌の中心部に到着し、支店が手配してくれた宿泊施設に入った。はっきり覚えていないがホテルではなく共済会館のような所だった。


時計台

旧道庁

夜の歓楽街
◆上記と氷雪の門の写真はカリブの海賊/斉藤様のご好意で「北海道の景色」から転用させていただいたものである。
当時は引越し荷物をコンテナ便で送っていたが、青函航路を渡るために天候により予定通り到着しないことがあった。
それを考慮に入れてホテルは予め滞在日数に余裕を持って予約していたと記憶している。

到着した夜、同行した転勤者のI、N、Sさん等と夕食を共にし酒を飲んだ。

Sさんは一泊して、更に翌日北見に列車で赴くのだ。北見までは特急列車で6時間程度かかるとのことであった。ガランとしたレストランでお互いに何か湿っぽいグチ話をしたような気がするが思い出せない。
引越し荷物は順調に届き、2〜3日でホテル住まいから開放され、社宅に向かった。
社宅は幌西寮と呼ばれ市内の南14条西14丁目に位置しており、二棟の共同住宅が並んでいた。全部で6所帯が住んでおり、こじんまりした、かなり年代モノの集合社宅だった。近くを市電が走っており最寄の停留所は西線14条であり、市民の憩いの場である藻岩山はすぐ裏手に位置し、豊平川や中島公園も近く環境的には申し分ないところだった。

お定まりの引越し荷物の整理を行い夕方暖房を入れようと思ったが、暖房器具はガスや石油ではなく石炭を燃料とするレンガ造りのペチカというものであった。名前は知っていたが見るのも扱うのも生まれてはじめての体験だった。

ペチカとは?
台所にレンガ造りの石炭投入口がありそこで石炭を一気に燃焼させ、強い熱気が煙道を通り各部屋のレンガの壁に伝わり暖房する仕組みであった。現在はこれと同じ仕組みのペチカは殆ど見かけなくなっていると思う。仮にあっても殆どが石炭ではなく石油を燃料にしていると思われる。
一旦ペチカが完全に暖まったしまえば後は余熱で部屋が暖まり寒さ知らずなのだが
最初は取り扱い方がわからず、社宅内のN総務課次長が教えてくれたものの石炭を大量にしかも一気に燃焼させるコツをつかむまでにはある程度の時間が必要であった。
始め新聞紙を丸めたものの上に細い薪を載せ火をつけ、ある程度火力が出たら少量の石炭を投入、石炭に着火し、火力が強くなったらバケツ一杯の石炭を一気に投入する。そして完全燃焼に至ったら煙道のダンパーを遮断するのだ。後は半日ほっておいても部屋は暖かかった。だが冬の間室内の空気は汚れていた。細かい煤のようなものがいつも浮遊し、壁は黒ずんでいた。健康にはお世辞にもよいとはいえなかった。

当時はまだ石炭が暖房の主流であり、一冬で3〜4トンの石炭を燃やしており、北海道在住者には石炭手当てという名目で給与に上乗せされた手当てが支払われていた。
石炭は
ョロチョロと燃やしても効果は上がらなかった。当日は確か雨が降っていたが寒く、家族一同心細い思いをした。
異郷では地理が右も左もわからずに最初は本当に戸惑いの連続であったが、先ず何をおいても転入と長女昌子の小学校新入学の手続きをすることだった。
幸い徒歩10分ぐらいの近くに幌西小学校があり助かったが、とにかくバタバタ動き回った記憶がある。
転勤に伴う賜暇が数日あったのでフルに利用してどうやら落ち着きを取り戻した。

