自分の性格を、自分で言い表してみろ。…これは、なかなか難しい質問だと思う。だが同時に、それを考えるのはなかなかに面白い。
特に就職活動を始めるにあたっては、己に対する「自己分析」が一番最初のステップだ。だから若い人の場合、一度はそういう話について考えてみても損はしないだろう。
ともあれ、例えばオレ自身がオレ自身の性格を簡単に表すとすれば、こんな感じになる。
まずオレは、けっこうな「自信家」だ。そして「理屈屋」かつ「皮肉屋」。また「理想主義者」という面もあるが、基本的には「リアリスト(現実主義者)」である。
おっと、ついでに「負けず嫌い」という面も強いな。ともかくオレの「性格」というモノをいくつかの言葉で説明すれば、こんな感じになるだろうか。
だが当然ながら、「性格」と「才能」とは全くの別物だ。そして「自分の才能を説明すること」は、今オレがやったように「自分の性格を説明すること」以上に困難でもある。それは実質的に考えるのが難しいという意味もあるが、それ以前に「僕には○○の才能があるのさ!」なんて台詞を吐くこと…それ自体が、謙遜を美徳とする日本社会においてタブーに等しいからだ。そうでなくとも気が弱い人ならば、自己に対して過剰な予防線を張りたいと思うもの。これは以前にも話したことだが、自分ではどんなに自信があることでも「世界には、自分以上の人間が確実に存在する」という事実が確かである以上、軽々しく「僕にはこんな才能がある!」なんて言葉を口にはできないのだろう。「お前の才能なんて大したことねぇや!」と言われるのを恐れるあまりに。
ただ実際問題として、上記の話を理解していれば…すなわち「世界には、自分以上なんてたくさんいる」という事実をきちんと理解したうえで己の「自信」を表明することは、何も恐れるようなことではない。というより、そんなものをいちいち恐れ委縮しているようでは、とても人間社会で生きていくことなどできまい。
いずれにせよ今回のオマケでは、そんな人間の「才能」とオレとの身の上話を紹介しようと思う。
そもそもだ。こんなことを言うと、またオレの自信家たる性格が垣間見えそうではあるが…しかし実際問題として、実のところオレは「勉強ができる」タイプなんだ。
もちろんコレは「頭が良い」という意味ではない。というより、学校の成績やら何やらを心底「どうでもいい」としか考えていないオレにとって、「学校の成績が良い」ことと「頭が良い」ことを混同する考え方は忌み嫌うモノだ。いくら勉強ができたところで、馬鹿は馬鹿でしかない…そんなの今更言うまでもない、当然の話だろう。
だが少なくともオレは、そんな何の指標にもならぬ「学校の勉強」が、何故かできてしまう人間だったのは間違いない。そして「何故だか」というのは、本当に理由が不明だからだ。
というのも以前話した通り、学校の授業などオレにとっては「GACノート」の制作時間に過ぎず、また家に帰ればそれこそゲーム三昧で、予習・復習・宿題等々に一切時間は割かないオレだ。そしてこれは、中学以降の「中間試験」や「期末試験」の直前でも全く同じことだった。もっとも中学生時代は、テスト前だろうと関係なく仲間達と遊びまくるオレに業を煮やした母親が、「テスト1週間前は、友達と遊ぶの禁止!」なんていう御触れを出したりもしたものだ。だがそれはオレにとって、複数人で遊ぶことが常であり、いつもは満足にプレイ時間を確保できない1人用ゲーム(RPGやシミュRPG)を気兼ねなくプレイできるという一種の「静養期間」にしかならなかった。よくテスト前になると「ヤベェよ、テスト勉強とか全然やってねぇよ〜!」と触れ回ることで自己弁護を図りつつ、実は隠れて勉強してる…なんて輩が大量発生するものだが、オレはその「勉強とか全然やってない」という台詞を地で行なっていたわけだ。
もちろん口では「勉強してない」とか言っときながら「実は隠れて勉強」なんてセコい真似をするヤツだけでなく、オレと同様「本当にテストを無視して遊びまくり」というクラスメートだって何人もいた。だが彼らの場合はもともと「テストの点や成績なんて関係ねぇ」と思っているだけであって、だからこそテストが返ってくればその点数は低い。
