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思い出話」から転載


◆恐ろしい機銃掃射!!
疎開先の長野での寒く厳しい冬も過ぎ6年生になっていた。

1945年(昭和20年)の3月から5月にかけて数回にわたる米軍による東京大空襲があり、特に3月10日に行われた大空襲では約100万人が被災し10万人もの人々が亡くなったといわれている。そのときの空襲は真に激しく、その体験を持っている人々の手記を読むとその恐ろしさに身が震える思いがする。後の広島の原爆被害にも匹敵する損害を受けたのであった。特に若年層の犠牲者が多かったと聞いている。


焼け野原の東京下町


疎開のお陰で私には大規模空襲の体験がなかったのは真に幸運であったが、一度だけ、米軍戦闘機による機銃掃射に遭ったことがある。そのときは非常に恐い思いをした。

疎開した当初、私は歩いて10分ほどの国鉄の吉田駅(現在はJR北長野)で信越線の機関車を眺めるのが好きであった。特に急行列車を引っ張っているC60型や力の強いD51等がブレーキを軋ませながら到着したり、発進のときに勇壮な汽笛とともに大量の蒸気を噴出し、ゆっくり動輪を動かす様はなんともいえない力強さを感じ見飽きることはなく、時には2〜3時間も駅舎で見ていることがあった。

両親から離れての生活が寂しく、心の片隅に望郷の念があったのかもしれない。
汽車に乗って東京に帰れたらいいな‥」と

確か休日のある日、例によって駅舎近くに遊びに行ったときのことである。突然バリバリという轟音とともに大型の戦闘機が目の前に現れた。
何が起きたのか全く分からなかった。飛行機はうなるようなエンジン音を立てて超低空で飛び去ったがゴーグルを付けた操縦士の顔が確認できるほどの距離であった。一瞬の出来事であった。本能的に建物の陰に身を潜めた。
しばらくして十数メートル先の道の向こう側を見ると、数人の人々が血を流し倒れており大騒ぎとなった。阿鼻叫喚というのは正にこのような光景のことだろう。地獄絵を見ているような気がした。後で聞かされたことであるが敵機の機銃掃射で被弾した人々であった。
我々道端にいた人々はあわてて駅舎に避難した。危険だというので半日程度はジッとしていたと思うが、飛行機の再来はなく開放された。
帰りがけに道の脇にむしろを被された何人かの犠牲者の遺体が転がっていたが軍人ではないことは明らかであった。無差別に通行人を銃撃したのは明らかであり、完全なる人殺しの殺戮行為であった。
銃撃で殺された人の遺体を目の当たりにしたときは余りピンと来ず、何か現実離れしたシーンを見たように感じたが後で考えると真に恐ろしいことであった。

子供は標的から外したというより紙一重で運良く助かったと云うのが正しい状況であった。
このときのシーンは今でも鮮明に脳裏に焼きついている。
家に帰り伯父や伯母から散々叱られたのは云うまでもない。
後で聞いた話ではこの戦闘機は、日本海に現れた航空母艦から偵察をかねて飛来したのではないかとのことであったがはっきり分からなかった。この田舎町に敵機が現れたのは後にも先にもこのときだけであった。

死はいずれ誰にでも来るが、死に方にもいろいろある。何の前触れもなく自分自身何がなんだか分からないうちに死ぬというのは真に不幸なことだ。

風船爆弾


ことここに及んでも相変わらず時の政権は「本土決戦、一億玉砕、神風が吹く」などと妄言を吐きつづけていた。正に末期的症状を呈していた。
その当時、万策尽きた軍部はアメリカ本土に向けてナント「風船爆弾」なるものを飛ばしたという。詳しい仕組みは説明できないが、ヘリウムガスのような軽い気体を入れた風船状の気球に爆弾を仕掛け、高空に飛ばすと偏西風に乗ってアメリカ本土に到達するという非常にロマンがある?爆弾であった。


