さて…今回の企画「ゲーマーの信条」も、いよいよ最終話に突入だ。というわけで終幕は、タイトルの通り「情熱」をテーマに据えた話をしよう。
最終回ということで、少々文章も長めになるが、もし貴方が暇だったらついてきて欲しい(笑)
と言いつついきなり余談になるが、以前にも話したようにオレは極度の勉強嫌いであり、国・数・英・社・理など歯牙にもかけない。だが大学に入学後、人生で初めて「興味を抱けた」と言っても構わない学問に出会えた。それこそが心理学…そして、哲学である。特に後者は、物事の本質を捉える能力を培わせてくれるようで、随分と脳の活性化をもたらしてくれた。
なにしろ物事を哲学的に考える思考が身に付けば、それは「あらゆる考え方」に影響を及ぼすからだ。それこそ、子どもが安易に口にする「これが俺の理論!」「僕は○○だと思います!」なんて話に対し、どれもこれも理論的・哲学的反証が可能になるほどに。(当然「安易ゆえ、そこに錯誤があれば」という前提あっての話だが)
例えばオレは「21.ゲーマー」や「25.格(後編)」でも述べたように、趣味人としての格、あるいは「ゲーマー」のような称号に関して重要なのはプレイソフト数や技量ではないという持論を述べた。ではなぜ、それらの要素は重要じゃないのか? …それは「砂山のパラドックス」を参考にすることで、解決できる問題なのだ。
ここで「砂山のパラドックス」を簡単に説明しよう。
A.ここに(膨大な数の砂粒が集まって形成された)砂山がある。
B.その砂山から1粒の砂を取り除いても、それは未だ「砂山」のままである。
C.上記AとBはいずれも正しい(真である)。
D.しかしBを(数万回)繰り返せば、最終的に砂は1粒になる。だがBの定義が正しい以上、残り1粒になってもそれは依然として「砂山」のままである。
(これは概念を説明しているだけで、実際の問題とは少し話がズレている。興味があれば自分で調べて欲しい。Wikipediaにも詳細が載っている)
別のもので例えれば、ここに打率4割の凄まじいバッターがいたとする。その打率から1厘を除き、打率.399になっても、彼は依然として凄まじいバッターである。
しかしそれを繰り返し、その打率が.250になったら、もはや彼は「凄まじいバッター」ではない。ではどの時点で、彼は「凄まじいバッター」でなくなったのだろうか? という問題だ。
さて。その場合「砂山」にしろ「バッター」の例にしろ、誰でも考える安易な解決法がある。それは「砂山」や「凄まじいバッター」という言葉について、「○○以上」という絶対的な数値を設定することである。例えば「.380以上の打率だと、凄まじいバッターである」という定義を作り出すことだ。
ただしこの解決策は、見掛け上の数値設定をしただけで、問題の本質を誤魔化しているに過ぎない。なぜなら打率「.379999」と「.380000」は、殆ど同一のものだからだ。
この部分が、先に述べた「ゲーマーの定義や格」という話にも影響している。つまり「ゲームを何作プレイした」「ゲームの技量が(一定以上)高い」など、そういうことをゲーマーか否かの条件に設定することは、常に「砂山のパラドックス」と同様の問題をその内に抱えることになる。その事実を、我々は忘れてはならないだろう。
「ゲームを100作プレイすればゲーマー」「99作ではゲーマーではない」というのは、つまり「ゲームを3作プレイすればゲーマー」「2作ではゲーマーではない」という論調…その数値設定をほんの僅かズラしたというだけに過ぎない。「凄いプレイができる」「凄い知識がある」という言葉にしろ、何が「凄い」で、どこ以下が「凄くない」のかは一切不明だ。
もちろんそういう意味ではオレの持論である「熱意が最重要」にせよ、その「熱意の量」を数値として測定することなどできない。ゆえに本質的にはソレを基準とすることも誤りである。だからオレは「熱意が一定以上=ゲーマー」ではなく「熱意の高低が趣味人としての格と正比例している(=熱意値の如何を問うわけではない)」という理論を持っているわけだが。
しかしそれでもなお…つまりオレの掲げる「熱意」という要素であれ厳密・本質的な指標にはならぬという事実を踏まえてもなお、オレはやはり、我々が保持すべき最大の「趣味人としての意識」はやはり「熱意」であり…そしてまた、今回のテーマである「情熱」でもある…という、そのスタンスを崩してはいない。なぜならばその部分にこそ「自分がそれを好きだという心」…すなわち己の「好き度」とでも呼ぶべきファクターを、如実に反映している最大のポイントだと考えているためだ。
例えば自分の趣味(ゲーマーならば「ゲーム」)を好きだと思う心、あるいは好きな作品に対する心、あるいは好きなキャラに対する心。
もちろんGACに限らず、人には誰しも「自分が好きなモノ」は存在する。だが一口に「好き」と言っても、その「好きの質・量」がどの程度であるかなど言葉では説明できない。また前述の通り、いくらソレに詳しくとも…例えばゲーマーなら何百作もゲームをプレイしていたとしても、それすなわち「ゲームに対する好き度が高い」ことを明確に示すわけではない。
だからこそオレは、その「指標の置けぬ場所に置く指標」として、先に述べた「熱意」や「情熱」を掲げたいと考えているのだ。
そう。仮に、自分の趣味を馬鹿にされる。自分の好きな作品を馬鹿にされる。自分の好きなキャラを馬鹿にされる。
しかしそんなときでも、貴方は「ボクはそんなの、全然気にしませんよww」「そういうのは、やっぱり人それぞれですからね(笑)」などと言いながら、ヘラヘラ笑っていられるのか?
