人間には、生きていく上で「最低限必要な行動」というものが存在する。
例えばその代表的なモノは、人が持つ三大(場合によっては五大)欲求だろう。「食欲」「睡眠欲」「排泄欲」「呼吸」に関しては、いずれもその欲求を満たそうとしなかった場合、健康に多大な悪影響を与え…それでも禁欲を続ければ命を落とすことになる。「呼吸」を止めればどうなるか…というのが顕著な例だ。
(余談だが五大欲求の残りひとつである「性欲」に関しては「我慢すると身体に良くない」などと言われることもあるが、実際には生理的・健康的問題は無いという)
ともあれ上記の通り「食」「睡眠」「排泄」「呼吸」というのは、人間が生きていく上で最低限必要な…つまり「面倒だからいいや」と捨て去ることはできない部分である。もちろんソレに費やす時間を「短く抑える」ことは可能で、例えばオレなんかは人より食欲・睡眠欲が希薄なため、時間が勿体無いと思って食事・睡眠共にだいぶ手短に済ます努力はしているのだが…しかしそれでも、どう足掻いても限界はある。
だからオレにしたって、どんなに面倒でも「1日1食」は食べるようにしている。(大抵は1食+間食だ)
また睡眠時間が勿体ないとゲームのために徹夜をしても、しかし結局は、その分のツケが後に回ってくる。延々と眠らず過ごすなど、どだい無理な話だ。
つまり食事にしろ睡眠にしろ、少なく抑えられても「最低限」は必要ってことだ。要は1日に24時間が用意されているにせよ、我々が自由に使えるのは、そこから食事・睡眠等の時間を除いた…精々が18時間といったところ。もっともコレは「ただ心臓を動かすために必要な時間」を除いただけの話であり、実際には学校や会社など、ここから更に「準必須時間」が差し引かれることになるだろう。
もちろん学校や会社に行かなくたって、別にすぐさま死ぬわけじゃない。収入が無くなったら生きていけないとは言うが、日本というのは便利な国で、生活保護法により誰でも「人として最低限度の生活」はできるというお題目は立っている(ただしホームレスの存在を考えても解る通り、実状は少々異なる)。しかし仮に生活保護を受けられたにせよ、結局それは様々な制約を受け…結果的に「学校や会社に行くことにより、削られてしまう自由時間」以上にフリーな時間を取れないことになる。
これではまさに本末転倒…ゆえに、結局のところ「自由な時間を削って、学校や会社へ出向くこと」もまた、五大欲求に次ぐ「準・最低限必要な行動」であるのだろう。
さて…ともあれ、ここまでは前書きだ。
要するに今回の話で最も重要な部分とはどこか…それはすなわち、人がそれぞれ持つ「日常」についてである。
もちろん極端に仕事が忙しい人に関してはこの限りではないが、人間共通で持つ24時間という単位から「食事」「睡眠」「学校」「仕事」といった必要最低限の行動を抜く…すると残るのは平日で5時間、休日で15時間というところだろうか? ともかくこの時間の絶対量に個人差はあるにせよ、少なくとも以下の定理だけは正しいことだろう。
つまり人は皆「その残った時間から、あらゆる行動を取捨選択しながら生きている」のだと。例えば「5時間」という自由時間がそこにあったとき、何時間を趣味に割き、何時間を勉強に割き、何時間を部活や習い事に割くのか…それは全て、個人個人の意思とサジ加減「のみ」により決定されているのだ。あれもしたい、これもしたい…といくら欲張ってみたところで、人の持つ時間はどうしようもなく有限であり、だからこそ望む望まないに関わらず、人は常に「何かの行動を選択する」と同時に「他の全ての行動を捨てている」のである。
もちろん、限られた時間をどうにか最大限利用するための手法…というより悪足掻きも存在しないわけじゃない。これが俗に言う「ながら族」(1958年の流行語)の行動パターンであり、「○○をしながら××もする」ことで見掛け上の行動力を2倍にまで高めている。だが当然ソレにも限界がある…つまり4個も5個も同時に行動はできないし、そもそも行動数が増える分「各個の能率」は低下して然るべきだから。
