1956年4月、ある中堅損保に入社した。ここに55才になるまで30数年間お世話になった。家族4人が先ずは安泰に暮らせ、子供二人は大学まで進むことが出来たのだから大いに感謝しなければならない。

サラリーマン人生のうち最初の10年は東京、その後10数年は地方、残り数年は東京での生活だった。その間、本社の管理部門にいたのは数年間で、後は総て出先か現業部門であった。主として、内務や損害調査の係りだったがホケンのセールス部門も数年経験した。
何かの本で読んだことがあるが企業にとって社員は大きく分けると
@居てもらわなくてはならない人
A居ても居なくてもよい人
B居てもらっては困る人
の3種類がおり、大半は二番目だという。まさか自分は「B居てもらっては困る人」ではなかったとは思うが、これは他人が評価するものだ。しかし@であったかどうかは、はなはだ疑問だ。いろいろなことがあったが会社の仕事でのあれこれを述べてもても意味が無い。
サラリーマンプロとして当たり前の努力はしてきたつもりである。この社会で「すーだら調」は許されない。私なりにベストを尽くし、力の出し惜しみはなかったと思う。
当時はユニオンショップと云うことで入社即労働組合員になることが義務付けられていた。しかもクローズドショップで組合を除名されると会社も首になるという真におかしな制度だった。このことに対して新入社員時代から大きな疑念を抱いていた。

◆当時の社会情勢
1960年(昭和33年)前後になると安保闘争が激化し、6月には全国で580万人がストやデモに参加し、その後デモ隊10万人が国会に突入し、警官隊との乱闘で東大生の樺氏が死亡したため世間の怒りが爆発した。その責任を取り岸内閣が条約批准後に退陣。

これ等の大批判をかわそうと池田勇人内閣が「国民所得倍増計画」を発表している。このような事情で日本の高度経済成長がスタートし、60年代を通じて右肩上がりの驚異的な経済成長が続くことになる。そして数年後にはアメリカに続いて世界第二位の国民総生産(GNP)を誇るまでになり国民生活はあらゆる面で豊かになっていくのである。
4年後の1964年には東京オリンピックが開催されている。

 奇っ怪なりUNION

現在はサラリーマンの組合離れが進み、労
働組合の組織率は最低だそうだ。

当然のことである。賃金は世界でも今やトップの高さであり、福祉も充実している。
今労働組合の最大の役割は雇用の確保である。
しかし当時は各企業とも労働運動が盛んであった。特に春闘という賃上げ闘争には熱心であった。これには当時の賃金の低さとこの国の経済の変化が大きく影響している。
入社後数年を経ずして日本にも経済躍進の時期が訪れた。

この時代、当初の月例給与は約18000円程度であったが、極めて低いものであり生活は厳しく、例えば商売道具の背広や靴は月賦で年1回も新調できればよいほうであった。このような社会経済の変化や前記の情勢に即応する形で労働運動は安保闘争と賃上げ闘争を主に勢いを増していった


27才頃?

当時は総評と同盟という組合組織が労働界を引っ張っていた。損保企業には大きく分けると全損保と損保労連の2大組合組織があったが当社は前者に属していた。
総評傘下ではなかったが、かなり先鋭的な労働組合であった。

私は最初から当社の労働組合の考え方や対応には極めて批判的であった。理由はいろいろあるが、まず闘争スタイルや考え方に大きな疑問符をつけていた。
労働組合の存在そのものを否定する考えはなく、その恩恵に浴したのは否定しないが、この会社の組合は新入社員の目から見ても異常であった。

