何らかの議論が起こった際に、それを一気に終結へと導くマジック・ワードがある。それが「人それぞれ」という言葉だ。
ある人がAという意見を支持し、それに対して別の人がBという意見を支持する。そこで両者が話し合い、お互いの良点・悪点を探りつつA・Bどちらが理に適ったものかを判断する…あるいは2つの理論が混在した第3の答えを模索していく…それが、正しい議論の在り方だろう。
だがそういった議論を一瞬のうちに終焉させ刹那にて砕けよ! …と断ずる言葉。ソレが今回のテーマである「人それぞれ」である。
結局のところ自分の意見と「異なる意見を持つ人」が目の前に現れたとしても、その言葉さえあれば対応は至って簡単だ。「考え方は人それぞれですよ」と言ってしまえばそれまでであって、それ以上の議論を許さない。何しろGACだけに限らず、この世のあらゆる事柄に関して、その全てが「人それぞれ」なのは当然・必然だ。ロボットではない人間は、世界人口65億人の全員が「(どこかが似ていたとしても)それぞれ別々の考え方」をしているのは当たり前の話である。
極端なことを言えば「法律を守るか」「それとも守らないか」という考え方も、結局「人それぞれ」には違いないだろう。言ってしまえば、この世の全ては大いなる「人それぞれの集合体」で形成されていると評したところで決して過言ではない。そしてだからこそ、「考え方は人それぞれですよ」という言葉が絶対の力を持つ…いわば「無敵」であるワケだ。しかも更に無敵なのは、「人それぞれですよ」と言う事はまさに「大人の対応」であって、ソレに対して「人それぞれなんて認めねぇ!」と食って掛かる方がガキ…厨であると見なされることだろう。
その言葉を使えば議論は終了。挙げ句に反論も封じる特殊効果付き。こんな便利な言葉は、確かに誰だって使いたいと思うだろう。そもそもオレだって、場合によっては使うこともある。ブロックを叩いてそこからスターが出てきたら、そりゃ取りたい、取って無敵になりたいと思うのが人情だ。
もちろん常に「人それぞれですよ」という言葉で議論を受け流してきた人は、大学なんかでディスカッションの授業があったとき苦労することになるのだろうが…まぁ、そりゃ別の話か。ともかくオレとしても、別に「人それぞれ」という言葉自体が悪いものだとは決して思わない。どう考えても結論の出ない事柄というのも確かに存在し、その場合は「人それぞれ」こそが唯一絶対の答えとなるのだろう。だから、それはいいんだ。この言葉は社会の中で確かに必要なものであると、オレも意識している。だからオレがここで問題提起として挙げたいのは、言葉そのものに関してではなく…要するに、言葉の使い方に起因する話なのだ。
そもそも、オレは「人それぞれ」が無敵であると同時に、その言葉は「大人の対応」として用いられることが多い…と述べた。
「貴方と私は違う人間。故に、お互いその思考が違うのも当然。だからこそ、『人それぞれ』は至極当然」
そして、確かにその理屈は正しいだろう。矛盾もしていなければ、飛躍もしていない。また相手が自分と異なる意見を持っていたとしても、「オマエは間違いだ! 俺の方が正しいんだ!」と真っ向から食って掛かるわけでもなく、きちんと人それぞれ…つまり「そういう意見もありますね」と認めることで余裕も見せている。人の意見を蹴散らし、己を通すことしか考えられないガキんちょに比べれば、それは「大人の対応」かもしれない。
だが問題は「そこ」に含まれる意図と、使用における心構えだ。
何に関することでもいいが…自分が何か「意見を発した」とする。するとそれに賛同する声もあれば、当然ながら反対意見も出てくるハズだ。万人に受け入れられる意見などあり得ないので、賛成と反対が出てくるのは当然の話。だから、そこまではいい。
しかし自分と異なる意見に出会ったときに、毎回毎回「はいはい、人それぞれですね」と返すこと…それが本当に「大人の対応」なのだろうか?
自分の意見に賛同する人が現れたら「そうですよね! やっぱりアナタもそう思いますよね!!」と嬉々として返す。
対して反対意見に対しては、ひたすら「人それぞれですね」の一点張り。
オレはここに、どこか違和感を感じずにはいられないんだ。そして少なくとも言えることは、何らかの反対意見を受けた瞬間あたかも馬鹿のひとつ覚え・条件反射のように「人それぞれ」という言葉を持ち出すこと…それはこうも言い換えられる。すなわち「反対意見など聞く耳持たぬ」と。
要するに「人それぞれ」を「究極の建前」として用いる態度…それこそが何よりの間違いだと思うわけだ。
「お前の意見なんて知ったことか」「聞いてないんだよ」「俺に賛同する言葉だけ寄こせよ」「反対意見は帰れ帰れ」と。そういう内に秘めた本音を隠すため、建前として用いる言葉が「考え方は人それぞれですよww」だとしたら、それこそ「大人の対応」とは程遠い。いや…本音を隠した社交辞令全開という意味では、究極とも言える大人の対応か? …いずれにせよ、自分と異なる意見を全て無視する姿勢は「大人の対応」ということができたとしても、それが「大人の態度」とは思えないんだ。
「人それぞれ」は確かに便利であり、また悪い言葉でもなく、やはり必要に応じて使うべきものだろう。
だが「人それぞれ」を単なる「逃げるための手段」として乱用するのだとしたら、それは壮絶なる間違いと言う他にない。
「人によって、それぞれである」なんてことは、あまりにも常識過ぎる。だが常識過ぎるからこそ、使いどころもわきまえなくてはならない。
そして己が何か意見を述べたのなら、少なくとも「人の意見」を聞き流すこともしないこと。これが何より重要なのだろう。
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