■ノンキでよい時代
支店に初出勤する前の休日に他の転勤者と連れ立って支店長宅を訪問し、転任の挨拶をした。当時の支店長はY氏といい海上畑出身の赤ら顔の超肥満体の人物であった。
立派だがひどく古臭い西洋風の建物に住んでおり、応接間で昼間からオールドパーの水割りをご馳走になったのを記憶している。彼は上機嫌で「北海道の大自然を満喫し、おおいに楽しみたまえ」みたいなことを云って豪快に笑っていた。
とにかくノンキな時代であり、仕事そっちのけでグルメや温泉、スキー、ゴルフなど遊びの話に終始したと記憶している。
支店は札幌駅前の伊藤ビルにあり通勤は市電で20分程度であり、便利なところだった。配属先は査定課であり、ノンマリンの事故を処理する部署であった。
課長のK氏以下10名程度のメンバーがいたが、私は当時火災新種の知識が比較的豊富であったため火新担当となった。契約者に火事が起きると現場に出向き、損害額を算定し支払額の話し合いを行い協定できると保険金を支払うのが主な仕事だった。
T君という後輩社員が同じく火新を担当し、道内総ての事故処理に当たることになっていた。その他のメンバーは総て自動車事故を担当していた。

当時、支店の出先は道内に数ヶ所あり、営業を展開していた。しかし、この支店はどこかタガが外れていた。
支店に転勤する際の送別会の席で先輩社員から、「札幌では使い込み事件が多発しているので十分気をつけるように」とのアドバイスを貰っていたが、その意味が段々わかるようになっていった。とにかく遊びごとが多く、サケ、マージャンに明け暮れる毎日で、肝心の仕事のほうはチンタラの連続で総てに厳しさが欠けていた。
東京ではそれなりに緊張感もあったが、落差が大きいのに驚いた。


当時、公金横領や使い込み事件が多発していたが、驚くほどモラールが低く、綱紀が乱れていた。支店経営者や幹部職員の責任は正に重大だが、それを本気で改革しようとする様子は全く感じられなかった。一日が終わるとすぐ酒やマージャンの話になり、2〜3軒のはしご酒は毎日当たり前のような有様だった。
ただ私もすぐその色に染まり、同調し毎晩遊び呆けてしまったので、えらそうなことを云う資格はなく同罪だ。4年間の在任中に支店長は3名交代した。

北海道のビールと言えば北8条通りにあった「サッポロビール園」が有名で、2〜3日後に我々転勤者の歓迎会が開かれた。ビール工場の直営店でレンガ造りの大きな建物があり、生ビールを飲ませていた。名物料理はジンギスカンで、羊の肉や野菜を鉄板で焼き、独特のたれを漬けて食べるのであったが大変美味しかった。ビールが最高だったが、乾燥した気候風土によくマッチしていた。
ここの雰囲気は素晴らしく白樺並木の中に点在するレンガ造りの建物がエキゾチックで何か外国にでも行ったような趣があった。観光の人気スポットでもあった。その当時確か「飲み放題、食べ放題1000円」というコースがあったと記憶している。ここにはその後よく通った。本州から来たお客さんを連れて行くと大変喜ばれたものだ。札幌時代は本当によく飲んだ。

ビール園

円山公園

すずらんゴルフ場

北海道の四季の移り変わりは東京とは全く異なり非常にメリハリが利いていた。
長い冬が終わると春が短く、突然夏になりまた、短い秋の後ある日急に冬将軍がやってくるのだった。北海道には四季が無く二季だという話を聞いたがなるほどと思った。
初夏の5月中旬になると梅・桃・桜など草木が一斉に花をつけ、それは見事なものだった。これら日本の春を告げる花の満開を年に2回体験したのはこの時だけだった。
花見は円山公園が有名だったが、5月15日の会社の創立記念日には職場単位で日中から出かけて大騒ぎしたものである。

◆稚内・氷雪の門
担当業務の性格上、道内出張が多かった。北海道は冬が長く、暖房は石炭や灯油が主であったが、オガ炭や一部薪ストーブなども使われていた。(オガ炭とは製材時に出るおが屑を油でペリット状に固めた燃料)火を扱う期間が長くどうしても火事になる頻度が高い。また、真冬は日中でも氷点下の日々が続くため、消防にも支障を来たし大きく燃え広がることが多かった。
火災は道内各所で頻発し、小損害の場合は現地に任せたが大きくなると出張要請があり、その都度、札幌から鑑定人を同道し現地へと急行した。最初に地名を聞いたときどんな漢字で書くのか、方向はどちらなのか全く分からず困惑した。地図と首っ引きだった。例えば新冠、音威子府、長万部、納沙布岬、ノシャップ岬、モーラップ、などなど。元はアイヌ原住民の言葉なのだ。
そういえば当時、地元出身の社員は我々転勤者に対して「内地から来た人」などと言っていた。北海道は「外地」なのか?? 誠に理解に苦しむ言い方だが、素直に受け取れば、日本離れした気候風土ということかも知れない。