…ふむ、確かにその態度は正しい。自分が好きなモノを馬鹿にされても怒らず笑っていられるとは、なんとも素晴らしく崇高な「大人の対応」だ。オレにゃ、とてもじゃないが真似できない。
では、なぜ真似できないか?
理由その1:オレは我慢強くないから。理由その2:オレは安易な大人の対応が嫌いだから。
そして最も重要な理由その3:自分が好きなモノを馬鹿にされたときにも怒れないようなヤツは、所詮「その程度の人間」でしかないと思っているから。
例えば今から半年ほど前…ZARDのボーカリスト・坂井泉水さんが脳挫傷で亡くなったというニュースが、世間を震撼させたことは記憶に新しい。
ではその坂井さんに対し、あれこれ暴言を吐き、彼女を馬鹿にするような言葉を言い放つ…そんな輩が現れたらどうだ? それでも坂井さん…あるいはZARDファンの方々は、「アハハ、それは人それぞれですよねww」と笑っていられるのだろうか? というよりそうやってヘラヘラ笑っていることが、彼女のファンとして正しい対応なのだろうか?
もちろん、その答えの如何は解らない。だが少なくともオレは、そこで「怒れないような人間」は、所詮「大したファンではない」という考えを持っているわけだ。
とはいえソレに対しては「怒る・怒らない以前に、死者を冒涜するのは倫理に反する」という反論もあるだろう。確かにソレは間違っていない。
だがこんなことはわざわざ説明する手間も惜しいが、ここで坂井さんを例に出したことに他意は無い。芸能関係に疎いオレだからこそ、大きなニュースになった彼女くらいしか、すぐに思い浮かぶ名前が無かったというだけの話。ゆえに亡くなった方が駄目だと言うのなら、いくらでも存命中の方に論点を移して構わない。しかし、それで大筋に変化はあるとでも?