団体交渉等の場面をオブザーブさせられたことがあったが、組合側の交渉ぶりは知的労働者が行うものとは思えない下品なものであり、とても嫌悪感を覚えものだ。
当時は「この時だけは労使は対等だ」とばかりに、交渉の席でテーブルをドンと叩き大声を張り上げ威圧するのが常であったが、もう少しやりようがあるのではないかと不愉快極まりなかった。
また、闘争時になると社屋の玄関に赤旗を林立させたり館内に所かまわずビラをベタベタ貼り付けたりしたがこのような行為に対しても批判的であった。来客はこの有様をどう見ていたのだろうか。
おかしな闘争手段があった。それは非組合員との接触禁止、残業拒否、定時出社、退社などであるが、実にバカげたやり方だと感じていた。
こんな子供じみたことをしなくても、このような闘争はスケジュールで行われ、時期が来れば世間相場で解決できるからである。
当時の組合幹部は会社の立場などお構いなく、自社の労組が他に先駆けて有利な条件を引き出そうとし、それに生きがいを見出していたようだが全くナンセンスなことだと思っていた。「会社あっての組合である」ことが判らないのかといつも考えていた。
このような立場を省みない無謀なやり方が永年続き、結局会社の体質や体力を大きく損ねることになったのである。自分で自分の首を絞めたことになる。経営者側にも何か弱みがあったのかいつも組合側の要求をたいした抵抗もなく呑むことが多かった。
この原因には損保産業が他の金融業界などと同じように永年の間いわゆる「護送船団行政」の下でぬくぬくと過ごしていたことも上げられよう。
企業間の競争原理が働かず、つぶれることはあり得ないという神話がまかり通っていたからである。現代では全く通用しない「マチガイだらけの労使関係」であった。
闘争は全損保のスケジュールや指令により行われていたので、ある程度やむをえない面があったのは事実であるが、組合幹部の思い上がりや圧力のかけ方に対してはいつも反発していた。
組合主宰のオルグがありそのときにはいつも組合の方針や闘争スタイルを批判していたので幹部からはよく思われていなかったが全く気にしなかった。

この組合は先鋭的ではあったが幹部は何故か出世が早く、後に会社役員に上り詰めた者もいた。組合を上手く利用して出世を図り、後年出身母体たる組合からぎゅうぎゅう油を絞られた経営者もいたが、正に噴飯ものである。一種の茶番劇である。

ある時総評加盟問題が持ち上がった。
この時のことはいまだに忘れることが出来ない。この問題をめぐって東京分会の職場オルグがあったときのことである。テーマは当組合の総評加入の是非を問うものであった。
私はその必要性を説くO委員に対して組合員の立場で猛反対を唱えた。その言い方が少し過激だったかもしれない。しかし、私は決して乱暴な言葉遣いはしていなかったと思うが彼は言葉につまり立ち往生した。
次の集会のときにTと云う小柄だが目つきの鋭い支部の幹部執行委員が現れ、「サシカタは何処にいるのだ」と云い、何故か私を非常にコワイ顔でにらみつけたのである。
これは一種の恫喝であり、組合民主主義とはまったく相容れないものであった。この時以来私は完全なアンチ組合になった。結局総評の加盟問題は立ち消えになった。
しかし、このような真にいびつな労使関係はナントつい十数年前まで延々として続いたのであり失わ
れたものは実に大きかったといわざるを得ない。
ついでに言っておくと、私はメーデーなどに歌う「立て万国の労働者」とか「インタナショナル」は大嫌いで当時から決して歌わなかった。

 POLICEの怖さ

これも労働運動と関連がある話だが、私は50歳を過ぎたある時、部下のSが成田空港建設反対派の過激グループに所属しているとの疑いを持たれ、警視庁C警察署に呼びされたことがある。窓口である総務課長のT氏とともに出頭した。

2名の係官が応対したが、一人はN警部と言い、他の一人はS氏であり何故か彼の名刺には一切肩書きは無かった。彼等はこれ等グループの動向を監視したり左翼やK党の動向に関する情報を集めているとの事であった。公安担当者だった。