この爆弾の復元模型をワシントンのスミソニアン航空博物館で見たことがあるが、確か気球本体は和紙で作られていたようだ。数千発の内、何発かはアメリカ大陸に到達したと言うが、こんなオモチャであの原爆のアメリカに損害を与えようと真剣に考えていたのだろうか。正に正気の沙汰ではない。
しかも、完全武装で戦車と共に上陸してくる米兵に対して女性がタケヤリで防ぐという全くナンセンスなことも考えていたというのだから誠に馬鹿げた話である。










◆敗戦のショック

この年1945年の4月になると米軍が沖縄に上陸し、多くの一般人が死亡、島の日本軍は全軍ほうほうの体で退散した。
この時の悲劇は後世詳しく伝えられているが、後年、沖縄を旅行したとき史跡を回り、バスガイドや土地の人からその時の様子を直に聞くことができた。

当時の日本軍は一般国民を守るどころか、自分らはガマという洞穴から人々を追い出し、逃げ込み、雨あられと降りかかる米軍の砲弾から身を守り、一方何の罪もない一般人は大人はおろか女子中学生などまで戦闘要員として動員し、伝令などに使い最後には尻尾を巻いて逃げ出したという。真にみっともなく恥ずかしいものであったらしく、地元の人々は今でも深い怨念を抱いていると説明を受けた。その昔、琉球王国が、わが国に併合された時代から、本土の「捨て石」だったとも説明していた。

未だ若い女性ガイドだったが怒りを満面に表し、迫力があり説得力があった。真に酷いことをしてきたものだ。身の毛のよだつような残虐さだ。これが罪もない一般市民である同胞に対する日本軍隊の仕打ちなのか…  信じられない思いだ。

私は其の話を聞き改めて沖縄の人々の悲劇と悲しみ、深い怨念を知ることが出来たのだ。と同時にわが国によって侵略を受けた近隣諸国が戦後60年も経過した現在なお、わが国の軍事化を強く懸念する気持ちも理解でなくはないと感じた。

占領されていたこの土地が米軍から返還を受け、本土へ復帰を果たして久しいが、未だに沖縄県は米軍基地の町で本土並みとは程遠い存在である。

夏休みも8月に入ったある日、ラジオのニュースで広島に新型爆弾が投下され多大な死傷者が出たとの報道が行われた。引き続いて長崎にも同じような爆弾が投下されたとのニュースが流れた。その時はまだ日本が戦争に負けるなどということは考えなかったが、何か今までとは違った様子を感じた。
夏の盛りも過ぎ旧盆に入ったがまだ日中は暑かった。この日重大な放送があるので国民はその放送を聴くようにとのお達しがあった。
その放送を社宅の片隅で何人かで集まって聴いたような気がする。

天皇の玉音放送だという。お昼ごろだったと記憶しているがラジオから今まで聴いたことのないような妙に甲高く、抑揚が不自然な声が聞えてきた。これが昭和天皇の声だったのである。
非常に持って回った言い方だったので、小学生の私には彼が何を云っているのかさっぱり分からなかったが、戦争が終結することは理解できた。確か「耐えがたき耐え、しのびがたきをしのび‥」というようなことを云っていたと記憶している。
特に感慨は浮かんでこなかった。「へぇー そんなものか‥」と思った程度である。特に、悲しさもなくしかし、うれしくもなかった。この直後、宮城の広場で割腹自殺した人が何人か現れたと報道されたが得心が行かなかった。数日を経ずして、鬼のような米兵が進駐し、下手をすると日本人は皆殺しにされるなどというデマが流れていたのは事実である。

この頃の史実について触れると、1945年8月15日日本は米国に対し、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたのである。そして、同年9月2日に当時の重光外相が降伏文書に正式調印を行い、日本は名実共に敗戦国となったわけである。これと共に第二次世界大戦も終焉を迎えた。 日本は連合国によって占領されたのであるがこれに当たって連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官に就任したダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に神奈川県の厚木飛行場に到着、その後さまざまな占領政策を打ち出して、社会の改革を推進してゆくことになる。

