人には色々「大事にしたいもの」があるハズだ。大事な物や人もそうだが、それと共に心の中にある「大事なもの」が。
それは「誇り」だったり「夢」だったり「主義」だったり…人それぞれだろう。ただそんな中でも、オレが何より大事にしたいと思っているもの。それが今回のテーマでもある「個性」というファクターである。
これまでも何度か話した通り、謙遜が美徳とされ「本音と建前」が日本発祥の(あるいは日本にしか存在しない)言葉であることからも解る通り、我が国は「他人の意見に迎合すること」「己を主張せず、周りに合わせること」が重要とされる世の中だ。そしてそういった社会通念が基調となって「日本人の個性」を形成たらしめたのか…あるいは「日本人の個性」が社会をそのように変えていったのか…卵と鶏の後先は不明だが、ともかく日本人の特質そのものが「皆と一緒」なのを好むものであることは確かだろう。
「流行のファッションには、皆が飛びつく」
「みんなが持ってるから、という理由で自分も同じものを買い求める」
「少数派ではなく、常に多数派へ所属したい」
そういった心理はまさに「その典型」である。欧米では「皆と同じ→ただの無個性」と断じられ、常に己が意見を発信することが求められることを考えれば、日本との違いは明らかだ。しかし当然、日本と欧米の「どちらが優れているか」は誰にも解らない。ゆえに日本的に「建前と社交辞令によって皆が衝突なく仲良く過ごす」のが好きか、あるいは欧米的に「本音をぶつけ合う中で互いの友情を深めていく」のが好きか。それは完全に、個人の性格に拠るものだと考えられる。もちろんここは日本なのだから、単純に数で比べれば「日本派」のが多くなることは間違いないだろうが。
さて。ともあれ最初に「個性を大事にしている」とも言った通り、オレ自身は欧米的な考え方をしている。しかし少しだけ常と違うのは、「無個性も個性のうち」とでも言うか…つまり特筆すべきポイントがなかったとしても「己が己の個性をきちんと意識する」ことが何より大切だと考えている点である。
そもそも少し考えてみれば解るが、もともと「個性的」という言葉自体が酷く曖昧なものだ。
例えば100人の人がいて、Aという性格を持った人が50人・Bが30人・Cが15人・Dが4人・Eが1人だったとしよう。すると我々は、どこまでを「個性的」と見なせば良いのだろう? まず「100分の1」であるEは個性的だろうか。4人しかいないDもまた然り…かもしれない。
では15人のCはどうか? あるいは30人のBは? …オレには、それが個性的か否かの判別はつかない。結局のところ「全体の○%未満がそうだ」など明確な指標が存在するわけじゃなし、何が個性的かの判断は(厳密に言えば)不可能だ。しかしその事実は、同様にして全く逆の話にも適用される。すなわち先の例で言えば100人中50人と過半数のA…つまり2人に1人はソレという「凡庸なA」ではあるが、ならば「Aの人々=無個性」と直結するのだろうか?
確かに言葉の定義として「多数派すなわち無個性」と位置付けるならば、Aの人々は無個性なのかもしれない。だが「人と同じ」であろうとも、それは当然「そういう個性」として尊重されるべきものだ。日本がいくら「強い個性を疎む社会」といえど、それでも「お前は個性の無い、無個性なヤツだ」という台詞は否定的なニュアンスで用いられる。しかし本来は、そうなるべきでないだろう。個性とは各々の特質であって、多数派であれ少数派であれ本質的には平等だ。だがいずれにしてもオレが大事にしたいと思うのは、先も述べたようにきちんと「自分の個性を意識する」ことである。
例えばオレは昔から「GAC系の企画」をオフで開催することも多かっただけに、学校中のGACファン達とある程度の親交があった。だがそんな中で強く感じたのは、やはり個性の消失化だ。「無個性」ではなく「個性の消失」である。つまり、皆が「同じことを考えがち」ということなんだ。
要するに「自分はこれだけの知識がある」「このゲームをこんなにやり込んだ」など…そういった表面的なものでは、とても「個性」などになり得ないということだ。しかしこれはGACに限った話ではないが、周りに「自分と同じ趣味・趣向の相手」がいなかった場合、基準になるのは当然「己」だけとなる。するとそういった「表面的」なものだけで、己が個性を発現しがちになってしまうのである。
極端な例を述べる。オレの高校には1組にいたAと2組にいたBという、2人の声優ファンがいた。オレは企画絡みでAB共に面識があったが、ABら自身は別クラスのためお互いを知らなかった。また1,2組にいた「声優ファン」は、それぞれA,Bの両名しかいなかった。…そんな感じで、環境が「完璧に整っていた」のがマズかったんだ。
つまりAもBも、オレの前で色々な声優の個人データ(○○って声優は、収録中にこういう出来事があって〜〜等)を話してくれるんだが、2人ともがそれぞれ「声優個人について話す声優ファンは珍しいよね。こんな詳しいヤツもそうそういないよ」と自らを誇っていたわけだ。もちろんオレからしてみれば、A・B共に知っていたから「すぐ近くに似たようなヤツはいるぞ…」という心境だったのだが(笑)
ただこれは別に、A・Bの声優知識がいずれも大したことなかった…という意味じゃない。2人ともけっこうな声優ファンだったため、それなりに知識はあったんだ。だが問題は、「そういったこと」は各々の「能力」とは言えても「個性」とは言えない…ということである。
結論を言えば、オレの考える「個性」とは、すなわち「他の人と違うこと」を指しているわけじゃないってことだ。
そして「個性」とは「信念や信条」のうえに形成されるもので、「知識」や「技量」とは関係ない部分にこそあるべきなのだ。
同様に無個性…すなわち「人と同じ考え方」が自分の基本であるとしても。「人と同じ考え方をすること」が、自分で考えた末に選び取った己が道筋だとしたら、それは誰から咎められることのない立派な個性へと昇華されるだろう。
ただ人と違うことをすればいいわけじゃない。己の「個性」を、きちんと意識し考え「掴み取る」ことが大事なのだと、オレは思うんだ。
…今回はちょっとばかし、毛色の違う話になった気がするな(笑)
でも、おかげで自分で読み返してさえ「何が言いたいんだオレは?」と思えてくるほど文章がまとまってなかった。
だから簡潔にまとめるとすれば…こんな風になるかな。
「人と同じでも良い。だが何も考えずに『ただ人と同じであることを目的とする』のは間違っているのではないか。
同様に、人と違う個性的なのも悪くない。だが『ただ人と違うことを目的とする』のは本末転倒である。
大事なのは己の個性と信念を、己の頭で考えて選び取ることだ」…と。
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