Sは国立大学出身の若手有望社員であった。嫌疑はその社員が成田の空港建設反対派爆破事件を引起した革マル派の一人と親友の間柄であり、尾行していたらK党大会に参加し、更に当社のビルに入ったのを確認したので、管理監督責任者である私に出頭命令を出したとの事であった。


いやらしー? 53才

また、彼は当社労組の青年夫人部の幹部なので、直属上司である私の日常の管理姿勢を問いたいというものであった。
2名の係官から日常の彼の言動や仕事ぶりなどについて詳しく説明するように求められた。更に会社の実情、組合の動向についてもいろいろな質問を受けた。

この時は非常に驚いた。関係上司を含めていろいろ話し合ったが、彼自身は何処にでもいる純朴な感じの好青年で、仕事振りも特に問題はなかった。ただ彼の住んでいた独身寮を予告なしに訪ねたときにはすこし驚いた。過激なポスターで部屋が一杯だった。サケの空きビンがゴロゴロ転がっていた。生活の一端が分かったような気がした。
後日、彼が直接爆破事件に関わっていた嫌疑は晴れたが、彼の行動については詳細に渡り調べ上げていた。彼に関する驚くような調査結果を私に示した。

また、警察は当社に対しては以前から「赤の温床」であるとのレッテルを貼り内偵していたとの認識を示し、本社が移転しても担当は従来と変わらずC警察だとも言っていた。責任者として「いかなる組合指導をしているのか、そんな甘いやり方でいいのか!」とかなり長時間、言い方は丁寧だったが非常に厳しい追及を受けた。

私は「思想、信条の自由は憲法で保障されている」と一応反論したが、非組合員としての立場を考えると、むやみやたらな反論は得策ではないと判断し「以後行き過ぎた部下の労働運動に対しては責任を持って管理監督を強める」ことを彼等の前ではっきり誓約した。
その時感じたのは警察は私の身辺についてもかなりしらべあげているのでないかとの疑念だった。

経過報告等もありその後数回警察へ出頭したが、このことは「無闇に口外するな」と口止めされた。ただ人事部長に対しての報告についてはオーケーが出た。
厳しい追及と叱責だったが反感は全く感じなかった。当局の基本的な考え方は私と全く同じだったからだ。

最初から経緯は直ちに文書で詳しく人事部長に報告したが、私のとった態度とか言動に対しては何らのコメントも指示もなく「総てお任せします」だった。

いつもうるさい指導をしたがる人事がこの時だけは全くのダンマリであり、首をかしげた。
おそらく事の重大さに慌てふためいたのではないかと憶測した。この時、Sの採用責任を負っている筈の人事部の当事者能力は全くゼロであった。
その無責任振りに非常に情けない思いだった。

最終的に警察当局が私に示した見解は、当社の労働組合は極めて過激であり赤旗を正面玄関に林立させ争議行為に及ぶことが多く、K党の党員も多いので絶えず監視を怠らないというものであった。
この時、当社は当局から相当にらまれているなと感じた。国家権力に対して何か得体の知れないコワサを感じた。このことも行過ぎた労働運動のなせる業であると一層組合に嫌悪感を抱くようになった。この事件には後日談があるが余りにも生々しいことなので公表は差し控える。

その後私の所属が変わりS社員は、しばらく経ってから退職したと報告があった。精神的に不安定になったとも聞いたが詳しい事情はわからない。
いまだに忘れられない実に苦々しく、コワイ思い出である。

●お世話になった警察
勿論悪事を働いて「お世話になった」ことは無い。しかし、私が仕事で体験した数々の脅迫、恐喝事件の時、具体的に救いの手をを差し伸べてくれたのは結局警察だけだった。
こんな時は会社の顧問弁護士などは大して役に立たない。
ホケン業では生損保を問わずその道の人に脅しを受けることが多い。
多額な事故の補償金(正式には保険金)が動くからである。

「プロの脅し屋」が最も怖れるのは警察である。大きな権力を持っているからだ。
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UNION vs. POLICE

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