「厨」という言葉がある。そしてこれは、実に定義が曖昧な言葉だ。
ある人にとっては普通の行動であっても、別の人から見たら「厨行動」と言われたり、またその逆もしかり。そもそも、もともと「厨」とは否定的な意味合いで使われる言葉だけに、単純な罵倒語として乱発されることも多い。
ゆえによく指摘されることには、「なんでもかんでも厨って言えばいいもんじゃない」というものがある。「厨」にはきちんとした意味(抽象的であれ)があるわけで、自分の感性と異なる思想を全て「厨だ!」と断じるのは大いなる間違い…というか、その態度こそが真正の厨ってモノだろう。
ともあれ厨の定義とは何か…という話題は、また別の機会に取っておく。そこで今回は「厨」という大きなくくりではなくその一例…すなわちオレ個人が考える「厨行動の一例」を紹介しよう。
というわけで、今回は前置き抜きで結論から述べる。オレの考える「厨行動」の最たるもの…それはすなわち、この一文に集約される。
「『自分の考え』と『世間の常識』が、同じものであると錯覚すること」
つまりは、大いなる勘違いであり妄想でもある。自分が何かを考えた…その結果として、「僕がこう考えているのだから、他の皆もそうに決まってる」と思い込んでしまう。それは人間たるもの、多かれ少なかれ発生する思考かもしれないが…しかし時に、それが行き過ぎてしまうのが問題なのだ。
「一を聞いて十を知る」という慣用句がある。少しのことを聞いただけで、そこから推し量って多くのことを悟ることを指し、非常に賢く理解が早いことを形容する言葉だ。だがそれの反意語として「一を知って二を知らず」という慣用句も存在することを、我々は忘れてはならない。
言い換えるならば、「一を聞いて十を知る」ではなく「一を聞いて十を『知った気になる』」危険性を、常に念頭に置くべきなのだ。というより更に重要なことは、すなわち「自分と同じ意見を探そうと思えば、容易に探すことができる」という点である。
少々話が解り辛くなってきたので、例を出して説明する。
そもそも人間という生き物は、己に都合が悪いことはすぐに忘れ、都合が良いことばかりを長く覚えているものである。成功の記憶、勝利の記憶、賞賛の記憶…そういったものは、たとえ小さなことでもいつまでも覚えているため、時に人は「ソレ」に縛られる。ゆえに分の悪い挑戦であっても…極端なことを言えば、同じ条件におけるそれまでの通算勝利数が2割・敗北数が8割という勝負であっても、僅か20%しかない「勝ちの記憶」が心を支配し「今回はきっと行ける!」と思い込む。言葉を変えれば、自分で自分を洗脳しているわけだ。
とはいえ、これは良く言えば「ポジティブ思考」というやつで、そこまで問題ではない。逆に数少ない「失敗の記憶」が脳裏にチラつき「今回も失敗するんじゃないか…」と過剰な恐怖を抱くのが「ネガティブ思考」の典型で、どちらかといえばそちらの方が問題かもしれない。もっともそれは程度の話であり、過去の失敗経験をきちんと意識するのは「思慮深い」とも言えるが。
だが、それならオレは何が問題と言っているのか。それは何より「見識が狭いゆえの、過度な思い込み」なのである。
先も述べた通り、人間は「己に都合が良い情報」ばかりを収集し、脳内のデータバンクに蓄積する…「無意識に蓄積し易い」ものだ。その結果として何が起こるかといえば、それは最初に述べた通り。すなわち「『自分の考え』と『世間の常識』が、同じものであると錯覚すること」である。
もともと人には「各々の考え方」があるにせよ、本当にそれが「自分一人だけ」で勝手に考えている理屈だとしたら、いくらなんでも「これが世間の常識だ」などと大それた勘違いはしないだろう。だが些細なキッカケさえあれば、心はいとも脆いもの。要するに、偶然にも「自分と同じ考え方」を持っている人間を発見してしまえば、人心など容易く揺れるということだ。
ずっと、前々から思っていたことがあった。だけどそれは、自分一人だけの「勝手な考え」だと思っていた。
だけど偶然にも、そんな「勝手な考え」だと思っていたものと、同じ考えを持つ相手を発見した。
一人だけなら偶然かもしれない。だがそれが、二人…あるいは三人いればどうだろう?
実際には、自分自身を含めて「たった四人」しかいないにも関わらず、何故だか「こんなにたくさん、同じ考えの人がいる」と思ってしまう。
転じて「それが世間一般の常識ではないか」と勘違いしてしまう。
たとえ、「自分と異なる意見」を持つ人間が他に十人いようとも…だ。
上記は例としたので多分に極論ではあるが、これに近い経験が皆無という人もそうそういまい。たとえ今でなくとも、自分が子どもの頃を思い出してみるといい。ガキんちょが持つ「狭い世界と視野」の中では、近所の常識やクラス内での常識が自分にとって「世界の常識」だったハズだ。そのため別クラスや別校の友達と会話したところ、カルチャーショックを覚えた経験もあろう。そして今現在でも、ネット上などで「出身地が異なる相手」と会話したところ、これが常識と思っていたことが実は違った…あるいは「地域限定の常識だった」という経験はあるまいか。
オレは、こんな事例を知っている。
「この作品は、世間一般で万人が認めるクソゲーだ」と言っている人がいた。その作品はオレにとって特に可もなく不可もなく…という作品ではあったが、しかしながらオレ個人的には、少なくとも「世間一般でクソゲーと認知されているゲーム」というイメージはなかった。そこが気になったため、オレはその人に質問してみた。「それって、そんなに世間でクソゲーって言われてますか? 特にそんなイメージは無かったんですが…」と。
すると返ってきた答えはこうだ。
「すみません。このゲームをやったクラスの友達2人が、2人ともクソゲーって言っていたので、みんなが同じ考えだと思ってました」
もちろん、上記の話は極端な例に過ぎない。だが人は誰しも、些細な要因でそういった思考の穴に陥る危険性があることは間違いないだろう。
そう。人一人が持つ価値観の分量と面積など、所詮はたかが知れている。だからこそ我々は常に、「自分の考えが世間の常識とは限らない」ことを意識しなければならない。「クラスで何人かが話していた」「ネットでそういう意見を見た」…その程度のことで、物事の本質を見誤るのは大いなる間違いなのだ。
特に現在は、ネット全盛の世の中だ。
広大なネットの海を彷徨えば「自分と同じ意見」を持った相手などいくらでも見付かるということを、忘れてはならない。
そして「いくらでも見付かる」その意見が、全体の常識とは限らないということも、常々忘れてはならないんだ。
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