ワシントンの赤ゲット

ワシントンD.C.
(D.C.とはコロンビア特別区のこと)
今から15年も前に初めて海外に行く機会を得た。その時のことはこのページのトップに述べたとおりである。
今まで余り関心がなかったのに急に思いついて実行に移したため、予備知識や事前準備もなくあたふたと出かけてしまった。このアメリカ旅行は15年も前のことであるが、カルチャーショックが大きく帰国してから印象をメモしておいたので、それを読んでみると当時のことが昨日のことのように鮮明に浮かんでくる。今回はワシントンを中心に
赤ゲット振りを述べ、次の機会にニューヨークの出来事を記してみたい。
◆当時の写真が一部(使い捨てカメラ)出てきたので差し替えたが、肝心の映像は行方不明のまま

ナイアガラ 〜
オンタリオ湖

◆出発〜機内で
時は3月上旬、参加したのは「近ツリ」のツアーであったが、空港に行ってみると参加者は我々夫婦だけであった。なるほどパンフでは2人から挙行とあったが、当然何人か同行者がいて添乗員も同行するものと思っていたのでビックリし、急に心細くなった。
空港で旅行社の担当が一通り説明してくれたが、国際線のターミナルに入るのは生まれて初めてで、勝手が分からず、飛行機に搭乗するまでウロウロしっぱなしだった。またとても緊張した。楽しいどころか顔がこわばってくるのが分かった。いいトシのオッサンが情けない限りだ。
何しろ海外は初めてで、しかも行き先がアメリカだったからだ。ただ航空会社はANAであったのが救いだった。
見送りに下の娘が来てくれたが、心配の余り帰り道で神経性の下痢に襲われたと後日話してくれた。
離陸後スチュワーデスの笑顔を眺めていたらやっと落ち着いてきた。あたりを見回すと殆ど日本人で、しかも団体らしい一行が多かった。
また、この時期は学生の「卒業記念旅行」というのも流行っており、それらしき若者も乗っていた。因みに当時日本はバブルの絶頂期で皆が浮かれていた。株のダウ平均はナント35000円にも跳ね上がり、「もうアメリカから学ぶものなし」などと舞い上がっていた。
しばらくすると団体さんの大宴会が始まり、断続的に数時間も騒いでいた。どこかの農業団体のようであり30人くらいいた。我々は通路側の席だったが窓際に代わってあげるなどといわれ大人しく従ったが、そのヨッパライのバカ騒ぎにはあきれた。スチュワーデスに「ネーチャン酒もってこい!」を連発していた。彼等は旅慣れている様子だった。
機内で映画が上映されたが「釣りバカ日誌」という映画だった。結構面白いと思った。ずいぶん飛んだ頃やっとアンカレッジの上空を過ぎた。
また長時間が過ぎ、明け方、5大湖が見えてきた。飛行機も高度を下げワシントン到着がまもなくであることがアナウンスされた。長いフライトだった。

◆入国審査
出国はともかく初めて他国へ入国するので緊張した。
どんな質問があるのだろうかとビクビクものだった。窓口に恐る恐るパスポートを差し出した。審査官は怖そうな感じの男性で、渡米目的、滞在期間、等を聞かれ、同行メンバーの質問があったのですぐ後ろに居た家内を指差したところ「ここへ呼べ」という。そして総ての航空券を見せろという。2名分を示したところOKが出た。その後何か聞かれたが理解できずもじもじしていると笑いながら入ってよいとのこと。ホッとした。
その後いろいろな国で入国手続きを体験したが、一番感じが悪かったのは中国だ。北京の入国係官は女性だったが非常に態度が横柄で、蔑むような目つきでじろりと一瞥し嫌悪感を覚えた。一方ハンガリーでは女性がニコニコ笑って「アリガトウ」と云ってくれた。イタリアなどでは顔も見ないで笑いながらどんどんハンコを捺していた。最初の印象は非常に重要だ。昔は日本も対応は悪かったが、今は見違えるほど良くなっていると思う。


アーリントン墓地に行く

外は曇りで寒々としていた。近ツリの現地ガイドが迎えに待っていた。
30代と思しき日本人女性で、女優の倍賞千恵子の若かりし頃を思い出させるなかなかの美人であった。大きな黒いリムジンが停まっており、背が高い端正な顔立ちの黒人ドライバーがドアを開けてくれた。
リムジンに乗るのは初めてで、その大きさにビックリした。多分通常は数人同乗するのだろう。
ガイドが墓地を見るかどうか尋ねた。人によってはノーという人もいるらしい。私は即座にOKした。
道すがら彼女は「定年になったのだから物価が安く住みやすいワシントンに永住したら‥」と我々にしきりに勧めたりした。彼女のハズは中国系アメリカ人とのことだった。ネールアートをやっているといいキレイに装飾した爪を見せてくれた。決して悪い人ではなかったがお節介が過ぎた。
例えば「家内をエスコートしろだとか、ここでは2人で写真を撮るのが当たり前だとか、アメリカ人にはハァーイと声をかけろとか、テップ(チップのこと)の出し方のイロハだとか‥」とにかくウルサイ。ガイドとしては明らかにゆき過ぎだし、この手の人物はどうも苦手だ。
面白かったのは彼女自身はニューヨークへはまだ行ったことはなく「そんなアメリカには沢山いる」とも云っていた。これには少しビックリした。自分はアメリカの首都に住んでいるという自負なのか?


