追悼
ロストロポーヴィチとメニューイン

 
巨匠チェリスト・ロストロポーヴィチが2007年4月27日に亡くなった。
ここではロストロポーヴィッチについてメニューインとの関わりを中心に書く。

1974年ロストロポーヴィチはソビエトから海外へ亡命する。そこには作家ソルジェニツィン擁護によってソビエト当局から海外渡航を禁止されていたロストロポーヴィチと共演するために、メニューインがブレジネフを脅迫してビザを発給させたという経緯がある。


詳述すると、メニューインは1974年1月のパリのIMC・ユネスコのコンサートで共演するためにロストロポーヴィチを招待した。

ソ連当局はロストロポーヴィチが病気という理由で出演を拒否した。しかしメニューインはロストロポーヴィチ夫人・ヴィシネフスカヤと電話をして彼が健康であることを知った。

ソビエト文化省にそのことを伝え、ロストロポーヴィチ出演を要求すると、ショスタコーヴィチとボロディン弦楽四重奏団を代役で派遣するとの返事しか得られなかった。

そこでメニューインはブレジネフに電報を打ち、この経緯を新聞に発表すると脅迫した。
その日の夕方ロストロポーヴィチにビザが発行された。

ロストロポーヴィチはこのままソ連へ戻らず海外へ亡命するのである。

(参考:メニューイン自伝『果てしなき旅』白水社 和田旦訳)


この時のパリのコンサートでは、ケンプとメニューインとロストロポーヴィチの共演によるベートーヴェンの「大公」トリオが日本でもTV放送された。


1999年にメニューインが亡くなった時、ロストロポービチは下の追悼文をフランス「レペルトワール」1999年4月号に寄稿した。

「ちょうど八歳のときだった。外国から帰ってきた両親の友人宅でヴァイオリン曲の録音を耳にし、その場ですっかり魅了されてしまった。ピッツィカートがまるでハープのように響く……これがメニューインに関するもっとも古い記憶だ。
 実際にメニューインの演奏を初めて生で聴いたのは、戦後間近のまだ学生だった頃で、彼はソヴィエト連邦を訪れた最初の西側アーティストのひとりだった。そのとき彼が弾いたのはベートーベンのヴァイオリン協奏曲だったが、私にとって生涯忘れられない名演であり、とくに緩楽章が素晴らしかったのを覚えている。
 いうまでもないが、のちに私たちは世界中で頻繁に会い、何度も共演している。
(中略)
 メニューインは強烈な個性の持ち主で、奏でるひとつひとつの音をとおして本人の人格そのものが透けて見えてくるような演奏家だった。それからもちろん、イギリスに設立した音楽学校に注がれた彼の情熱も忘れてはならない。メニューインは数々の一流の音楽家を育てた偉大な教育者でもあり、弟子たちはこの偉大な師の意思をきっと立派に継いでいってくれるに違いない。」(岡本和子訳「レコード芸術」1999年6月号)


Menuhin / Rostropovich 

メニューインとロストロポーヴィチの共演は1964年のロンドンでのブラームス:ドッペルコンチェルトがCD化されている。BBC LEGENDS BBCL 4050-2、コリン・デイヴィス指揮ロンドンSO (試聴可)