当時、函館以外は飛行機の便がなく、殆どは夜行か昼間の特急で現地へ向かっていた。時には利尻、礼文、天売,焼尻など離島へ向かうこともあった。
4年間の在任中道内津々浦々を訪れたが、印象に残るところを一つだけ上げれば最北端に位置する稚内だ。ここに行くには急行寝台で行くのがもっとも合理的だった。
日中仕事を終え夜10時頃、宗谷本線で稚内に向かうと翌朝6時ごろに到着した。時間をフルに使うにはこれがもっとも効率的であった。仕事が一日で済めばまた夜行でとんぼ返りできたが、さすがに一泊することが多かった。


氷雪の門(現在)

離島航路で
宗谷岬の突端にあるのが「氷雪の門」であり、ノシャップ岬の先端にあるのが「最北端の碑」である。稚内公園内の代表的なモニュメント。異国となった樺太への望郷の念とそこでなくなった人々を慰めるため昭和38年に建立された。
高さ8mの門の向こうにはオホーツク海が広がり、晴れた日には、今はロシアの領土になったサハリンの島影を望むことができる。

当時道内の電化は旭川迄で、その他はディーゼルが大半だったがこの列車はC57型の蒸気機関車が引っ張っていた。東京近郊ではとっくに姿を消していたので物珍しかった。 朝6時ごろ稚内に到着した。「日本最北端の駅」との表示があった。まだ薄暗く真冬の稚内は風が冷たかった。緯度から云うと最も北であるが気温そのものは内陸よりは高めである。しかし、オホーツク海を渡ってくる風は身を切るような寒さであった。

当時は今とは異なり早朝から開いている店は一軒もないので、稚内営業所の所長の自宅に来るように云われていた。当時稚内に営業拠点を持っている会社は当社だけで自宅は当初営業所の二階にあった。職住が完全に一体であった。
ここで奥さんの心のこもった朝食をいただき、火事現場へと向かった。火事の現場は殆ど例外なく全焼状態であり、焼残物は降り積もった雪の下で確認しようもなく全損処理となることが多かった。当時の稚内には米軍の基地があった。また、漁港としてもそれなりの機能を果たしていた。人口は確か5万人程度であったと記憶している。ここで忘れられない光景を思い出す。馬橇が街中を走っていたのだ。東京では想像もしていなかった交通手段であり驚いた。
市内唯一の繁華街は「稚内銀座」と云い商店や飲食店が並んでいたが、北のはずれの街というにふさわしい侘しい町並みであった。宿泊の時にはここで北の海で採れた魚をつまみにして酒を飲んだが、当時から外国の船員と思しき人々が目立つ街であった。
タラバガニや生の「たらこ」が美味かったが「たらこ」はそれまで焼いて食べるものと思っていたので珍しかった。
業界には火災の鑑定人制度があり、数人の人々が協会に登録されていたが、損害額が大きかったり難易度が高そうな火災事故についてはベテランのI氏を同道することが多かった。彼以外では若手のS氏と組んで仕事をすることもあった。このお二人は既に亡くなったと聞いている。

道内では火を使う期間が長く、冬場の水利も悪かったため火災事故は非常に多く発生し結構多忙だった。

残念ながら仕事の面で達成感を感じたような良い思いでは無い。これは私だけの感じ方かもしれないが、全般にモラルは低く、保険を悪用した不正請求事件は多発していた。火事の場合は放火ではないかと疑われる火災事故は非常に多かった。自動車事故でも偽装事故、水増し請求、などが横行し損害調査の担当泣かせの土地柄だった。

北海道は自然が素晴らしいところだが、モラルの面では東京よりはるかに下だというのが実感であった。自分自身の身の回りでも想像も出来ない悪夢でも見ているようないやな事件が発生し大きなショックを受けたが、具体的に公表することはやめておきたい。また、ここで朝鮮総連を始めとするいろいろな圧力団体から多くの脅しにあっており、この面では思い出したくない土地柄だった。