要するに、結局我々人間は、「これから○○という行動(「ながら」も含め)をしよう!」と考えそれを実行に移した瞬間から、他に自分が選択し得るあらゆる行動…それこそ数千万個・数億個の行動パターン全てを犠牲にしているのだ。例えば「ちょっと昼寝する」「なんとなくボーッとテレビを見る」といった一見無意味に見える行動にしろ、「その行動のために他の全てを犠牲にしている」という意味では、他のいかなる素晴らしい行動と何も変わらない。そしてだからこそ、オレはそういった思考…つまり己が「何を」「どこまで」犠牲にして、その結果「どんな」行動を選び取るかという思考が、人が生きる上で何より重要だと考えている。
「そんな難しく考えないでよォ、テキトーにやろうぜぇ〜!」というのも、もちろんいいだろう。だが人間の「行動」には無駄があっても、人間の「時間」には一切無駄は存在しないのだ。どんな行動…それこそ「何もしないでボーッと佇む」という行動であっても、その瞬間でさえ「一分一秒が、人生の有限時間から刻一刻と削り取られている」ことを、きちんと意識するのは決して考えすぎな思考ではない。
そしてそういった意識を常々持っていることが、オレという人間の極めて特殊な…そして極めて偏った日常の行動パターンを形成しているに他ならない。
例えばオレは、冠婚葬祭を犠牲にしている。クリスマス、誕生日、大晦日に元旦。そういう行事に踊らされ、ゲームやアニメのための「自由時間」を削ることは、自分で自分を許せないから。
あるいは期末テストや受験…そういったモノが迫っても、限りなく勉強時間をゼロに近付け、普段と同様のゲーム時間を確保する。それもまた「何を」「どこまで」犠牲にするかというサジ加減を、己が信念として堅持しているからこその行動だ。「勉強はイヤだ…」と安易にゲームへと逃げ、その結果「俺は何やってるんだぁ!」と後悔する輩など腐るほどいるが…本来我々が見せるべきは、そんな見苦しい姿じゃない。「勉強」と「ゲーム(趣味)」を秤にかけ、その結果「ゲームを取る」ことをきちんと選んだのなら、その行為を後から後悔するなど愚の骨頂である。
人間関係、学校や仕事場での付き合い、様々な行事、家族との旅行…。心を己から切り離し、客観的に世界を眺めれば…身の回りにあるあらゆるものが、全て「取捨選択」の渦中に存在していることがきっと理解できるハズだ。友情か、家庭か、世間評か、趣味か、自分か、他人か、社交辞令か、本音か。自分は何を取り、何を捨てるのか。それをきちんと考えた上で、決して後悔しない生き方をする。それがオレの日常における指標…転じて、人生における指標である。
オレはこれまで、人からカラオケに誘われてもその殆どを断ってきた。だから人生20余年のうちカラオケに行ったのは、今日まで計3回だ。
またオレは、飲み会に誘われても殆ど全てを欠席してきた。だから人生20余年のうち飲み会に参加したのは、今日まで計1回だ。
あるいは同窓会・成人式・結婚式の出席数や…そして幼少時、家族に連れ出されたものを除けば、旅行に出掛けた回数なんかは計0回である。
その他諸々…きっと「20余年も生きてるのに、こんな経験も無いの!?」などと言われそうなモノを、オレは色々と持っている…そういう自信なら満々にあるぞ(笑)
ともあれオレは、それらの行動と自分の趣味(=GAC)とを、常に秤に掛けているんだ。「面倒だけど、今回くらいは参加してもいいか…」という、そんな心境にさえなれない。だからオレは、周囲から「空気読め」だとか「付き合い悪い」だとか…確実にそんな風に思われているだろう。…だがオレは、それで構わない。オレはそういった周囲の評価を犠牲にしてでも、出たくもない飲み会等で己の時間を無駄にするよりは、ひたすら自分の趣味に打ち込みたい…そう考えているからだ。
要するに、ここで「世間評」と「趣味」とを両立させよう! なんて欲張った考えを持つのが一番うまくない。結局何かを捨てなければ、本気の何かを手に入れることはできないのだから。
人は「自分が手に入れたいもの」を挙げることなら簡単なんだ。「ゲーム時間を満足に取りたい!」とか「いっぱいスポーツがしたい!」だとか、そういった欲望を叫ぶことならば。
だが同時に我々は「では、そのために何を捨てるのか・何を犠牲にしても良いのか」を常に考え、実際にソレを捨て去るだけの覚悟を常に持っていなければならない。
口先だけの信念など、張り子の虎に等しい。欲望と犠牲はコインの表裏…成功の裏には努力という「時間の犠牲」が必要で、欲望の裏には「何かをかなぐり捨てる覚悟」が必要なんだ。
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