ケネディ家の墓

墓誌

兵士の儀式

広い墓地に入り、ケネディ家の墓に向かった。この時何かラッパの音が聴こえたたので眺めると吹奏楽隊の後に棺を担いだ葬列が行進して来た。なるほどこうやって土葬にするのかと思った。ガイドの話では軍関係者ではないかとのことだった。
暗殺者の凶弾に倒れたケネディ元大統領の墓は広いが思ったより簡素だった。石の床の上で永遠に燃え続ける小さな炎が印象的だった。
近くで儀仗兵が銃を捧げ儀式を行っていた。しばらく眺めていた。墓地は小高い丘の上にあり、彼方にポトマック川が陽の光に鈍く光って見え、その上を航空機が盛んに行き交っていた。アメリカに来て最初に見たこの光景は今でも鮮烈に残っている。ここの印象が一番強かった。
◆ワシントンDCの観光
二日にわたり、お決まりの観光コースを一通り案内してくれたが、見所は多かった。
印象に残ったのはスミソニアンの博物館と国会議事堂であった。
特に十数種類の素晴らしい博物館群は総て入場無料であり、何でもカネを取る日本では先ず考えられないことであった。アメリカは非営利団体(NPO)の占める資産が世界一多いと云われているが、こんな社会的背景があると思った。
議事堂内の一部を見たが思ったよりずっと小規模であった。当時はホワイトハウスの一部にも観光客を入れていた。
一通り見て周り、翌日のフリータイムに気に入ったところを再度じっくり見ようということになった。

三日目の自由行動日に家内と共に今度はタクシーを使って観光した。外国で始めて乗るタクシーにひどく緊張した。行き先は先ず「航空宇宙博物館」と「国立美術館」に決めていた。前者は実に見所が多く、半日かけても見切れなかった。とにかく航空宇宙のすべてが分かるようになっていた。つまり人間がライト兄弟によってはじめて空を飛ぶようになってから「月の石」を取りに出かけるまでが分かるように、実物を中心に展示されており全く飽きることがなかった。素晴らしいのひと言に尽きる。


ライト兄弟の飛行機

アポロ宇宙船

これは何?

美術館は、東西に別れ広くて大きい。ある程度的を絞って見に行かないと、歩き疲れるだけ。やはり西館の印象派のコーナーのマネ、モネ、セザンヌ、ルノワール・・・か。
アメリカに来てフランス印象派?という気もしないでもないが、このコーナーだけでも十分に充実感に浸れる。
館内で名画を模写している人を何人か見かけた。しかもキャンバスに向かって油絵で模写していた。まず他国では絶対見られない風景である。勿論画学生か身分のはっきりしている画家だと思うが、美術館の寛大な措置に驚いた。この国の奥の深さに感銘を受けたが、テロ多発の今でも行われているのだろうか。


ポトマック川からのシンボルタワー

右はリンカーン記念館から見たタワー

議事堂

リンカーン像

ホワイトハウス

◆夜、市内で道に迷い困惑
食事は思ったよりずっと美味かったが量の多さに辟易した。ステーキは3分の1しか食べられず、生野菜のサラダは新鮮だったが皿に山盛りで半分程度しかのどを通らなかった。非常にうまかったのは新鮮なオレンジジュースだった。
そんなことが続いたため、夕方宿泊先のプラザホテルの近くの寿司屋に出かけた。予め地図で確かめ歩いて行ったが勝手が違い道に迷ってしまった。東西南北すら分からなくなってしまった。私は方向感覚には自信があり国内ではクルマでもそんなに間違ったことはなかったがやはり国外では通用しないことを思い知らされた。
あたりは薄暗く、回りには黒人が右往左往し当方に視線を向けているようで薄気味悪かった。そのときまでワシントンにこんなに黒人がいるとは思わなかった。アメリカの首都だし白人の街だと思っていた。ホテルに戻ろうにも戻れず、お目当ての寿司屋も見つからない。全く困り果て地図を広げて途方にくれていると、小柄な学生のような若い白人の女性が近づき、「どちらに行きたいのか?貴方方はビジネスかそれともサイトシーイングか?」と尋ねてくれた。たどたどしい英語で訳を話すと理解してくれ、「自分が案内するからついて来い」と云ってくれ、歩いて数分のところにあったお目当ての寿司屋まで連れて行ってくれた。
本当にあり難かった。助かったと心から思い感謝した。実はこの時心の中では「これは少し危ないぞ」と思っていたことを恥ずかしく思った。
彼女はニッコリ笑い「今後の旅行が楽しいものであるように」と云って去っていった。
寿司屋のマスターや女将は日本人だったが、この話をすると呆れ顔で「夜は危ないので出歩かないよう」にと注意された。しばらくぶりの寿司が美味かったこと。帰りは女将がタクシー乗り場に案内してくれたがホテルは目と鼻の間だった。

