27.クソゲー

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もはや何度も口にしているため既に周知のことだとは思うが、とにかくオレは「クソゲー」という言葉を極度に嫌っている。
だがそれは、理由もなく「ただ単に嫌い」なんていうマヌケな話じゃない。そしてまた「ゲーマーたるもの、どんなゲームも嫌ってはならない!」なんていう大層な信念があるためでもない。
オレだって人間だ。そして人間たるもの、確実に「好き嫌い」は存在する。それに「全てのゲームを盲目的に信望すること」がゲーマーの生き様だとも思ってはいない。
だからオレにしたって、「自分が苦手に感じているゲーム」なんていくらでも存在するわけだ。しかしそれでも、オレが「クソゲー」という言葉を嫌う背景には、これまた複雑な心情が絡んでいたりする。…というわけで今回は、そんな「クソゲー」をテーマに据えた話をしよう。


さて、どこから話すべきか…。ともかくまず重要なのは、なんといってもこの言葉が持つ「抽象性」とでも言うか。これは以前の項でも少しだけ触れたが、そもそも「クソゲー」という言葉は、使用者の意図によってその意味を大きく変える言葉であることは間違いない。なにしろ普通だったら否定的な意味合いで用いられることが多いこの言葉だが、場合によって、あるいは人によっては肯定的な意味合いで使うことさえあるほど。つまり「クソゲー」と一口で言っても、そこに含まれる意味は千差万別であり…そこがまた事態を複雑にしている。
だが逆に言えば、個人個人が「自分はクソゲーという言葉を、こういう意味で用いている」という定義をきちんと提示したうえで話してくれれば、その問題はだいぶ緩和されるのだ。
もちろんオレは、このような言葉の用法は嫌いだ…が、その「嫌い」という感情を考慮に入れないとすれば、下記のような定義は「理に適っている」だろう。

つまり「自分が好きなゲームは名作。自分が嫌いなゲームはクソゲー」だという定義だ。

要するに「好き」の最上級に「名作」という言葉を据え、「嫌い」の最上級に「クソゲー」という言葉を据える…そういった定義付けである。
つまりは「ちょっと嫌いなゲーム→嫌いなゲーム→かなり嫌いなゲーム→クソゲー」の順で「主観による嫌い度」が増していく…というわけだ。
そして先に述べた通り、オレ個人的にはそういった用法は好きじゃないものの、それは単純に好みの問題だ。きちんと定義として「自分はこういう意味で、この言葉を使ってるんです」ということが理解できれば、オレもあえてそれを咎めようとは思わない。「オレはクソゲーという言葉が嫌い」とはいっても、それはもちろん「意味」に拠るわけで、「ク・ソ・ゲ・ー」という4つの音声が続けて発音されれば全てダメ! というワケじゃない。『幽白』の海藤とは違うんだぜ(笑)
だからオレが「この言葉を嫌うシチュエーション」というのは、すなわち「その意味がゲームそのものの良し悪しに直結する」ときである。


つまりだ。これは必ずしもクソゲー…つまり「否定的意味合いを持つ言葉」だけが対象ではなく、場合によっては名作という「肯定的意味合いを持つ言葉」にしても同じだが…。ともかくオレが嫌うのは、オレ達のような個人個人が「何らか(主に作品)の良し悪しを手前勝手に決め付ける」という態度である。オレはここに、どうにも違和感を感じずにはいられないんだ。
冒頭でも述べた通り、確かに人間たるもの作品の「好き嫌い」はあって然るべきだろう。しかしそれが「良い作品か悪い作品か」を、どうして我々に判断できるというのだろうか?

これは料理評論家の例を出せば、話が解り易くなるかもしれない。
ある料理評論家が何かの料理を食べ「これは最高だ!」と絶賛する。あるいは「何だこの不味い料理は!」と酷評する。
そのどちらでもいいが…仮にその料理評論家が、世界でも指折りの権威を持つ人物だったとしよう。するとその人が「美味しい」と言った料理には「美味しい料理である」という「属性」が付加され、その料理を食べて美味しいと感じなかった人は「舌が低級な人間」であることになるのか? 逆に評論家が「不味い」と言った料理は「不味い料理である」という烙印が押され、それを美味いと思った人は変なのだろうか?

もちろん違う。それは単に「とある料理評論家」という個人が「美味い・不味いと思っただけ」であり、言うまでもなく「完璧以上の主観」でしかない。
当然、実際にそれらの料理を食ったときに我々がどう感じるかは、個人個人によって十人十色であることは間違いないだろう。

ただ人間という生き物は…というよりこれは日本国民の特色なのだろうが、日本人は特にそういった「権威」に弱いものである。

「権威ある人が良いと言ったものは、きっと万人にとって良いものなんだ」
「ブランド物は、きっと素晴らしいものなんだ」
「値段が高いものは、きっと(安いものより)美味しいものなんだ」

そういったものを「常識」という物差しとして心に据え、少しでも疑おうという気持ちすら持たず、ひたすら盲信している。
そして「権威」「ブランド」「値段」といった客観的なモノでしか物事を判断せず、「自分の眼で実際に判断する」という心根を持たないがゆえ、安易な偽ブランドに易々と騙される。なにしろ彼らは、物をその見た目や形でしか判断していないのだから。
また本人ではなく周囲の人間にしても同じことだ。そのバッグが「どんな風に使い易いか」「どんな部分が他の商品に比べ優れているのか」を見るわけじゃなく、ただ「○○というブランドのバッグである」という部分にのみ着目・注目して、「まァ、スゴイわ!」「さぞ高かったんでしょう!」などと騒ぎ立てる。…なんてファルス(茶番)だ。

