< 国民学校高学年>疎開先のこと
1944年(昭和19年)を迎え、私も小学5年生になっていた。この年は身辺に大きな変化があった。
学童疎開による東京離脱である。
疎開とは今は殆ど聴かれない言葉であるが、空襲などに備えて都市に集中している住人が地方に引越しをすることである。

疎開先は長野
サイパン島に米軍が上陸。飛行場が整備され、B29爆撃機による日本本土の空爆は日増しに本格化した。軍事施設を中心に各地で大きな犠牲が出つつあった。この年には当時の東条内閣が戦況悪化の責任を取って総辞職している。
時の政府は「子供を守る」という必要に迫られ、学童を戦禍の及ばない地方に疎開させ、国力の温存を図ろうとしていた。これは半強制的で特に男子は、将来お国のためになるからといって疎開させられたものである。
疎開の方法には集団と縁故の二種類があり選択できた。私は両親の薦めもあり後者を選ぶことにした。よく事情は判らなかったが先ず将来お国のためになる?長男の小生一人だけが移り住むことになった。疎開先は当時長野市にいた伯父の家だ。

ここは毎年夏休みには親父の引率でよく訪問しており、勝手を知った家だった。
今でこそ新幹線で2時間足らずの距離だが、当時は蒸気機関車の準急で約8時間を要した。上野駅発夜10時ごろの夜行に乗ると早朝に長野に着く勘定だ。
機関車の難所は軽井沢の峠を越えることだった。急勾配のため喘ぎながら上った機関車は、横川という駅で電気機関車に切り替わっていた。急勾配で車輪が滑るのでアブト式という車輪に歯車のついた動輪を線路と噛み合わせながら上っていた。
この切り替えや急勾配の上りで、直線距離の割には時間がかかってしまうのだ。この峠の横川駅では昔から釜飯が駅弁として有名であったが、この頃も売っていたかどうかは定かではない。
夏の真っ盛りに暑苦しい都会からこの列車に乗ると、高崎を過ぎる頃から涼しくなり、軽井沢に差し掛かるとひんやりとした冷気が車内に忍び込み、下手をすると風邪を引いたりすることもあった。この峠を越えると機関車は一気呵成にスピードを上げ、夜明けの長野を目指す。篠ノ井から川中島を過ぎると長野は目の前だった。夏の日の長野の朝は本当にすがすがしかったのを覚えている。


信越線吉田付近

伯父は当時長野市の吉田小町の中部電力の社宅に居を構えていた。ここは現在北長野と云われているが、JR長野駅のから当時の信越線で一駅、私鉄の長野電鉄で数駅先に位置しており、自然豊かな田園風の住宅地であった。数キロほど北へ向かうと山々が連なっており、環境は申し分なかった。

ここには社宅が十数軒立ち並んでいた。いずれもかなり広い庭付きの一戸建てであり、道を隔てた広場に電柱の置き場があり100メートルほど先に長野電鉄の線路が走り、その向こう側に会社の社屋があった。会社までは徒歩で10分足らずの距離だった。

学校での体験
小学校は市立吉田小学校に編入した。地元の子供等は私のことを都会から来た「よそ者」との意識が強く、特異な目で見られていたように思う。しかし、今時の陰湿なイジメというほどのことは無かったようだ。
担任はSという男性教諭であった。あだ名は何故か「シカウマ」なのだった。「鹿と馬」とは?少しバカという意味かもしれないが、赤ら顔でひげ面、いつも鼻の穴を膨らませてフウフウと馬が息をしているような男であり、雰囲気的にはぴったりだった。
大雑把な感じの教師であり大きな体で、年は40過ぎ、頭は坊主刈りだか薄かった。決して悪い人物ではなかったが単純な性格で言動が荒々しく、怒ると生徒の頭を教壇にゴリゴリとこすりつけるのだ。生徒は表面では従っていたが、内心では皆この教師をバカにしていた。
生徒というものは本当によく教師の本質を見抜いているものだ。国語が得意だったと記憶しているが当時の教師は何でもこなしていた。オルガンなどの伴奏もサマになっていた。私に対して特別扱いはせず、地元の子供と同じように接してくれたので気は楽だった。

信州は元々教育程度が高く且つ熱心な所であるが、この学校のレベルもかなりのものであった。ただその当時この学校で私がどの程度にランクされていたのかはわからなかったが、生徒としては可もなく不可もなしで都会から編入の生徒としては目立つ存在ではなかった。

この頃になると「一億玉砕」などという物騒なことが為政者の口から盛んに言われるようになり、学童も高学年になると、最低週1回はプロの軍人による教練の真似事が行われるようになっていた。
通常の整列とか敬礼、駆け足等の教練以外に、当時陸軍の歩兵が使っていた「三八式」の銃と、その先につける銃剣の模造品(子供用に改造してあったがオモチャではない)を構え、敵を見立てた等身大の人形に突進し、掛声もろとも突き刺すようなことが行われていた。
この銃は模造品とはいえよく出来ており、かなりの重量があった。銃身は鉄製で黒光りしており、銃にタマを装てんするときに鉄で出来た填鉄レバーを引いたり、銃の先に銃剣をつけるのはかなりの力が必要であった。生身の人体に銃剣を突き刺す際には突いたと同時に間髪を入れずに引き抜かないと肉が締まり、引き抜けなくなるということまで教えられた。かなり実践的な訓練であったが、考えようによっては「人殺しのまねごと」をさせられたようなものだ。

