16.先入観

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これはもちろんオレ個人の性格に拠るわけだが、オレは「先入観」というものをひたすらに嫌うタイプだ。
その「嫌いっぷり」はなかなかに徹底していて、傍目には直接「ソレ」に関わらないよう見えることでも、その延長線上に「先入観がイヤだ」という感情があるからこそ避けている…そういった事例にも事欠かないくらいに。

例えばオレは、未見作品のネタバレを強く嫌う。それは他人から見れば、極々小さなものであってもだ。その理由は何より、自分で作品を読む前に何らかの情報を仕入れてしまうことによって、余計な先入観が脳内に根付いてしまうことを嫌うためだ。
またオレは、声優さんに関して「人となり派」ではなく「声派」であるという話は以前にもした。それは単純に「声が好き」という理由もあるにせよ、それと同時に声優さんの「人となり」やその「素顔」を知ってしまうことで、自分の中にあるキャラのイメージが壊されてしまう…先入観に引っ張られてしまうことを恐れるからだ。

ともかく結局のところ、いくらオレ自身が「先入観は嫌いだ」と叫びソレを出来得る限り廃すことを心に誓ったとしても、もとよりそんな真似は夢物語だろう。一度根付いてしまった「何らかの印象」は、自身の自制心によって軽減することはできても心中から完全に取り除くことは不可能である。ゆえにオレは、最初から「先入観」というモノ自体を「得ることがないように行動する」ことが最善だと判断…結果として現在の(時に過剰なまで)先入観を嫌う姿勢が身に付いたわけだ。


さて、ともあれ最初にも述べた通り、そういった性格・姿勢はあくまでオレ個人のものだ。だから「先入観」の良し悪しは、また別の問題である。
またオレのように「意識的に先入観を除外する」ことをしなければ、ソレを好む好まざるに関わらず、大なり小なり「先入観」が外界からもたらされてしまうのは仕方のないことでもある。というよりオレのように先入観を受け付けないよう意識している人間とて、結局は同じことだろう。情報の渦に呑まれた現代社会において、全ての先入観をシャットダウンすることなど到底できるものではない。
だがオレはそんな中においても、特に「好ましくない先入観」を胸中に抱いている。それはオレ自身が先入観を嫌いだ…というその事実以上に、どうしても相容れることができない悲しき事例…。オレは少なくとも、そういった類のものだけは意地でも己の脳内から排斥することを誓っているんだ。
それは何か。…簡単だ。それはすなわち「決め付け」というものである。

そもそも「決め付け」とは、先入観の最上級であるとオレは考えている。要するに「あの作者(の描いたマンガ)は嫌い」とか「このジャンル(のゲーム)は嫌い」だとか…そういった気持ちなら、多かれ少なかれ誰にだってあるだろう。だがその気持ちが行き過ぎた結果として「中身を全く視野に入れない」という態度が形成されること。それこそが最大の問題であると思うわけだ。

特定の作者が描いたマンガを見つけると、ロクに内容も読まず毛嫌いしこき下ろす。なまじ読んだとしても、前作と似ている「ある特定の箇所」だけをこれでもかと抜き出し「やっぱりこの作者の描くマンガは、こういう要素があって駄目だ・嫌いだ」と宣言する。

同様に「アメリカは嫌いだ」「中国は嫌いだ」などと叫び、その国に関わるものだったら製品にせよ出来事にせよ(良い部分には目もくれず)悪い部分のみをひたすらに抜き出し批難の限りを尽くす…そういったタイプの人間も時折目にするが、それも同じことだ。例えば中国に関してなら、言うまでもないことだが中国製品にも良いものはあるし、中国人にも良い人はいる。というより「良いもの<悪いもの」「良い人<悪い人」なんて定理自体が、何の根拠もないことは言うに及ばずだ。特定の国や物を嫌う人の殆どが、ニュース等で流れる「全体の数%にも満たぬ偏った特定の部分」のみを見知って「そうか、アレは悪いモノなんだ」と思い込んだり、実際に自分が出会った僅か数人の「アメリカ人」やら「中国人」…すなわち全国民の1億分の1以下の人と接したことで、その人の印象が悪かったから「あの国の人はみんなあんな感じなんだろう」と決め付ける。

人間は自分に都合の良い情報ばかり頭に入ってくるものだが、そのことが影響した結果として何らかに関する「50個の良い話」と「50個の悪い話」を聞いたとしても、最初から「自分はそれを嫌い」という前提があるなら「良い話」など(悪い話と同数であるにも関わらず)「例外」としか思わないだろう。そして良い話と同数であるハズの「悪い話」に関しては、「ほら、こんなにたくさん悪い部分がある。やっぱりコレは悪いものだ」と自分を納得させるわけだ。

だが忘れてはならないのは、これは全く逆の話にも当てはまるということである。例えば「○○さん(作者)の描いたマンガはどれも最高だ」「自分は××シリーズ(ゲーム)の大ファン。だから、どの××作品も最高である」と宣言する人は多い。もちろん全ての作品をきちんと読んだ・プレイした上で「やはりコレは面白い!」と感じたのなら、それもいいだろう。だがまず「コレは面白い」という大きな結論ありきで作品に触れた結果、「己が感情」を介在させる隙間もなく、きちんと作品の内容を感じることもせずに「やっぱりコレは面白い」と口にすることは、何かが薄っぺらい気がしてならない。

ある歌手のファンが「あの人の曲は、(100曲くらいある)全てが最高だ」と言うのを耳にすることがある。だがオレはそういった台詞が、どうにも実の伴わない薄っぺらなモノにしか聞こえないのだ。確かに100曲ある全ての曲を聴き、本心から全てが最高だと思ったのなら、何の問題もない。だが「ある歌手の曲=最高」という脳内公式のもと、ただただ「全て最高!」と触れ回るのは酷く空虚だと感じないだろうか。
そして「盲信すること」だけが「ファンの生き様である」とは、どうしても思えないんだ。


いずれにしても、肯定的にしろ否定的にしろ何らかの先入観に強く縛られ、己の意思をそこに内在させないことは、自らの可能性を自らの手で閉じているにも等しい行為だとオレは思う。もちろん「先入観」そのものが、必ずしも悪いものではないだろう。だが時にはそれを見直すことも必要ではないかと、オレは強く感じるんだ。

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