February 07, 2004

夢の変質

こんなにもなっちを愛してしまってたからには、モーニング娘。を抜けたからといってもちろんそう簡単になっちを愛することをやめられるはずはない。私たちはおそらくこれからもなっちの活動を追い続けずにはいられないだろうし、結局彼女のソロ活動を「応援」してしまうだろう。しかしそれでも、やはりなっちにモーニング娘。をやめてほしくなかったという気持ちに変わりはないし、それにいつまでも、なっちが娘。を離れたということは何かの間違いで彼女はほんとうはモーニング娘。なのだ、という思いを拭い去ることもできないだろう。さらに言うなら、なっちには、いまからでもいいから何事もなかったかのようにひょっこり娘。に戻ってきてほしいとすら思っている。誰にどんな迷惑がかかろうが、知ったことじゃない。なっちが娘。に戻ることを歓迎しない理由が、残された娘。たちやファンたちのいったいどこにあるというのだろう。

それにまた、どうしてなっちはソロ活動と娘。を両立できなかったのか、という無念の思いもやはり拭い去ることができない。おそらくUFA(アップフロントエージェンシー=娘。たちの所属事務所)は、なっちの「ソロ活動」をイコール「ライヴツアー活動」と考えているのではないか。つまりCDの売り上げがさして望めない現在、盛大なライヴツアーを行わずしては、ソロ歌手としての彼女は商業的に成り立たないというような理屈が裏にあるような気がする。もし、CDをリリースすることがソロ歌手のメインの活動であるならば、なっちは(あるいはごっちんも)娘。をやめずともソロとしてじゅうぶんやっていけたのではないだろうか。それと同時に、事務所はなっちで比較的大きなビジネスをやろうとしている、ということがハッキリ見えてくる。なぜならカヲリのように、CD主体の小規模なソロ活動を娘。のなかに居ながら行っている例も一方で見られるからである。おそらく今後なっちには、娘本体やごっちんやあやや、あるいは1日3公演という狂ったステージ数をこなすハロプロのように、タイトなツアースケジュールが用意されてくることだろう。つまり、いまUFAのなかでソロ歌手として華々しくやっていくには、彼女たちは何より肉体を極限まで酷使しなければならないということになる。幅広い層への横断力を見込み良心的なあるいはインパクトのある楽曲を用意してCDを売るという賭けを打つより、娘。たちのダイレクトな魅力で限られたコアなファン層から金を取るほうがより確実で手っ取り早いというわけである。(そしてもちろん彼女たちのライヴは、あらゆる興行としての悪条件を越えて、いつだって素晴らしい。)
なんという資本の論理だ! そんなもののために私たちはあのかけがえのないものを失ってしまったというのだろうか。15人の娘。がようやく達することのできた無上の幸福は失われてしまったというのだろうか。

なっちがモーニング娘。を「卒業」することを正当化する根拠のひとつとして、なっち自身が娘。になってからもずっとソロ活動にあこがれており、それがなっちの「夢」だったのだ、という言い方がある。なっちはいまようやく夢を叶えたのだ、ファンならば本人の意思に沿って、なっちの「卒業」を応援しようではないか、という考えだ。
たしかになっちが「シャ乱Qロックヴォーカリストオーディション」を受けたとき、彼女が夢見ていた歌手というのがユニット歌手でなかったことは確かだろう。「『グループで』って聞かされたときは、正直いって『へっ?』って思ったよ」というような発言は、なっち本人も何度かしているはずだ。この引用は安倍なつみの著書『ALBUM 1998-2003』からのもの(P22)だが、なっちはまた、この本を読む者に、娘。にいながらソロデビューのチャンスをずっと「待っていた」という印象を与える。
「ソロデビューのことは、正直いって、なっちのココロの真ん中にいっつもあったよ。だって最初はひとり……って思って『ASAYAN』受けたわけだし。」(P70)