◆ この項 「手にとるように日本史がわかる本」 (かんき出版)から抜粋引用


日本は歴史が始まって以来、外国との戦争に負けたことはなく、したがって決して降参することはないと云われつづけてきたが、結局、神風も吹かず奇跡も起きなかった。日本は負けるべくして負けたのであり至極当然の成り行きであった。もともと無謀な戦争であったのだ。
大変な戦争の惨禍を受け、多くの尊い人命を犠牲にして初めて分かったことだ。

東京へ→ ヒドイ食糧難
その後の経緯については何も記憶していない。大人も子供も心の支えがなくなり、腑抜けのような日々を過ごしたのだと思われる。
だが10月頃になって東京から親父が迎えに来て、東京に帰ることになった。

当時はヒドイ交通事情で、国鉄はまともな運行は出来ず東京に戻るには通常、信越線で帰るのだが、ダイアは滅茶苦茶で指定席などは取れるはずもなく、まともなルートではムリと判断し、一旦松本に出て中央本線で東京に向かった。
列車の混みようはひどく時間も通常の倍近くを要したはずである。
列車は案の定、すし詰めの状態であったが私は子供であったため、大人が座らせてくれたりベンチシートに3人掛けしたりして我が家にたどり着いた。親父も私もくたくたになっていた。

戦争の危険は去ったが生活特に食生活はひどいものであった。戦時中より一段と悪化し、とにかく食べるものが無かったのである。電気も不足し停電はしょっちゅうあり、ガスもまた然りであった。日本の米びつは底をついていた。
アメリカ軍による援助物資の配給で飢えをしのぐ日々であったが正直言って配給物資は家畜の餌のようなものであった。
例えば、とうもろこしの粉、大豆油の絞りかす、小麦粉のふすま、鯨の脂身、等々であったが、生きてゆくためには口に入れないわけにはゆかなかった。
庭の菜園で採れたカボチャは主食を補っていたが、茎や葉っぱは味噌汁の具にして食べた記憶がある。
また、サツマイモも主食代わりに食べていたが農林1号という収穫量の多い芋が多かった。それ以外にキントキとかタイハクという種類があったが時々冠水した芋の配給があったがこれは煮ても焼いてもガリガリと硬くまずくて食べられた代物ではなかった。

家ではよく「すいとん」というものを作り飢えをしのいでいた。これは雑穀の粉で作った団子状のものに野菜等を加え、汁に入れて煮たものであるが、汁でお腹を膨らませるようなものであった。肉類が入っていないのでまずかった

今これに似たようなものを例に挙げると、甲府あたりで有名な「ほうとう」という団子状のうどんをいろいろな具と共に熱い汁で食べる庶民的な料理があるが、あえて言えば形だけは似ている。しかし、中身は全く違っていた。ほうとうは美味い郷土料理である。

また、自分の家でふすまだらけの小麦粉やとうもろこしの粉を混ぜてパンを作っていた。
パンを焼くための道具は木枠で作った箱の左右にブリキを張り、そこに交流100ボルトの電気をコンセントから取り、それぞれの電極につなぎ加熱して焼いた。パンを膨らますためにイースト菌をいれてそれらしくした。

出来あがったのは一種の蒸しパンで、形だけは小型の食パン状のものであったがお世辞にも美味いとは云えなかった。少し甘みでも加えればまだ何とかなったろうが、砂糖が無かったからダメであった。しかし、驚くべきものを発明?したものである。

飢餓状態というのは誠に厳しいものがある。人間の本能は食欲、性欲、征服欲、闘争心などだが食欲に比べると大した事ではない。
動物は皆食べてゆかないと命を保てない。本当に何も食べるものがなくなると最後には木、草、根っこ、犬、猫はおろか蛇やネズミでも食べてしまうという。
極限状態になり人肉まで食べたという話を聞いたことがあるが、そうかもしれない。
今考えるとこんな明日の命も分からない暗い時代に生きていても仕方がないと思われるのだが不思議なことに自殺者が出たというのはあまり聞いたことがなかった。このようなギリギリの極限になると人間は何としてでも生きようとするものなのか。

現代インターネットなどで将来がある若者が自殺希望者を募り集団自殺するとマスコミなどで取り上げられ、全く理解に苦しみ、また暗然とした気持ちになるが、こんな事は想像だにしない時代であった。