「亡くなった人を悪く言うのは駄目、だけど生きている人を悪く言うのは『人それぞれ』だからOK」だと…それが世間で有名な「大人の対応」というヤツなのか。
それこそ本質的な部分を考えれば、ある(自分の好きな)芸能人を悪く言われても気にしないというのであれば、それは転じて自分の家族や恋人が誹謗中傷を受けても気にしない…それと同等の話である。更に転じて「自分自身が人から罵られても」不快感を覚えないという思考の延長線上にもある。つまり、それほど奇特な人間であるという証明にもなろう。
(もちろんここで言う「非難」だとか「中傷」というのは「理由の供述や言葉の使い方さえ解っていない、頭の悪いもの」という前提あってのものだが)
だが上記の論は、その前提条件さえ変化させれば、あっさりと辻褄が合う話でもある。まずオレの論述を簡易化すれば、下記のようになるだろう。
「人は通常、非難を受ければ憤りや悲しみを覚える→家族や恋人が非難を受けても、憤りや悲しみを覚える→にも関わらず、好きな芸能人が非難されても怒らない」
ここに矛盾があると述べているわけだ。もちろん、これはあくまで「こういう人々も存在する」という指摘であって一般論ではないが、同時に「誰か、何かを平然と非難できる」人間は、ほぼ上記のような思考回路を辿っているのは明らかだ。すなわち「芸能人くらい非難しても、誰も文句を言ったりしないだろう」という前提条件があるからこそ、その人は軽々しく物事(この場合は芸能人)を非難できるのだから。
それこそ「自分が好きな芸能人を非難されれば嫌だなぁ」という意識がある人間は、自分もまた、他の芸能人を非難したりはしないだろう。というより「自分だけは非難してもOK」なんて考えている輩がいるとすれば、それはただ単に厨というだけのことであり、ここでわざわざ論じる必要もない。しかしだからこそ、そこに矛盾が生まれるのだ。
だが先にも述べたように、実のところ、その矛盾を解決することは簡単なのだ。以下のABCDEで、それは簡潔に説明できるから。
A.自分自身や家族・恋人など、自分にとって大切なモノを非難されれば、人は憤り、悲しむである。
B.しかし「好きな芸能人を非難されても、気にしない・怒らない」(=だから自分も、嫌いな芸能人を自由に非難する)という。だがそれはAと矛盾している。
C.この矛盾を解決するのは簡単である。つまり本人は「好きな芸能人を非難されても気にしない」とは言うが、その部分が間違っているだけだ。
D.つまり彼・彼女にとっての「好きな芸能人」とは、そんなに大した存在じゃないのだ。口先で「好き」と言っているだけで、本心としては別に「知ったこっちゃない」のだろう。
E.自分の好きな(と口先で言っている)芸能人を「非難されても痛くない」のだから、自分が非難することも気に留めないというだけ。これで矛盾は解決される。
簡単にまとめてしまえば、こういうことだ。
「ある人が、他人の趣味を馬鹿にする→なぜならば、自分の趣味を馬鹿にされることも構わないと思っているから→つまりその人にとって、自分の趣味など大したモノじゃないってこと」
「ある人が、ある作品を馬鹿にする→なぜならば、自分が好きな作品を馬鹿にされることも構わないから→つまりその人にとって、好きな作品など『言うほど好き』じゃないってこと」
どうだろう? 考えてみれば、いとも簡単な理屈じゃないか?
そしてまた、その理屈は「実はきちんと筋が通っている」ことも理解できるだろう。もちろん以前「22.厨」の項でも述べたように「自分がやられても構わないものは、人にやっても構わない」という考え方は、度が過ぎれば大問題であることも間違いない。だが上記の理屈を客観的に眺めてみると、それは決して「自己矛盾」を引き起こしてはいないのだ。
なにしろ「その人の価値観」は、自分も含め自分の周りが全て「そういうもの(趣味なり作品なり)」を馬鹿にしても大した問題ではない…という、そういった前提のもとで話をしている。「こんなことくらい言っても、誰も怒らないだろう。だって俺は怒らないし」と考えているからこそ、気兼ねなく批判ができる。確かに「矛盾はしていない」。
さて…勘の良い人なら、そろそろオレが「最も述べたい部分は何処か」という話に気付いたのではないだろうか。
そうとも、オレは何も「批判や非難はするな! どんな小さなことでもオレは許さんぞ!!」なんて、そんなアホくさいことを言いたいわけじゃないんだ。オレは確かに「批判」そのものが嫌いではあるが、それこそオレ個人の「好み」の話であって、今回のコレとは関係ない。でもそこに問題がないとしたら、オレは何を言わんとしているのか?
…その答えは簡単だ。
そもそも我々はなぜ、肉体的・精神的問わず「人」を傷付けることには抵抗を示し、例えばニュースで凄惨なイジメ・暴力事件を目にした際に憤りを覚えるのか?
にも関わらず「物が盗まれた」「作品を冒涜した」等の話に対しては、そこまでの感情を喚起されないのか?
それが「人間」であるならば、生きている人ではなく既に亡くなった「死者」でさえも、それを冒涜することを善しとしない…そんなにも慈悲深い人間という生き物なのに、なぜ「物」や「作品」は易々と傷付け貶められるのか? それはただ、人を傷付ければ傷害・名誉棄損になるが、物を壊すのは器物損壊にしかならないから…という、法律上の理由だけが全てなのか?