◆冬の到来
と厳しい自然
北海道は夏が良いというが本当だろうか。
確かに湿度が低くさわやかで気持が良い。梅雨が無いと云われているがそれも事実だ。7月末に10日ぐらいぐずついた日があるだけだ。これが終わると観光シーズンだ。市内の大通り公園は観光客で賑わい華やかだが私は夏のシーズンが最高だとは思わなかった。
私は4年間の北海道生活だったが、北国北海道の良さは冬だと感じた。

冬将軍は秋のある日突然やってくる。11月頃、地元で「雪虫」と呼ばれている小さな虫が飛び交い、氷雨が一陣の強い北風と共に雪に変わるのだ。人々は顔を見合わせて「いよいよ来ましたね
」とつぶやく。しかし、この雪はすぐに融けてしまい、本格的な根雪になるのは12月の中旬過ぎからだ。雪の降り方は尋常ではない。大量の雪が風に舞い下の方から吹き上げるように降るのだ。吹雪である。最初はこの降りかたに唖然とし眺めていると不安になったがやがて慣れてしまった。気温が低いので湿気の少ないパウダースノーだ。道産子は傘はささず帽子を被り、時々パタパタと雪を払い落とす。

大雪の朝は出勤前に雪かきを済ませ、表通りに出るまでの歩道を確保した。通常の道路は夜通しラッセル車が除雪し、路面電車は前面に竹箒を取りつけた「ササラ電車」というのが走り軌道を確保していた。
4年間の札幌生活の中で一度だけ交通機関がマヒしたことがあった。想像を超えるドカ雪で、この時は会社まで徒歩で行った記憶がある。
大量に降った雪の捨て場所は近くの豊平川であったが、ここには秋になると鮭が遡上していた。脳裏に焼きついているのは夏の情景ではなく厳しく美しい冬景色である。

<冬景色四景>


十勝岳

北の岑

ニセコアンヌプリ

北大構内

怖いのは転倒だ。気をつけないと大怪我をする。新雪が降り積もった下にはカチンカチンに凍りついたアイスバーンが隠れていることが多く、うっかりすると転倒する。慣れていない転勤者は例外なく転倒し中には骨折等の大怪我をした人が何人か居た。
歩き方にはコツがあった。やや前かがみになり歩幅は短くチョコチョコと歩くと転倒を免れることが出来た。寒さは暖房が整っているので余り感じなかったが、札幌あたりでも最低気温がマイナス10
で下がることがあり、こんな時は日中でも最高気温がマイナス5程度だった。
出張先の帯広でマイナス20
以下に下がった日があったが、その日は晴れているのに気温が上がらずダイアモンドダストという現象を体験した。空気中の水分が凍り、日の光にキラキラ輝いて見える、誠に美しい自然現象だ。寒いといえば旭川や帯広のように内陸は冷え込む。地元の代理店が私に「冷蔵庫は何に使うか知っているか」と聞いた。怪訝な顔をして答えに窮していると彼の答えは、「ビールを凍らせないために入れる温蔵庫の役割がある」というのだ。ホンマかいなと思ったが‥ ま、それほど寒いと云う例えか。

吹雪は怖い。クルマで移動中は特にコワイ。当時私はまだ運転免許を持っていなかったが仕事で社有車に同乗することが多かった。日中なのに全体がミルク色に染まり殆ど前が見えず、路肩の目印を頼りに運転する。時折対向車のライトとボンヤリした影のようなクルマが飛び込んでくる。当然のろのろ運転を余儀なくされる。急なハンドル操作やブレーキは禁物、こんな時にクルマがエンコしたら正に命取りだ。地元の社員ドライバーは非常に緊張していた。当時車には必ず脱輪脱出用のシャベルやスノーヘルパーを載せていた。実際に使用を手伝ったことも何度か体験した。
猛吹雪のため前後左右が分からなくなり、自宅の庭の雪の壁に顔を突っ込んで凍死したなどというウソのような話を聞いたことがあるがありうることだ。酔っ払ってフラフラし、寝込んでしまい凍死したケースは日常茶飯事だった。私はこれを避けるため「雪見酒?」を飲んだら必ず自宅前までタクシーに乗るようにしていた。

