22.厨

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以前の項でも少しだけ触れたが、そもそも「厨の定義」を考えるのは不可能ってくらいに難しい。もともとが抽象的な言葉のため「これが厨だ!」と妙な決め付けをする行為は、結局のところ「俺様が認めないモノは全部厨なんだよ!」という独善的・自己中心的な思想に直結することにもなりかねない。
顕著な例だと、ちょっと「『SEED』が好き」と言っただけで「種厨」認定をしたり、何か自分の意見に反論されたら「厨は帰れ」とわめいたり。要するに自分が気に食わないモノをなんでもかんでも「厨」に仕立て上げようとする風潮が、特に低年齢層には多い…ということだろうと思われる。

ともあれ、だからオレも「厨とは何か」についてここで論議するつもりはない。第一、この言葉はもともと「中二病」から派生したモノであって、つまりは「大人になる過程において、誰でも一度は通る道」を指しているわけだ。成長してまでその気質が抜けない…というのは確かに少々問題だとは思うが、しかし「厨」とはもともと(少なくとも言葉の発生初期は)「そこまで重い意味を持つ言葉」ではなく「中二くらいの頃って、こんなこと考えちゃうよね」とネタにして楽しむ程度のモノだったハズである。要するに、そこまで難しく考える必要もないんだ。
だからここでテーマにしたいのは「厨そのもの」ではなく、大人であっても気付かぬうちに陥ってしまう「厨の穴」に関してである。


さて。ともかくここでの主題は「厨」にあるとはいえ、今回のテーマはむしろ、本来の意味での厨…つまり10代前半の少年が陥るタイプの話ではない。逆にある程度成長した青年・大人…つまり「自分は、厨行動なんてしないよう努めている」という人だからこそ、無意識のうちにハマり込んでしまう。そういった系統の「厨行動や厨思想」について、論じていくことにする。
そして、そのキーとなるポイントは2つ。すなわち「自分の意見」というポイント、そして「思考の逆転」というポイント。その2点である。

そもそもだ。「自分の意見を持つ」という観点においては、大人だろうがガキだろうが大きな差異は無い。まず大人ならば当然、何かしら「自分の意見」は持っているだろう。対して子どもは子どもなりに至らぬ部分も多々あるにせよ、自己中心的な理論になっているにせよ、誰か他人の意見をパクっているにせよ…それらに目を瞑りさえすれば「とりあえず自分の意見は持っている」ハズだ。「どちらがより的確な理論か」はこの際考えないとした場合、大人も子どももそれぞれ「自分の意見や考え」は持っていて然るべきだろう。

つまり、ここで大人と子どもを分けるのは…言い換えるならば「厨じゃない」と「厨」を分けるのは、自分の意見をしっかり持っているか否か…ではない。要するに「自分の意見を持つ」なんてのは人間として至極当然のことであって、珍しさのカケラも無いだろう。つまり重要なのは、己が意見を持った上で「人の意見に聞く耳を持つ」ことなんだ。

これは何も、人の意見に軽々しく影響を受け、自分の考えをコロコロと変えることを奨励しているわけじゃない。だが人の意見を聞いた結果として自分の考えを見直すか否か…そこは別にしても、まずはきちんと「話を聞く」こと。それが最低限守るべきラインだと思うのである。
これは以前「人其々」の項でも述べたが、世の中には「人の意見を適当にスルーすること」が「大人の対応」だと勘違いしている人がなんとも多い。自分の考えと違う意見を目にしたとき、「アハハ、そうですねww」「そこは人それぞれですよねww」と一言で流す…あるいは「自分と違う意見を見つけても、全部笑ってスルーですよ。それが大人の対応っていうものです!」なんてことを、自慢げに語る輩までいるほどだ。

もちろん、場合によっては「その対応」が正しいこともある。だがそれは、あくまで「場合によって」だ。
少なくとも確かなのは、「自分と異なる意見はスルー」という態度。それは当然「聞く耳を持つ」とは言わない…ということだろう。