とはいえオレも「テストの点なんてどうでもいい、関係ない」と思っていたという点では、彼らと共通している。だがオレのタチが悪かったところは、そうやって勉強はしていなくとも、何故かテストの点が良かったことだ。特に殆ど暗記を必要とせず理詰めで考えられる数学や国語の場合、中学・高校のレベルなら90…あるいは100点を取ることも決して珍しくはなかった。
もちろんオレにしたって授業を全く聞いていないのだから、社会など暗記系の科目まで無勉強で満点を取れるような超人じゃない。そりゃ中学のテストなど0点でも構わなかったので勉強はしなかったが、高校・大学では卒業に関わるのでそうもいかず「とりあえず60点(赤点)以下じゃなけりゃいいか」という目標は掲げたんだが…その目標がまたクセモノだ。これは頭の良し悪しというより、単純に暗記力が高いからだろう。暗記系科目に関しては、それこそ15分も教科書を眺めれば、確実に60〜70点は取れるだけの「データ量」を記憶することができた。(ただしこの方法は瞬間記憶力に頼っているので、テストが終わるとすぐに忘れてしまうのだが)
またこの態度は、受験が間近に迫っている頃でも全く変わらなかった。相も変わらず仲間と遊びまくるオレに対し、またも母親から「受験日の3か月前からは友達と遊ぶの禁止!」という御触れが発せられたが、当時はちょうど『DQ7』『FF9』『スパロボIMPACT』という3本もの「1人用ゲーム」にハマっていた時期だったのがタイミングバッチリだった。1人でしか遊べなくなったオレは、これ幸いと『DQ7』『FF9』ともにクリア…長編との呼び声高い『IMPACT』に至っては一気に2周プレイし、また『ティアサガ』のプレイ時間が1000を超えたのもこの時期(仲間と遊べない時期)があったおかげだ。もちろん、さすがのオレもコントローラーを片手に受験勉強もやっていたんだが、しかし「ゲーム時間>勉強時間」となっていたのは当然…というか、少なくとも「ゲーム」が「勉強」の10倍近くになっていたのは間違いない。
そんな適当な態度であったにも関わらず、学校には受かり…しかもオレにとっては「場所が近くて、通うのが楽」という理由で受験しただけのその大学は、どうやら「全国区で名前が知れ渡ってる」ってくらいの有名校だったらしい。オレが受験した頃はそんなに高くなかったが、近年は偏差値が70を超えたとかなんとか。
(ともあれ大学の名前に興味がなく、せいぜい「東大」くらいしか知らなかったオレは、その学校が有名だと入学後に知った。聞いた話によると、大学周辺に在住する都道府県民にとってはほぼ10割、日本全国でも6,7割の人が知っている大学だという。思えば、テレビにも時々名前が出てくる)
さて。ともあれオレがここで言いたいのは、「オレは努力しないでもこんなに勉強できるんだぜ! 凄いだろ!!」…なんて話ではない。そもそもオレ自身としては、テストの点なんて何の指標にもならないとしか思っていないし、あまつさえ「どの大学に入学した」なんてそれこそ論じる価値さえ無い話だと考えている。だから今回の話で、重要になるポイントはひとつだ。というより今回の話の裏には、ある隠された要素が存在しているからなんだ。
そう。オレは「テスト前も受験前も真面目に勉強しない」「どんなときでもゲームばかりやっている」…これは確かだ。だがその理由は、「オレは勉強しなくても良い点が取れるから」ではない。要するに結論から言うとすれば…つまりオレという人間は、心底「勉強ができない」人間なんだよ。
そりゃ「勉強が好き」という人間もいれば、「勉強が嫌い」という人間もいる。そして特に日本の学生は、学生であるにも関わらず「勉強が嫌い」というタイプが多い。だけど普通だったら、「嫌いだけど、テスト前なんかは勉強せざるを得ない。だからやる」とか「勉強したくないあまりに、ゲームに逃げてしまった。だから後から後悔する」とか、そういうパターンが多いと思う。