もう一つ怖かったのは軒先の大きなツララが頭上に落下することだった。住まいは集合社宅の二階だったので、大きくならないうちにツララを棒で叩き落すことをしていた。大きくなると非常に危険だった。ツララの先が像の牙のように内側に曲りガラス窓を突き破り室内に飛び込んでくる危険すらあったので、皆が十分気をつけていた。

ここはスキーヤーにとっては正にメッカだ。ただ地元の人々はスキーには余り熱心ではなかった。私は小学生の頃長野に縁故疎開しており、スキーはゲレンデのみならず山スキーまで一応こなすことが出来たが、札幌では滑った記憶は無い。


忘れえぬ思い出冬季オリンピック
最大の出来事は「札幌オリンピック」だ。
転勤した4年目の1972年第11回目の冬季オリンピックがこの地で開催されたのだ。オリンピックを居住地で体験できるチャンスは極めて少ないので、東京オリンピックに引き続いて二度も得がたい体験をした事になる。
その前後この北の都は大きく変貌を遂げ、急ピッチで近代化された。街の様子は一変しモダンになり、地下鉄が初めて北24条と真駒内まで開通した。当時としてはまだ珍しい自動改札を取り入れたゴム車輪のモダンな車両であった。室内競技のアイスアリーナまでは徒歩で歩いていった。
初めてのオリンピック開催地ということで市民は皆、興奮状態で沸き立っていた。

大会は2/3日に始まり、10日後の13日に閉会した。
オリンピックのファンファーレと共に札幌オリンピックの歌、トア・エ・モアの「虹と雪のバラード」という歌が街中を流れていた。この歌は一世を風靡したが、歌詞も曲も今聴いても美しく高揚感にあふれている。忘れられない曲だ。私はこの歌が好きで、その後ヘタな カラオケ等でよく歌っていた。
期間中は気温、積雪共に申し分なく順調な運営が行われ、千歳空港には各国から航空機が乗り入れ、街は当時はまだ少なかった外国人が増え、一気に国際都市の華やかな雰囲気に化した。
2月の上旬は観光で有名な「雪祭り」も同時に行われ、本当に美しかった。この時がある意味で、札幌市の一番活気があったよい時代であったと思う。閉幕の日、オリンピックを締めくくるような大雪になり、象徴するような雷鳴が轟いたのを今でもはっきり覚えている。


公式ガイド

公式ガイドからのカット

いくつかの競技をこの目で見たが、珍しかったのはリュージュ・ボブスレーだった。
しかし、もっとも印象に残っているものを一つだけ挙げるとそれは「アイスホッケー」だ。当時日本は蚊帳の外だったが、正に凄まじい格闘技で、大男が壁や体ごとぶつかり合うドスン、ドスンという音と、スチックやスケーティングの金属音が会場に鳴り響き、そのど迫度力に驚き、感動した。

ジャンプの日の丸飛行隊といわれた笠屋選手以下3名の70メートル級、金・銀・銅は当然のことだが、優勝候補で人気ナンバーワンのアメリカ女子フィギアースケートのジャネット・リンが思わぬしりもちで銅メダルになってしまったこと等が強く印象に残っている。

真駒内アイスアリーナ


岡本太郎の記念メダル
ジャンプ台は二つあり宮の森(当時は70メートル級、現在はノーマルヒル)と大倉山(90メートル級、現在はラージヒル)で、「大倉山」の方は社宅二階の窓からはるか彼方にはっきり見通すことが出来た。
このオリンピックを現地で体験しその年の4月に転勤となったが、これは本当に良い思いでとなっている。
◆札幌ご在住のA.S様からのご指摘で、当時の地下鉄開通駅とジャンプ台の規模名称等に誤りがありましたので訂正しました。紙面を借りて厚く御礼申し上げます。(04/08/31)

◆当時の社報に載った流行と私という記事へのリンク

    

転勤人生の始まり