であれば、なっちのソロデビュー自体は祝福されてしかるべきことなのだ。それを祝福しない理由はないし、また誰にもなっちの夢を差し止めることはできないようにも思える。
しかし問題は「ソロ活動」が本来別の次元のものであるはずの「卒業」と結びつけられ、そのとき「夢」のすり替えが行われたことである。言うまでもなく、祝福すべきはなっちのソロデビューであって、決してその「卒業」ではない。そして、おそらくはなっちが「夢」見ていたものもソロデビューであって、決して「卒業」そのものではなかったはずだ。それがいつの間にか、「ソロ活動」と「卒業」とがイコールで結ばれ、「卒業」こそが祝福されるべきものにすり替わっていた。そこにとんでもない送り手(UFA)側の詐術を感じる。
繰り返すが、本来「ソロ活動」と「卒業」がイコールで結ばれる必然性は何もなかったということなのである。その二つが結びつくのは、先に挙げた事務所側の論理、すなわち「ソロ活動」を「ライヴツアー活動」と置き換えるような論理のなかだけの話である。UFAはなっちの「夢」を自分の都合のよいほうにねじ曲げ、こう言ってよければ利用している。その際、なっちの「夢」が純粋であればあるほど、事務所の欺瞞は大きくなる。なっち「卒業」の件ばかりではない。いまやUFAにはそうした欺瞞が満ちあふれているように見えないだろうか。そしてそうした欺瞞は、娘。たちに対してもうほとんど物理的な暴力として働きはじめているのではないだろうか。実際娘。たちはもういつ倒れても不思議でない状態ではないか。ライヴやミュージカルを欠席したりステージに立ち続けていられなくなった娘。たち(真里っぺ、辻ちゃん、加護ちゃん、小川、こんこん‥‥)、1日3公演の後、深夜朦朧としながらラジオの生放送をこなす真里っぺ、体調を崩しながらもライヴをキャンセルできないあややや斉藤さん、そしてなっち「卒業」のステージでの辻ちゃん加護ちゃんの悲劇‥‥。私たちは娘。たちにこれからも起きるに違いないこれに似た悲劇を、ただ黙って見ていることしかできないというのだろうか。そんなのはもうたくさんだ。

 * * *

なっちの夢やあこがれが「ソロ歌手」であって、モーニング娘。のような「女の子だけのユニット」でなかったというのは、当然と言えば当然すぎる話だ。なぜなら、なっちがオーディションを受けたときには、モーニング娘。というユニットはこの世にまだ存在しなかったのだから。それにいま私は「モーニング娘。のような」ユニットと言ったけれど、じつを言えばそんなユニットは、いまこの世にモーニング娘。そのものを除いては存在していないし、またかつて一度だって存在した例しもないのである。
そして、あえてこう言い切ってしまうならば、そんなモーニング娘。をつくったのは、誰よりもなっちその人だったのだ。どうしてファンたちは、「卒業」が決まったとき、なっちがモーニング娘。のメインヴォーカルだったという、ごく当たり前のことすら忘れてしまったかのように振る舞っていたのだろう。そして、もちろん裕ちゃんやカヲリ、あるいは真里っぺや圭ちゃんのことを忘れたわけではないが、それでもあえて言い切ってしまうなら、モーニング娘。というのは全員がなっちのような女の子たちのユニットなのである。娘。たち全員が、まるでなっちの遺伝子を引き継いでいるかのように、前向きで、一生懸命で、バカで、かわいらしく、無意識で、すれていなくて、いつまで経っても子供のような女の子たちだ。したがって、辻ちゃん博士がなっちを「ママ」と呼んだことは彼個人の妄想でもなんでもなく、むしろただ客観的事実に触れたのだと言うべきだと思う。

なっちは、娘。になってからもずっと「ソロ活動」を夢見てきたという。しかし、正直を言えば私には、なっち本人の意思がどうあれ、娘。であることのほうが「ソロ歌手」になることよりはるかに素晴らしいことのように思えてならないのだ。実際ソロ歌手なんてものはこの世に無数に存在しているが、モーニング娘。は唯一モーニング娘。しか存在していないではないか。モーニング娘。こそがいまあらゆる歌手や芸能界のなかでもっともかけがえのない存在であることは、明らかだと思う(それは私が娘。に目が眩んだファンだからそう見えるのに過ぎないのだろうか。いや、決してそれだけではないはずだ)。ましてやそのモーニング娘。をつくったのは、他ならぬなっちその人なのである。もしなっち本人がそのことに気づかず、あるいはそれをじゅうぶんに理解していなかったとしたら、それを彼女に教えるべきは本来彼女の周りのスタッフであり事務所の役割であるはずだ。

もしそのことを事務所がわかっているなら、つまり自分たちの扱っているモーニング娘。がかけがえのない存在であり、自分たちにはそれを守る義務があることをUFAがわかっているなら、彼らはどうしてもなっちの「ソロ活動」と娘。の活動を両立させるべきだった。仮に彼らがそれをわかっていないのだとしたら、事務所はその鈍感さをファンから咎められ、責められて然るべきだ。また仮に彼らがそれをわかっていながら実現できなかったのだとしたら、事務所は己れの無能無力ぶりを大いに恥じ、ファンに謝罪すべきなのだ。しかしそのどちらのようすも見えないのはいったいどうしたことだろうか。
結局事務所は何もわかっていない上に、「卒業」を興行化するほど厚顔無恥であり、しかもファンは極端に無力化されており、何も知らされておらず、攻撃の手段を奪われているということではないのか。実際「22歳の私」でソロデビューが決まった当初、「卒業」はしないとされていた(http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2003/06/11/01.html)なっちが、ほんのひと月半後、一転「卒業」を発表した(http://www.sanspo.com/geino/top/gt200307/gt2003072801.html)間にはどのような経緯があったのだろうか。私たちにはあまりに説明されていないことが多すぎるし、あまりに事務所の論理を理解する機会を奪われている。