だけどオレは違うんだ。確かに「勉強は大嫌い」なんだが、それ以上にオレは、本当に「勉強ができない」んだ。…そう、実質的な意味で。
オレは勉強するにしても、一教科につき20分以上の勉強をすることはない。しかしそれはただ20分で事足りるから…が理由じゃないんだ。そもそも20分の勉強じゃ70点は取れても、それ以上の点数は望めない…だからもし「更に20分」勉強することで80点90点が取れるというのなら、オレもゲーム時間を少しは削って勉強したかもしれない。
…が、オレにはそれが「できない」んだ。そもそもオレには、机に座って教科書を開いて…と、そういう行動が本当に耐えられない体質を持っている。10分もそんなことをやっていると、本気で気分が悪くなってくるほどだ。そして机に座らずとも、とにかく「勉強」という行動に対する集中力・持続力が、オレには圧倒的に欠けているのは間違いない。冗談じゃなく「30分以上継続して勉強ができない神経」からこそ、どんな教科も一律20分程度の時間で手早く勉強を済まし、それで赤点を防ぐ…そういう超・効率的な学習法がいつの間にか身についてしまったわけだ。
つまり20分の勉強→2時間のゲーム→20分の勉強……と、本気でそれくらいのペースを必須とするくらいに、オレは勉強に取り組むための能力が欠けていた。
受験勉強にしたって、『スパロボIMPACT』をプレイしつつ全部の「戦闘デモ」をONにして、「ゲームをプレイしつつ戦闘デモ中に少しずつ勉強する」という強引な手段を採っていたことで、どうにか勉強に伴う心身への負担・気持ち悪さを軽減していた(その結果として『IMPACT』は2周クリアした)ほど。もはや「勉強嫌い」という度を超えて、我ながら異常体質だと思うくらいである。
だからこそ、オレは確かに「少し勉強はできた」のかもしれないが、「勉強の才能がある」とは口が裂けても言えない。
「才能がある」という言葉は、ただ「能力が高い」という意味だけではないと、オレは考えている。なぜなら、ひたすらソレに時間を費やせる…つまり「ソレに対する継続的・永続的な努力ができる」という要素があって、それは初めて「才能」と言えるのだと思うからだ。ゆえにちょっとばかし成績が良かったところで、「ソレに対する努力のできる能力」が無いオレは、「勉強の才能」が皆無だったと言える。そしてその事実はこれまでの人生の中で、痛いほど実感してきたことだ。
そりゃ小中学生の頃ならば、「全く勉強しないでも満点を取れる自分」に周囲から称賛の声が湧き、そんな自分に優越感を抱いていたこともあった。
だがそんな考えは、それこそガキの妄想にも等しい。「全く努力しないでも、人並みの結果が出せる」ことなど…実際には、誇る権利もなく価値すらない、薄っぺらな事実に他ならない。
「ソレに対する努力ができる」という大前提があって初めて、その「結果」にも価値が生まれる。過程を無視し結果の優劣のみで判断を下すことなど、意味を持たぬ行為だ。
そしてオレが失っているのは、なにも「勉強の才能」だけじゃないんだ。オレはこれまでその他様々な才能を「自分が持っていない」ことを、意識させられる場面に数多く出くわしてきた。
本当に「やるべきこと・やらなくてはいけないこと」であっても、努力のため時間を費やせない。だから「特にやる必要がないこと」に対してなど、カケラも時間を割けないのは必然だ。
しかし現在のオレは、それを悲観していない。なぜならそれらの才能を失った代償として「GACに関する才能」を受け取ったのだと、考えるようになったから。人には向き不向きがあり、そしてオレは勉強に不向きでGACに向いていた…ただそれだけの話ではないかと。
だからこそオレは、ひたすらGACに打ち込み、そしてその行動に対して常に誇りを持っているわけだ。信念も揺るがず、まして卑下することなど一切なく。
それがオレの才能ならば、オレはそれを、全霊を賭して守っていかなくてはならないから。
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