オレは幼少時からのゲーマーであっただけに、中学でも高校でも多くの相手(ゲーム好きなクラスメート)と様々な「ゲーム論議」を交わしてきた。そして、そうやって多種多様な意見に触れてきたことにより、オレとしても多種多様な価値観を知識として得ることができたわけだ。
ともかく、人の考え方は千差万別。ゆえにその中には本当に色々な考えがあり、共感できるもの・できないもの含めて多くの主義思想があった。
そんな中で、オレが高校時代に出会ったひとつの考え。それが今回のテーマとなる「売上至上主義」という思想である。
当時のオレ達が、具体的に何の話題に関して議論していたのか…その詳細までは覚えていない。
だが恐らく「『FF』シリーズの中で一番面白いのは何か?」を「良いゲームの条件」とも絡めながら話し合っていたのだと思う。もっともそのテのテーマに関する話し合いは「議論」の様相を保つというより、各々が各々の考え方を述べる程度に留まるのが精々で…しかも、まだ頭のレベルは高校生だ。ゆえに高尚な議論とは程遠い、なんとも子どもっぽい口論にも発展したものだが…だがそんなレベルであっても、一応は個人個人の「考え方」「主義主張」といったものはどうにか持ち合わせていた。そしてその中で一人が強く主張していたのが、先に述べた「売上」に関する理論である。
つまりゲーム(あるいはゲームに関わらず、あらゆる作品・製品)の「良悪」をはかる基準になるのは、「売上」こそが唯一絶対の指標であるという理論だ。そのときは『FF』シリーズの話から発展し、各々「自分が一番面白いと思う『FF』」に対して「こういう理由でコレは面白い」と紹介しあっていた。逆に「自分がつまらないと思っている『FF』」に関しても、「こういう理由でつまらない」とそれぞれの考えを述べていた。…だが、その議論の輪に特定作の「信者」が混ざっていたのが問題だったのだろう。
ともかく「売上至上主義」の具体例は、以下の通りだ。
自分が好きなソフトについて否定的な意見が発せられると「アレは○○万本も売れた。『FF』の中でもトップクラス。だから名作だ」と反論する。
自分が嫌いなソフトについて肯定的な意見が発せられると「アレは××万本しか売れなかった。その数字は全然低い。だからクソゲー」と断罪する。
要するに「作品のデキ」と「売上」とは完全比例関係にあるという考えだ。例えばA・Bという2作の売上が「A>B」ならば、作品としての面白さ・出来栄えという要素も「A>B」である…と。これが売上至上主義の基本思想である。
ただこの考え方は、非常に理に適った理屈であることは間違いない。なぜなら「売上」という要素は、紛れもなく「客観的」であるためだ。
これはあえて言うまでもないことだが、あるゲームを誰かが評価するとして…そこに「客観性」が入り込む余地など殆ど無い。「あのシナリオは感動的だ」「あのキャラは良かった」「あのシステムは秀逸」など…当然ながら、それらの批評は全て「主観」のうえに成り立っている。
「このシステムはこれこれこんな風に面白く、こんな要素もあって深みもあり、やり込みポイントとしても評価でき、とても秀逸である」と…そうやっていくら「理屈っぽく」批評をしてみたところで、それらは全て「根本的に主観」であることは当然だ。例えば上記の台詞を簡単にまとめれば「僕は面白いと思ったんだ!」という言葉に集約されるわけである。
そしていくら深みのあるシステムであっても、同じシステムを他の人が評価すれば「複雑すぎる。クソシステム」と言われることだってあるだろう。もちろんその場合、まとめれば「俺はつまらないと思ったんだ!」という一言に集約されるということだ。
これは自明の理だが、結局のところ「作品の批評」なんてそういうモノである。ある人がAというゲームを好きといい、別の人がBというゲームを好きという。もちろん2人とも、どうにか「自分が好きなソフト」の方をオススメしようと「ココが良い!」「アレが良い!」と騒ぎ立てるだろうが…結論として、そのときAとBの「どちらが良いゲームか」なんて言えるわけがない。なぜならば、全てが主観のみで構成されているから。主観に優劣は付けられない。
だがそんな中で、唯一「客観」により評価可能なポイント。それこそが、言うまでもなく作品の「売上」である。
つまり完全平等な視点で何かを評価しようと考えるならば、最終的に行き着くポイントが「売上」なのは必然だろう。なぜなら、他に客観的評価を求めることのできるポイントが存在しないから。明確に「数字」が出ている売上こそが、客観的評価の最たるものである。
オレ個人としては「売上」と「作品のデキ」が必ずしも比例しているという考えは持っていないし、そもそも売上がどうこうという話自体が嫌いなのだが、それこそ完全に個人差の範疇だ。「売上」によって作品の優劣を求めようとする態度自体は、考え方として何も間違ったものではない。
しかし、ここでの問題は別にある。確かに「売上至上主義」自体は、考え方のひとつとして問題無いだろう。だが、もし一度でも「売上が高い方が、良い作品である」という理論を語ったのならば…もはや、そこに「例外」を設けることは許されないと思うのである。
何らかの理論というものは、ただ「自己弁護」をしたいときにのみ用いればいい便利な魔法の言葉ではない。例えば自分の好きなゲームというのが、偶然にも売上が高いゲームだった場合、何らかの批判を受けた際に「このゲームは売上が高いですから、良いゲームなんです。それを面白いと思えないアナタの方がズレてるんです」と反論するのも良いだろう。しかしそれがうって変わって、自分が「売上の低いゲームを好きになった」なら。いきなり掌を返し、先の理論など無かったかのような論調を繰り返すのが問題なのだ。
「売上は低いけど、それはこの作品の真の面白さに気付けないヤツが多いだけ」
「売上だけが全てじゃないことが、このゲームによって証明された」
「売上はあのゲームに負けてるけど、面白さは圧倒的にこっちのが上」
こういった台詞が「売上が高いからAは名作。低いからBはクソゲー」と言っていた人間と同じ口から放たれているのを見るたびに、オレはいたたまれない心境になる。「売上を盾にして自己弁護したり、他のゲームを批判したことがある」のなら、全てのゲームに関して同じルールを適用させるべきなのだ。こだわるならば、とことんこだわる。そうしなければ、その言い分は一時しのぎの幼稚な屁理屈に過ぎないことになるだろう。
嫌いなゲームが多大な売上を記録した場合は、「アレは見た目の売上が伸びただけで、実際は中古屋に売られまくっている」とか言いながら、自分の好きなゲームが同じくらいの売上を記録したら「ほら、やっぱりこのゲームは凄い」と誇るばかりで、中古屋の「ちゅ」の字にすら触れない。
「○○万本しか売れなかったあのゲームはクソゲー」とか言いながら、同じく○○万本しか売れていない自分の好きゲームに対しては「クソゲー」などと一言も言わず、そもそも売上の話自体に触れない。
大手製作会社か中小製作会社かによって絶対的な売上本数が違う…という部分を意識するだけの頭はあるが、結局「中小の30万本は、大手の300万本と同レベルである」という勝手な自分理論を振りかざして、30万本売れた(自分の好きな)ゲームは200万本売れた大手のゲームより上だ! と叫びまわる。
それらは、もはや愚にもつかないトンデモ理論も甚だしい。なにより己の信ずる信念や理論は、「場合によって使い分ける」ものではないはずだ。自分が「売上」を信じるなら…いや売上に限らず「何か」を信じているのなら、たとえ自分が不利になろうとも、如何なる場合もそれを信じてこそ「信条」と呼べるのである。
そう。信条や信念と、屁理屈とは別物なのだ。
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