また、体力増強のため長距離のマラソンがよく行われた。当初地元の同級生は見た目には柔弱な都会育ちの私に対し「お前には完走できっこないよ、途中で泣き出すよ!」と云ってバカにしていたが意外なことに何時も平気で完走していたので彼等の見方や接し方が見る見るうちに変わっていった。長距離のマラソンは途中苦しくなるが山を越すとその後はスピードが上がり殆どの場合上位にランクされていた。ランニングに関しては短距離より長距離の方が性にあっていた。
元々痩せていたが身長があり、体力もソコソコだったので、その他の運動も彼等と比べて決してひけを取ることはなかった。

更に、秋になると薪ストーブの燃料にするため、生徒全員で10キロほど離れた山に出向き、薪を学校まで運んだ。方法は間引いた木々の枝を払い、鎹を打ち込み長いまま縄で引きずって運ぶのだが、重量があり、かなりきつかったがへこたれたことはなかった。これは秋に数回行われた。

農業の手伝いも一通りこなした。田植えこそしなかったが麦踏、麦刈り、稲刈り、は勤労奉仕として行われていた。肥溜めから肥やしを桶に入れを担ぐことすら行った。稲のわらから手で縄をなうこともよく行われ、農作業に使うわらじまで作った。
これ等一連の肉体の鍛錬は都会児ではまず体験できない力仕事だが、これ等を体験したことにより肉体的には非常に頑健になっていったと思われる。
勿論、両親から離れ異郷の地で寂しい想いをしたこともあったが、精神的にも鍛えられタフになっていった。この時の体験は貴重であり、自信のようなものが生まれ、その後の人生に非常に役立ったと痛感している。
この時期、勤労奉仕というのが義務付けられており、前記のような人手が必要な農家の手伝いもその一つであったが、月に一度はかの有名な「長野の善光寺」の境内を掃き清める奉仕を行っていた。善光寺の本堂は国宝に指定されており、長野電鉄で2〜3駅先だったが、当時は竹箒を担ぎ、1時間程度歩いて現地まで出かけて清掃していたと記憶している。
おそらく当番制で各校が順次毎日のように清掃していたものと思われる。ここの境内は大変広くクラス全員で作業しても半日程度かかったと記臆している。


長野 善光寺
<疎開先の写真>

1944年(昭和19年)小学校5年生のときに長野の伯父のところへ縁故疎開した。

その頃撮影した貴重な写真である。下駄履きなのが面白い。

真ん中は従兄の募(ツノル)で右にいるのはやはり従妹の美子である。
この従兄はこの直後、海軍に応召され横須賀に近い久里浜へ行き、その後海戦に赴いたが幸い戦死は免れた。
当時故郷の長崎から建築家(中部配電勤務)の伯父の家に寄宿し勉強に励んでいた。

多分お別れのために3人で善光寺参りをしたものと思われる。季節は初秋か

クラス仲間で親しくなったのはA君とK君であった。当初は友達も出来ず、家の従妹にあたる美子や社宅に住んでいた女性徒の遊びに加えてもらったりしていたが、バカな中傷をする連中がいた。無視してもよいのだが当時の状況が許さなかった。
クラスメイトのA君はいわゆるワルでけんかっ早く、帽子をあみだに被り、肩を揺らし辺りを睥睨するように歩いていた。いつも奇妙な「ざれ歌」を口ずさみ、何故か他校の生徒を見るやいなやケンカを吹きかけていた。運動能力は抜群だったが勉強はカラッキシで、ワルを思う存分に発揮するのでよく「シカウマ」から頭をゴリゴリと教壇に押し付けられていた。
私とは性格も正反対だったが一種の義侠心のようなものを持っており、孤立しがちな私に気を使いカバーしてくれることがあった。だから自然に気が合った。

こんな事を覚えている。大雪が降った日校庭で雪合戦になった。担任の「シカウマ」が生徒に「俺にかかって来い!」といった。A君はここぞとばかりに雪の球を投げつけた。数人の子分が加わり雪の球を投げあったが多勢に無勢でシカウマは雪だらけになってしまった。双方が真剣でけんか腰だった。
やがて勝負はついた。シカウマが座り込み手を上げたのだ。彼の体は雪だらけで今にも泣き出しそう、無残だった。坊主頭からは湯気が出ていた。いつもの権威は何処えやら照れ笑いを浮かべ降参したのだ。見ていて気の毒だった。仇をとった?A君はコブシで鼻水をすすりながら「どうだ!」と云わんばかりにしゃがみこんだ「シカウマ」を見下ろしていた。