◆チップのこと
日本ではチップの習慣はないが欧米では当たり前の考え方だという。チップの収入を前提にして生活している人も多いという。これは正当な報酬なのだ。
どんな時に、いくら位、どんなタイミングで渡せばよいのか迷い悩むことが多く、そのことが四六時中アタマから離れず疲れた。全くばかげたことで悩むものだ。しかも手持ちの小額通貨の種類をつかんでおかないとならずくたびれた。ホテルの枕の下にチップを置くなどというのは経験がなかったのでヘンな気がした。しかし、しばらくすると「チップインクルード」で渡したり、釣銭から適当に計算して渡せるようになった。 やっとこの習慣になれた頃には帰国だった。

◆ホテルでのこと
ワシントンのプラザホテルは大きいが薄暗く陰気な感じのホテルだった。室内の広さはまあまあだが、掃除も余り丁寧ではなく、綿ゴミのようなものがあちらこちらにたまっていた。
汚いなと思いベッドの下を何気なくのぞいて見ると奥の方に何かがあるではないか。
驚いて引き寄せてみると黒いハンドバックであった。カラではなくずっしりと重く何かが入っているのは間違いなかった。一瞬中味を確かめようと思ったが、「触らぬ神に祟りなし」と思い止めておいた。面倒くさいのでフロントにも届けなかった。忘れ物ではなく、明らかに隠したものと思われるが薄気味悪かった。
当時ワシントンの治安は悪かった。ホテルの周辺では毎晩のようにパトカーや救急車のサイレンがやかましく鳴り響き、テレビではしきりに事件のニュースを流していた。強盗、暴行、殺人など殺伐たるものだった。あのハンドバックも何かしら犯罪に関係があったものかもしれない。

ナイアガラからオンタリオ湖に向かう
ワシントンから空路バッファローへ向かい40分程度で到着。春先の物凄い強風で機体が激しく上下動し、周りを見ると日本人は我々夫婦だけ、ひどく心細かった。現地の女性ガイド運転のクルマに乗る。前述の「倍賞サン」とは異なりやや年配だったがとても品の良い人で決してでしゃばらなかった。
ナイアガラの滝は余りにも有名で今更記述の必要はないだろう。
ただ、アメリカ滝とカナダ滝の二種類があることをこの時まで知らなかったので新発見だった。「ナイアガラフォールス」といえば普通「カナダ滝」の方を指すのは当然だ。
ホテルはフォックスヘッドといい「滝の見える部屋」だった。ここは滝が見えるか否かでグレードが異なる典型的な観光ホテルだった。夜になると滝がライトアップされ窓に映し出される。自室で滝を眺めながらワインを飲むのもなかなか乙なものだ。


全景

展望台

ホテルから見た滝つぼ

ホテルから見たアメリカ滝

翌朝カナダ滝を見ようと再度出かけたが3月の早朝は凍てついており、道路はカチンカチンに凍っていた。隋道のトンネルを抜けて滝の途中の展望台に立った。轟々たる音と共に瀑布の飛沫が霧のように広がり壮大な眺めだった。その規模の大きさに驚嘆した。この時期水量はまだ余り多くないはずだが、それでも圧倒的な水の流れだった。命知らずの冒険家が滝つぼに船で乗り出した話などを聞いた。

◆オンタリオ湖
ナイアガラからクルマで渓流沿いに小一時間走るとオンタリオ湖に着いた。湖はとてつもなく大きく海岸へついたと勘違いしてもおかしくない。対岸は見えなかったがよく目を凝らしてみると、はるか彼方に都会のビルのようなものが蜃気楼のように浮かんで見えた。トロントだという。
こんなに大きな湖は今まで見た事が無いので仰天したが面積は日本の四国に匹敵するとのこと。これでも五大湖の中では最小だという。

オンタリオ湖への渓谷

オンタリオ湖


この季節ドライブウエーはガラガラで行き交う車は殆ど見かけなかった。
渓流や林が連なりところどころにゴルフ場が点在していた。素晴らしい環境だが、新緑か夏に来たらこの自然に圧倒されただろう。帰りがけに大きなアウトレットの店に案内された記憶がある。
その後、夕刻の便でニューヨークに向かったが当時アメリカでは航空会社の労働争議で空港は騒然としていた。以上

 ワシントン航空宇宙博物館へのリンク         もどる