だがある意味では、それくらい可愛いものだとも言える。異なる意見は全部スルーし、自分と同じ意見にだけ食い付いて仲良しゴッコをする…そして、それが大人の対応だと思い込む。それは傍から見たら滑稽かもしれないが、逆に言えば誰に迷惑というわけでもない。むしろ本人としてはそうやって行動することが平和的で正しいと考えているのだろうから、「和」を重んじる日本人としてはそれがメジャーな態度だとも言える。
だから真に問題なのは、二つ目のポイント…「思考の逆転」に関する話だ。人迷惑にならない上記の事例とは異なり、これは大きな問題を生む…またそれに加えて、本人は「人の迷惑になっているとは考えていない」のがタチの悪い部分でもある。

これはつまり、大なり小なり誰でも持っている安易な「自己中心思考」が、妙な方向に影響した結果として発生する問題だ。これも以前「常識」の項で触れたことだが、簡単に言うと「自分の意見」をどこまで「世間に強いるか」ということ、そして「己が意見の逆説」を常に意識すること。そこが何より大事だと、オレは思うのである。

少しでも数学をかじった人には自明だろうが、「必要条件」と「十分条件」を学んでいく中で、このような例題をいくつも目にしてきたハズだ。
つまりは

「『それがAであれば、それは同時にBである』という命題が正しい場合でも、『それがBであれば、それは同時にAである』が正しいとは限らない」

という理屈である。簡単に例を出せば、「『ドラゴンクエスト』はゲームソフトの一種である」という命題が正しくとも「そこにゲームソフトがあれば、それは100%『ドラゴンクエスト』である」という命題が正しいとは限らない…ということだ。つまり何が言いたいかといえば、ある理屈が正しいとて、その逆もまた正しいとは限らない…ということなんだ。
そしてこれが、大人でも気付かないような落とし穴…理論と理論の挟間にある「厨の穴」を形成している部分であろう。

具体的な例を挙げよう。なんでもいいが…例えばある作品(ゲームやらアニメやら)のアンチが、ソレを散々に批判していたとする。
曰くアレはクソゲーであるとか、シナリオがクズでシステムがゴミでキャラがカスで……とか、まぁそんな感じで。
ここで、その批判を(その作品の)ファンが見かけて、気分を害した。だから、アンチとこんな会話をしたとしよう。

ファン「そんなこと言わないでくださいよ! 自分が好きな作品をそんな風に言われたら、誰だってイヤでしょう!?」
アンチ「いいえ。僕は自分が好きな作品を人に非難されても、特に何も感じません。だから、何を言っても良いんです」


…さて。ここでの問題は、アンチの台詞の中にある。解り易いように、その台詞を簡潔にしてみよう。すると、こうなる。

「僕は○○されても構わない。だから僕も○○をして構わない」

そしてこれは一見、確かに理に適っている。自分にはきちんと覚悟があるからやっているんだ、と宣言しているわけであり、またその態度の全てが間違っているわけでもないだろう。だが、何より重要なのはその「サジ加減」だ。何しろその理論を突き詰めていくと、そこには大きな問題が内包されていることに気付くから。

「自分がイヤなことは、人にもやるな」とは、確かにその通りだと思う。子どもが悪いことをしたときも、先生や親はこうやって叱ることが多いだろう。
ではここで問題だ。「自分がイヤなことは、人にもしてはいけない」は正しい。では「自分がイヤじゃないことは、人にして構わない」も、また正しいのだろうか? …そう、ここを見誤るのが大いなる間違いなのだ。

例えばオレは、こんな風刺話を聞いたことがある。

「『なんで人を殺しちゃいけないの?』と子どもに聞かれた。
 私は『君も殺されたらイヤでしょ? だから人も殺しちゃダメなんだよ』と教えた。
 すると子どもは答えた。
 『ボクは別に、いつ殺されてもいいよ。だから、ボクも好き勝手に殺していいんだよね!』と」

もちろん、殺人は法律に触れるから駄目…という別の回答もあるし、これは話が飛躍過ぎているかもしれない。
だがそれでも、この話は「自分の意見を通すこと」の延長線上に存在することは紛れもない事実である。

自分の意見をきちんと保持し、それに誇りを持つことは確かに重要なことだ。
だが何も考えず、ただただ我道を進めばいいわけじゃない。何を考え信じるにしろ、常に「その裏」を意識すること。それが何より大事だと思う。

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