我が国においては「謙遜」が何よりの美徳とされ、「自信家」は基本的に疎まれる傾向にある。そして、かく言うオレ自身が自信家であるため、その社会通念は身に染みてよく解っているつもりだ。たとえ自分自身は「これは、なかなか頑張ったぞ!」と思っていても、対外的には「全然駄目ですね」「こんなの普通ですよ」と言わなければならない。それが、この社会の基本形であるわけだ。
もちろんオレは、そういった「日本の社会通念」そのものを批判しようとは思わない。長年の歴史から培われてきた「謙遜が美徳される世の中」は、どうしようもなく「そういう世の中」であって、文句を言うべきポイントではない。また、オレにその資格もない。
社会のマナーが「謙遜すること」であるとすれば、それに従うのが日本の理であって、オレのような自信家こそが「問題児」「異端児」であることに他ならないだろう。そして、それは別に構わないんだ。
だがオレは、時に過剰ともいえる「謙遜の態度」が、我々が本来最低限持つべき「基本的な自信」さえも奪い去っているような気がしてならない。
オレはよく、こんな台詞を耳にする。そして皆も、こんな台詞を聞いたことが…あるいは何度か、自分で言ったこともあるかもしれない。
「俺はこのアニメの、かなり熱心なファンなんだ。まぁ他の人に比べると、そうでもないかもしれないけど…」
「自分的には、けっこう頑張ったつもりなんですよ。あ、でも全然下手なんですけどww」
「僕は相当、このゲームやり込みましたよ! 大したことはないんですけどね(笑)」
上記のような台詞は、別にゲームやらアニメやらに関わらず、あらゆる場面で聞くことができる。そしてまた、これらの言葉が本心であれ…それこそただの「謙遜」であれ、そこは問題じゃないんだ。要するに何が言いたいか。それはつまり、そもそもこの世に「大したことがあるもの」自体が、そうそう存在するものじゃないということである。
またそれ以前に、彼・彼女らは本当に「微塵も誇る気持ちがない」のか…そこが疑問だ。いや、むしろそんなことは考えられないだろう。わざわざ具体例まで出したうえ「私は、こんなにも大したことがない人間なんです。人に比べて、こんなにも劣る人間なんです」ということを、大々的に触れ回りたい人間などいまい。少なくとも、僅かであれ誇る気持ち…要するに「自信」はあるハズなんだ。それならなぜ、彼らは自分が熱心なファンであったり、頑張ったことをこれ見よがしに述べつつも、「でも、全然ダメ」という加筆を常に行なわなければならないのか?
もちろん、一番の答えは「謙遜することが日本の美徳とされているから」だろう。しかしその裏には、意識的にせよ無意識的にせよ、もうひとつの心理が働いているとオレは考える。すなわち謙遜をせずに「こんなに頑張ったんだ、凄いだろう!」と触れ回った結果、「そんなの大したことないだろ」と言われるのが怖いのではないか。その点、自分で最初から「大したことない」と言っておけば安全だ。それで人から「いや、十分凄いですよ!」と褒められれば嬉しいし、逆に「確かに大したことないです」と言われても「いや、自分でそう言ってるでしょ(笑)」と返せる。確かに予防線の張り方としては完璧だ。例えるならばテスト前に、(実は勉強しているのにも関わらず)「全然勉強やってないよ〜」とやけに触れ回る輩、それと同じなのだろう。
(それで良い点を取れば「勉強してないのに、凄いねお前!」となり、悪い点だったら「勉強してなかったから、当然だよな(笑)」と言えるから)
もちろん、そういう予防線を張りたくなる気持ちは理解できる。誰だって「自分って、ちょっと凄い!」と思ってるところを「いや凄くないから」と言われれば嫌だし、それを避けたいと思うのも当然だ。だが、よく考えて欲しい。本心にせよ謙遜にせよ、いつもいつも「自分は凄くない」と触れ回ること、それが本当に最善の策なんだろうか?
第一「他の人に比べるとそうでもない」「全然下手」「大したことない」etc... そういった言葉は何を指しているのか…いや、もっと言えば「何と比べている」のだろうか。友人か? クラスメートか? 雑誌やネット上の記録か? …どれでもいいが、問題は「大したことがある」というもの、それが一体どの程度のモノを指しているのかということである。
もちろん「上」と比べて自分の未熟さを意識することは、決して悪いことではない。だが問題は、なぜか皆「上を見すぎる」ことにある。
それは当然、自分が「大したことある」…つまり「他人に比べて圧倒的に優れている」と思い込むことは、厨の考えに他ならない。町内や学校内においてちょっとばかりゲームが上手かったり、サッカーが上手かったり、歌が上手かったり…その程度のことで、「もしかして俺って、全国でも通用する?」とか思っちゃうのは、まさしく中二病の典型だ。井の中の蛙、大海を知らず…とは、まさにこのことである。
だが、要するに「そんなことは当然すぎる」のだ。自分が安易に日本一・世界一だと思う…それが馬鹿馬鹿しい話なのは至極「当然」の話。そして同時にそれは、万人が理解していて然るべきことであって…なにも「いちいち騒ぐべきことではない」とオレは思うのである。
話を整理しよう。つまり「全然凄くない」「大したことない」と自分で言わずとも、誰だってソレが大したことないとは「最初から解っている」のだ。
例えばゲームの話に限れば、ファミ通のやり込み大賞に応募するレベルがあり、その上にはネットに掲示されるトップレベルの記録があり、更にその上にはギネスブックに載る記録がある。そして、それらのレベルに達していないことが「大したことない」というのなら、当然ながら世界のトップレベル以外は全員が「大したことない」ことになるだろう。1億人のゲームプレイヤーがいれば、9900万人くらいは有象無象だということか。
つまり、わざわざ自分から「自信の無さをうかがわせる台詞」を、逐一口にする必要はないと思うんだ。確かにそれは、「大したことない」のかもしれない。だが少なくとも自分が頑張った記録に関しては、もっと胸を張っても良いんじゃないか。
上を目指すのは悪くない。が、野球少年がマリナーズのイチローと自分を比べたり、陸上部の中学生が金メダリストの記録を意識したり…その結果として「全然ダメだ…」「自分は大したことないんだ…」と思い込むことは、どこか物悲しさを感じずにはいられない。
自惚れろとは言わない。だが「自分が頑張ったもの」に対しては、きちんと自分で「自信」を持つこと。これが何より大事だと、オレは考えている。
結果や記録を重要視したいのは解る。そしてプロのスポーツ選手や芸術家なら、結果が全てなのは間違いないだろう。
だがプロではないとしたら、己が全霊を込めて「頑張った」というその行為に対しては、もう少し自信を持っても罰は当たらないんじゃないか。自分が「ギネス記録か何かを狙いたい」のか、「己が出来得る限りに精一杯頑張りたい」のか…それを履き違えるのは、不幸極まりないと言うしかない。
「謙遜」は「自信」と共存できる。皆が、それに気付いて欲しいとオレは思う。
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