28.肯定否定

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世の中には、あらゆるものに「肯定意見」と「否定意見」の両方がある。これは不変の定理だ。
人間の考え方はそれぞれが千差万別…ゆえに、どんなに素晴らしいものであっても「全ての人間がソレに肯定的」なんてことはあり得ない。
同様に、どんなに嫌われているものでも「全ての人間がソレに否定的」なんてこともあり得ない。
だから、個人個人が様々な「肯定と否定」の両意見を持っていることは当然のことであり、何を咎める必要もない。だがここで重要なのは、やはりそのバランスというか、物の加減だ。肯定否定はあって当然とはいっても、しかし「過度な批判」だけは、オレはどうにも見過ごすことができない。そしてそこには、ある大きな理由が存在するんだ。
よって今回は、そういった「肯定」と「否定」をテーマに据えて話を進めていくことにする。


そもそも日本国憲法の主軸…というより、現在は世界全体が「人類の平等」を主軸とした構造をしていることもあり、多くの人間もまた「平等」を大事にしたいと考えているハズだ。特権階級の人間は、必ずしもそうでないかもしれないが…しかし多くの平民は、やはり「平等」こそが何より大切だと思っているのだろう。
確かに「男女の平等」にしろ「白人と黒人の平等」にしろ、それらはとても大事なことに違いない。しかし、だからといって「全てが平等」と考える…というより「何も考えず、安易な平等主義に走る」ことが常に正しいとは限らないだろう。しかし(特に年若い人間は)時に「平等ならなんでもいい」という態度を取ることが多いんだ。それは恐らく「平等」という言葉を盾にすれば、常に「正義は我らにあり!」という有難いお題目が立つと考えているためだろう。そして、そこで重要になってくるのが「肯定」と「否定」の平等な扱いなんだ。

しかしながら、その考えは全てが間違っているわけでもない。「肯定意見ばかり言うのは、平等主義に反する。だから否定意見も言わなければ」という考え方は一見して理に適っているし、またそういった思考を持つことも重要であることは違いない。だが問題は、その「本質」を視野に入れないことにある。
そもそもだ。「肯定」と「否定」は対の存在であり、ゆえに平等である…と。この前提は、本当に正しいのだろうか? オレはそれを、とんでもない誤解だと考えている。
考えてみて欲しい。ある人に対して「貴方は素晴らしい人だ」「憧れています」という言葉を掛ければ、大抵の相手は嬉しい・喜ぶだろう。もちろん「褒め殺し」や「嫌味」ということもあるが、そういったものは所詮例外に過ぎない。だが逆に「お前はクソだ」「馬鹿じゃないか?」という言葉を掛けたり雑誌やネットで掲載したりすれば、当然ながら相手は怒るし、極端な場合は誹謗中傷・名誉棄損の罪で捕まることさえあるだろう。

上記の例は、もちろん極論に過ぎない。だがこれだけの例を見ても、とても「肯定」と「否定」が平等であるなど信じられまい。人が「好き」と言われれば殆どの場合は嬉しいし、「嫌い」と言われれば殆どの場合は悲しい。相反する感情を呼び起こすこれらの言葉が、そもそも「本質的に平等であるハズがない」んだ。それを平等と呼べるのは、面と向かって「カス野郎」「クズ野郎」と言われても、全く意に介さない強靭な精神力を持った人間だけの特権だろう。だからといって「22.厨」の項でも述べたように、「僕は○○されても構わない。だから僕も○○をして構わない」という理屈がまかり通るわけではないが。


もっとも、ここまでの話は「対象が人間」であるため、この理屈が必ずしも全てに共通するとは限らない。だがその程度は違うにせよ、対象が人ではなく物であれ、その本質は変わらないだろう。例えば「自分じゃない他人が対象」という意味で「ある歌手や芸能人を強く非難すること」は、何も「その芸能人個人がイヤな思いをする」だけで終わるわけじゃない。その芸能人が好きな多くのファン達も、彼・彼女に対する非難を目にすればイヤな気持ちになったり、また怒ったりするだろう。同様に自分の親友が責められていたら、自分もイヤな思いをするだろう。
要するに人がイヤな思いをするのは、ただ「自分が否定されたとき」だけが全てじゃないということだ。自分自身ではなく「自分の好きな人や物」が非難されても、同様にイヤな思いをしてしまうのが人間という生き物の厄介なトコロだ。

もちろんそういった他人の心に過度の気兼ねをしているようでは、もはやどんな些細な否定意見も言えないことになってしまう。だからこそ重要なのが、そのサジ加減なんだ。
きちんと「これこれこういう理由で、苦手だ」「こういう部分が、あまり好きになれなかった」という意見なら、そのファンであろうと納得もできるだろう。だが理由も言わず、ただひたすらクソクソ・ゴミゴミと非難するのは、もはや厨だとかそれ以前の問題だとオレは思う。


みんなが楽しく会食しているレストランで、「なんだよこの料理は、クソマズイじゃねぇか!!」と叫ぶ。
ある歌手のファンが集うコンサートで、「あの歌手なんてクズだよクズ!!」と叫ぶ。

仮に「肯定意見と否定意見が平等」であるとすれば、それらの行動も全く問題ないことになるだろう。
なにしろ、もしそれを周りが咎めたとしても「何怒ってるんですか? これはただ、ボク個人の意見を言っただけですよ! 気にしないでくださいよwww」で済まされるのだから。
ただ、もしソレは非常識な行動だと思ったとしても、今度はこういう反論もあるんじゃないか。
「周りが『ソレを好きな人』だらけの場所だから、『否定意見』を言うのはマナー違反。そうじゃない場所なら別にいいでしょ」と。

確かに、その意見も間違ってはいないだろう。だが問題はコレだ。つまり、「貴方はどこまで人を無視できるのか」という部分である。
仮に「売上も低く、ファンよりアンチの方が多そうな作品」があったとしよう。すると人は
「これなら好き勝手にクソクソ言っても平気だよな。ファンだってちょっとはいるかもしれないけど、そんな少数派なんて俺には関係ねぇしww勝手に怒ってろよww」
という思考回路を辿り、非難の限りを尽くすのだろうか。…しかしオレにはそういった態度が、どうにも我慢できないんだ。

たとえ「世間一般で不人気」という歌手や作品であっても、常に「それを好きな人・ファンはいるかもしれないんだ」ということを念頭に置いた言葉を発して欲しいとオレは思う。
否定意見はやめろと言っているわけじゃない。自分の意見を押し通したいあまりに、他人の心情を考えられない人間は、程度が低すぎるという事実を理解して欲しいんだ。

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