いや、違う。我々はただ、理由なく「人間」を特別扱いしたいだけなんだ。いついかなるときも「人間が最上である」と、どうにか弁護をしたいだけなんだ。そしてその理由は簡単だ。なぜなら我々は、どうしようもなく「人間」であって、他の何でもない。ゆえに誰でも我が身が可愛いことと同様にして、「人間そのもの」も可愛いんだ。だからこそ、いつでも「人命は何よりも大事です!」「人間の権利を守ることが、何よりも重要なのです!」という大言壮語を語ってやまない。…なるほど人命が第一か。確かに大筋は間違っていないかもな。
だがオレは、そんな言葉で自分を誤魔化す気など、更々無い。そしてまた、何よりオレ自身が知っている。オレは別に「無条件で人間が最上だ」などと、カケラも思っていないということを。
オレは自分で、自分の心を理解している。確かに家族や友人は大事だ。だがそれ以外の…例えばこれまで二言三言しか会話したことのないクラスメートなど、オレにとってどれほど大事だというのか? もちろん規範的な人間なら、そこで「そういう人でもやっぱり大事です!」と答えるのだろう。だがオレは、そんなこと微塵も考えはしない。
…だからこそオレは、そんな「大して接点も無い相手」と「ゲーム」とを比べたら、迷わず「ゲームが大事」と答えるだろう。そして同時に、その相手…つまり「オレと接点が無い相手」の立場から見た場合は「オレという個人」もまた、所詮は「その程度の存在」であることも十分に理解している。仮にその人が、野球が三度の飯より好きな「野球バカ」だとしたら。「オレ」と「野球」を比べたとき、その人は間違いなく「野球」を取るであろう…と。そんなことは、わざわざ考えずとも理解できる…至極当然の話なのだ。「人間が一番大事!」と綺麗なお題目を叫ぶのもいいが、それは聖人君主や国家が叫ぶべきことであって、我々「個人個人の尺度」から言えば、別に人間など大して大事じゃないのが本音である。真に大事なのは「自分」と精々「その周りの数十人」だけであって、他の人間など「今日のおやつに食べようとしている、好物のシュークリーム」にさえ大切さの劣る存在だろう。それが真理ではないのか。
さて…それではいよいよ、結論を述べよう。
つまり人は、表面上は「人間」が何より大事だと言っている…と同時に、それが「一般論」でもある。つまり、いくら大事なものであっても「人」と「物」を天秤に掛けるような行為を目にすれば、すぐさま「人でなし!」と叫ぶ生き物だ。だがオレは、そんな考えを全く支持してはいない。人間にとって「自分が大事な物の順序」など、それこそ千差万別なのだから。
家族を好きだと思う気持ち。
恋人や友人を好きだと思う気持ち。
飼っているペットを好きだと思う気持ち。
自分の趣味を好きだと思う気持ち。
ある作品を好きだと思う気持ち。
あるキャラを好きだと思う気持ち。
それらは全て、まったく同じ意味を持つ…少なくとも、全てが同一線上にあると言っていい。時折「3次元への好きさは、2次元への好きさとは別物!」などと、それらが持つ属性を明確に区別しようと躍起になる人を見掛けるが、そんな考えはハナから的外れではないか。なぜならソレらは、少しばかり定義が異なるに過ぎず、あえて区分する必要などどこにも無いのだから。ただ「好きか嫌いか」という基準の中においては、人だろうが作品だろうがキャラだろうが、最初から質は同じ。ただ現状の一般論では、順位付けをした際「人」を上位に、そして「作品」や「キャラ」を下位に据える人が多い…というだけの話なのだ。
「好きさ」という一本の基準において、何が最も好きで、何が2番目に好きで、何が3番目に好きなのか。そう考えれば、自分の心も他人の心も、違う形で見えてくるハズだ。
「作品やキャラを(メチャクチャに)非難しても、それくらいで怒る人はいないだろう」と考えるのは、ただその人やその人の周囲が「作品」「キャラ」というファクターを「好きさ基準」の下層に置いているからそう思う…というだけの話であり、簡単に言えば「自分はソレに対して(実は)大した情熱が無いから、そうやって易々と非難ができる」ということ。
だからこそオレは冒頭で述べた。「情熱」こそが何より大事なのだと。
「自分が好きなモノに対してさえ熱くなれない人間」は「薄っぺらい人間である」と。これはオレの持論だ。
自分が「一番好き」という趣味や作品に対してさえも情熱を持てずして、他の何に対して熱意を抱けるというのか?
己が心から「熱くなれるもの」を、貴方は持っているだろうか。
……オレは、持ってる。
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