一方K君はデキがよい生徒で気が優しく親切で、やや女性的な感じがしたが独りぼっちの私のことをいつも心配してくれ、いろいろな情報を的確に教えてくれた。彼は級長でもあった。
この二人のことは今でも鮮明に覚えているが、他のクラスメイトのことは全く印象に残っていない。私はこの間吉田国民学校に一年半ほど在校したことになるが、編入生であり卒業名簿に名前はない。その後当時の校友や先生方に会う機会は全くない。


食べ物事情
食糧事情は疎開先でも決してよくはなかった。もともと長野県は当時決して裕福ではなく、気象条件は悪く、蕎麦は採れてもコメの出来はよくない上、伯父は建築家といっても独立しておらずサラリーマンであったから矢張り主食のコメは配給に頼らざるを得ず、農家の子弟が大きな白いおにぎりを食べているのが羨ましかった。
野菜類は庭や共同の空き地で自作していたので事足りたが、たんぱく質不足はどうしようもなく栄養失調気味であったのは事実だ。長野市は日本列島の中心部に位置し、周りを高い山々に囲まれた盆地で標高は400メートル近くあり、冬は長く非常に寒かった。
真冬は日中でも5度以下で明け方には氷点下10度近くに下がることすらあった。暖房は石炭ストーブと掘りコタツであった。栄養状態も悪く凍傷にかかりそれがなかなか治らず苦痛であったが、じっと耐え我慢することも覚えた。
スキーも人並みに滑れるようになったが、専用の靴がなかったのでゴム靴を履いて滑っていた。新品のスキーを買ってもらったが、板が単板であったためワックスの選定には苦労した思い出がある。本格的に滑ったのは一冬のみであり雪深く急斜面の山スキーは怖く、地元の子供には到底太刀打ちできなかった。
後年転勤し札幌市で4年間生活したことがあるが、直ぐ裏に施設が整った「藻岩山市民スキー場」があり、スキー環境は申し分なかったにも拘らず一回も滑ることはなかった。小学生の娘はたちまちスキーの達人?になったが‥。
信州の特産品はリンゴであり、杏もよく実った。又、当時から野沢菜の漬物は各家庭で大量に漬け込んでいた。今でも野沢菜の漬物は大好物であるが、コタツに入りお茶請けに食べると塩加減と歯ざわりがよく、格好のおやつ代わりとなった。
生産地であるにも拘らず、リンゴも統制経済で簡単には口に入らず、ヤミルートで手に入れるため伯父がリーダーとなり夜の夜中に知合いの農家のところへこっそり買出しに連れて行かれた。リンゴは重いので運ぶには一人でも多い方が良いし、私の体力もかなりのものが有ったから戦力になった。
信越線の隣の駅に豊野という所があり、リンゴの生産地であった。汽車に乗ると摘発される心配があるため夜の夜中に出向き、リンゴをリックサックに詰めて社宅に戻るのであった。片道でも2時間程度は歩き、戻ると深夜になっていた。寒い夜でも汗をかくほどの力仕事であり、家に帰ると爽快な気分であった。
このような
体験も得がたいものであり、人間生きてゆくためにはキレイ事だけではダメなことや、出来ることは何でも諦めずに実行するという精神が大いに養われたと思う。

6年生
寒く厳しい冬も過ぎ6年生になっていた。
この年の3月から5月にかけて数回にわたる米軍による東京大空襲があり10万人もの人々が亡くなった。

そのときの空襲は真に激しく、その体験を持っている人々の手記を読むとその恐ろしさに身が震える思いがする。後の広島の原爆被害にも匹敵する損害を受けたのであった。このときの模様については直接体験していないので分からないが想像を絶するものであったらしい。
幸い猛火は東京の自宅の直ぐ近くにまで及んだものの奇跡的に類焼を免れることが出来た。
しかし、身の危険を感じた母は父の強い薦めもあり、弟を伴い私のいる長野に疎開ということになった。その時既に3歳下の妹は山梨県の清里に集団疎開していた。弟は私とは10歳も年が離れており、彼はまだ幼児であったので大変なことであった。

神経質な母がここでの生活になじめるはずもなく、また伯父にこれ以上の迷惑はかけられないと思ったのか半分ノイローゼ気味となり3ヶ月ほどで東京に舞い戻ってしまった。終戦の1ヶ月ほど前のことである。幸い家が焼け残っていたことも一つの理由であった。
この辺の事情についてはあまり良く知らされていなかったが当時は自分自身が生きてゆくことに必死であり、他人のことを心配している心のゆとりなどは誰も持ち合わせていなかったに違いない。
当時母が伯母に対して私の養育費として相当な金を仕送りしているのに食事が余りにも貧しいと何度か不満を漏らしているのを聞いたことがある。
確かに伯母はしまり屋であったが、世渡りは下手でヤミの物資をうまく調達できなかったという事情もあり、一概にこの伯母だけを責めるわけにもゆかなかったと思われる。
この頃になるといよいよ日本の雲行きは怪しくなり、戦争に負けるのではないかとの噂が流れるようになったらしい。この噂は特にマスコミ関係者やインテリ層に広まって行き、公然と口にする人も現れるようになっていた。親父もその一人であった。
長い戦争で皆疲弊し一部には厭戦気分が漂い始めていた。
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