学校へ復学
6年の初冬の頃、豊島区立長崎第二小学校に復帰し登校した。学校は間一髪で焼け残ったがすっかり荒廃していた。
ろくすっぽ授業は行われず自習が多かった。教員の頭数も足りず、居ても代用教員が主であり、教科の編成もままならなかったようだ。これは止むを得ないことであっただろう。

教科書も整わず自習しろといっても無理な話であり、時には机や椅子を片隅に押しのけて教室でべーゴマ遊びなどに興ずることさえあった。学力がつくはずもなかった。気持も荒む一方であった。
腹が無性に減り、特に甘いものが欲しかった。飢えをしのごうと駐留軍が大勢居た巣鴨刑務所や池袋の闇市に出かけ、彼等を相手に「ヘイ!ギブミー チューインガム!」などと物乞いまでして歩いた。
乞食のまねまでやるとは日本男児も落ちるところまで落ちたものである。

このようにしてせしめた何がしかのチューインガムやチョコレートの美味かったことは今も忘れることは出来ないが、餓えのためとはいえ自尊心も捨て、恥も外聞もなく物乞いまでしたこの当時のことを思い出すとなんともいえないイヤな気分に陥る。

進駐してきたアメリカ兵は皆カッコよかった。服装は日本の軍服とは比べ物にならないほど上質でセンスがあった。帽子もひさしのついた戦闘帽ではなく頭にチョコンと載せるだけのモノで、それを少し斜めに被っていた。少なくとも表面は穏やかで気さくであった。
今までの宣伝で鬼畜米兵と言われ続け、赤鬼のようなコワイ兵士を想像していた我々にとっては拍子抜けした。日本人と全く変わらない顔立ちの軍人がいた。日本人の二世だという。心からうらやましかった。

これは家内に聞いた話であるが、彼女の実家は両国にあり、当時としては珍しくピアノがあったという。焼け残った国技館や病院を占拠したジャズ好きな将校がそのことを聞き付けよく演奏に訪れていたらしいが、大変陽気で紳士的であったらしく一度でファンになったらしい。


占領下の東京・銀座・服部時計店前
1945年ジェターノ・フェーレイスというアメリカの報道カメラマンが撮影した写真
コダック社のフィルムだそうだが驚くほどきれいだ


勿論、彼等による婦女暴行等はあったと思うが、カネもモノもない日本では物取りは起こりようもなかった。目当ては女性ということになるがアメリカ兵相手に夜の商売をする女性のことをパンパンガールなどと呼んでおり、彼女等は一種の優越感にしたっているような風潮すらあった。
身なりはドハデであり、化粧は今まで「大和なでしこ」などといわれた日本女性の常識では考えられないようなどぎついものへと変わり、その顔がタヌキかキツネ、またはメガネサル?を連想させる、余りにも珍奇なのでビックリした。これがアメリカの文化なのかと思ったものである


やがて1946年(昭和21年)になり「天皇人間宣言」が行われ、従来の天皇の神格を否定し象徴天皇制に移行することになったがこれは正に日本にとっては驚くべき変革であった。勿論米国を中心とする連合国側の強い意向に沿ったものであることは明らかである。


季節は巡り翌年の春3月になった。
いろいろなことがあった小学校に別れを告げるときが来た。卒業時の担任や校長の名前は覚えていない。前述のような混乱期で教師の存在も希薄であり印象が薄かったのかもしれない。
この時既に近くにある私立のR中学に入学することに決まっていた。この学校を選んだのは、徒歩で通えることと校舎が奇跡的に戦禍を免れていたという理由だけだった。

卒業式には父親も出席したような気がするが定かではない。卒業式の当日のことも覚えておらず卒業証書も紛失した。写真だけがアルバムの片隅に残っている。
(私は二列目左から6番目)

お定まりの式の後、父兄による謝恩会があったと記憶しているがその時にパンかビスケットのような菓子が少し出たのを覚えている。ヒドクささやかなものであった。卒業は感動や感激、涙がつきものであるが、そんな感情も湧いてこなかったような気がする。寂しい卒業であった。(03/08
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