…例えばオレはマツタケを初めて食ったとき「なんだよ、この味の無い物体は。こんなもんに高い金を出して、馬鹿じゃないのか?」と心底思った。
親が頼んでいいと言ったので、寿司屋で初めて大トロを食ってみたときは「なんだこれは? 普通の赤身のが、コレの5倍は美味いんだが」と感じ、それから一切頼むことはなくなった。
世界三大珍味と持てはやされているキャビアを食ったことも一度だけあるが、「イクラの方が美味いだろコレは…」とゲンナリした。

もちろん、コレらを食って「おお、さすがに美味い!」と感じた人もたくさんいるのだろう。だが、その「さすがに」という部分が曲者だ。
自らの舌できちんと判断し、その結果「美味い」と判断したのならいい。だが値段やら世界三大云々やら…という事前情報による先入観が脳に影響し、実は大して美味くないものを「さすがに、噂通りの美味しさだ!」と錯覚することは、何かが薄っぺらい気がしてならない。
ただし、それは逆も言えることを忘れてはならない。例えばオレと同じく「物の値段と美味さなんて、比例するわけじゃない」と思っているからとて、その結果「世間で評判が高いもの」を全て「全然ダメだね」と過剰に断ずるのも、同じように問題だろう。それでは「世間で人気のあるものだけを標的にして、粗探しをしまくり批難の限りを尽くし、大衆の注目を浴びようと画策する」というどこぞのメディアと同等のレベルだ。

要するに食物に関して言えば、値段の高い安いなんて、所詮は「味」という観点に対し何の影響を与えているわけでもないだろう。高かろうが安かろうが、美味いものは美味いし、不味いものは不味い。だからマツタケも大トロもキャビアも全部嫌いなオレだって、別に「値段が高いものは、無条件に全部嫌い」なんてことはないんだ。例えばハーゲンダッツアイスクリーム。アレは確かに、値段に見合った美味さだと思うぞ(笑)

いずれにせよ、重要なのは情報に踊らされず、ただ自分自身の眼で手で心で物事を判断することだ。というよりこういった判断力が万人に備わっているならば、オレにしたって「クソゲー」というひとつの単語ごときに対して、ここまで目くじらを立てることもない。だが現状、人々がそんな判断力を(特に日本人は)持ち合わせているとはとても思えないんだ。
である以上、あたかもそれが「世間の総意」「万人にとっての定理」であるかのように作品をクソゲー呼ばわりしたり、売上を盾にして「主観的判断に無為な客観的要素を混入する」という矛盾した行動を取ったり…オレはそういった「なんでもかんでも、好き勝手やり放題」な現状に、どうにか警鐘を鳴らしたいと考えている。


最後に、以前テレビで聞いた外国人コメンテーターの話を紹介しよう。

「現在、世界で『○○能力検定』といったものが流行していますが、特に日本の方はソレを好んでいますね。
 例えばワインの能力検定がありますが、それで『1級』とか『2級』とかいう段位を与えられるというのは、つまりどういう意味なのでしょうか?
 簡単に言えば、それは『他人が美味しいと決めたものを、自分も美味しいと思っているか』『他人が不味いと決めたものを、自分も不味いと思っているか』を問われているんですよ。
 要するに、見知らぬ誰かが勝手に決めた『勝手な価値観』を真似して、無理やり『自分の価値観』にしようと頑張る…そういった作業が、ナントカ能力検定というモノなんです」

オレはこの話を聞き、なるほど的を射ていると思ったものだ。
物の「良し悪し」は、常にそういった「権威」が勝手に決め付けるものであって、その「権威」が黒と言えば黒、白と言えば白になるもの。だがオレは、そんな風潮もまた忌み嫌っている。
あまつさえ、我々個人が物の「良し悪し」を傲慢にも判定しようなどと、馬鹿馬鹿しいにも程があると思わないか。

人が何を好み、何を嫌うかは、それこそ千差万別だ。そしてそういった「人の趣向」に文句を付けることなど、厨の典型と言っても差支えまい。
だが「このゲームは色々と最悪すぎる。万人が認めるクソゲーだ」などという論調はどうなのだろう。つまりその人にとって「そのゲームを好きな人」は、もはや「万人」にさえ属さない…人間とさえ見なさないということなんだろうか? しかしそういう人間に限って、「クソなのはゲームだけであって、それを好きという人には何も文句無いですよww」なんて台詞をしゃあしゃあと言い放つ。…だが本当に、気付いていないのか。「これはゴミでクズで面白さの欠片も無い作品だ」と酷評をすれば、すなわちソレのファンは「そんなゴミクズを好きだという愚かな輩だ」と暗に嘲笑しているに他ならない。そしてそういう性根が垣間見える部分もまた、オレがこの言葉を嫌う要因でもある。

いずれにせよオレが嫌うのは、「クソゲー」という言葉そのものじゃない。その言葉を使う人間の考え方だ。
ある人は言った。「この世に悪があるとすれば…それは、人の心だ」と。おお、さすがモリスンさんだ…良いこと言ってるぜ!(笑)

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