 * * *

かつては、娘。たちの「夢」は、事務所という現実のなかにおいても全きものだったはずだ。タンポポやプッチモニが輝いていた頃には。娘。たちの「夢」と彼女たちを取り巻く現実の間には、まだそれほどの齟齬はなかった。「夢」は、いつか完全な状態で叶うはずのものだったし、だからこそ娘。たちはみんな自分の「夢」に関して必死だった。しかし、彼女たちの「夢」とファンの「夢」そして事務所の思惑がそれなりに寄り添っていた幸福な時代は、おそらく2002年7月31日/9月23日を境に終わってしまった。いま、娘。たちの「夢」は搾取され、事務所の都合の枠内で部分的に実現されるものに過ぎなくなっている。例えば飯田圭織。残酷な言い方かもしれないが、ソロシングルデビュー曲を歌うカヲリの姿からは、タンポポの頃の彼女のような生気と輝き、歌うことの幸福感はもう感じられない。すべては変わってしまった。残酷なまでに変わってしまったのだ。

でも「夢」なんてものはあくまで現実の枠内でしか実現できないものじゃないか、とあなたは言うだろうか。現実と絡まない「夢」は「夢」のままで終わってしまうではないか、と。まったく立派な大人の論理だ! しかしこれほどモーニング娘。に似つかわしくない論理がはたしてあるだろうか。そして、娘。たちの子供の「夢」が事務所の都合にすり替えられるとき、途轍もない欺瞞が生じ、娘。たちもファンも疲弊に追いやられている事実を私たちは決して見逃してはならない。私はただ娘。たちといっしょにこの悪循環から出て、もう一度完全な幸福のほうへと向かいたいだけなのだ。

もし、いまの彼女たちの「夢」が事務所に用意されたものであるとするなら、それを用意した事務所はファンたちの批判に開かれていてしかるべきである。また私たちファンはそれを批判する義務すらあるように思う。その前提のなかではじめて、私は彼女たちの現実化した「夢」を「応援」することができるように思うのである。

しかしその上でさらに言うなら、やはりモーニング娘。とは完全な幸福、完全な「夢」以外の何物でもないと思う。つんくや事務所はモーニング娘。をもっと不完全なもの、完全さを欠いた女の子たちのユニットと考えてきたかもしれない。それを完全なものにしたのは、娘。たち自身なのだ。私たちファンは娘。たちとこれからも完全な「夢」を見ていけばいいはずだ。しかしそのためには、もう戦うことを回避している余裕は、私たちには残されていないのではないだろうか。

Posted by ディピオ at 12:43 AM

January 17, 2004

愛の物語

例えば、こう考えてみる。
モーニング娘。には、結成の当初からつねに二つの物語があって、それらが重なり合うようにして成り立ってきたのではないか。その二つのものを、「公式の物語」「非公式の物語」と呼んでみることにする。

「公式の物語」は主に「つんく」からもたらされてきた。メンバーの加入とか、新曲のインパクトとか、そしてごっちん以降のメンバーの「卒業」もまさに「公式の物語」だ。「公式の物語」の展開は、ある日突然天から降ってきたもののごとく「つんく」の口から娘。たちおよび私たちファンに告げられる。
おそらくこの物語はモーニング娘。という「ビジネス」と直結していて、この「公式な物語」の展開こそが「ビジネス」としての娘。を発展させると「事務所」は考え続けてているのだろう。

「公式の物語」はしばしば娘。たち個々に「不条理な試練」を強いる。せっかく手売り5万枚を達成し結束を固めたオリメンのもとには最悪のタイミングで異物たる新メンバーが送り込まれ、なっちはNYに不要な「本格修業」に飛ばされ、彼女たちが築き上げてきたイメージをぶち壊す珍妙な振り付けを与えられ(LOVEマシーン)、やがて時は経ち心から愛していた自分のユニットの解体や、血肉を分けたかのようなメンバーの「卒業」が言い渡され‥‥。

もちろん「公式の物語」がなければ、そもそもモーニング娘。は存在し得ないだろうし、また娘。たちも多かれ少なかれ「公式の物語」のなかで生きているのだから、そこからドロップアウトするのでなければ、そのなかで前向きに進んでいくしかないだろう。ハロモニ。やメイキングビデオのなかでただ無邪気にはしゃいでいるだけに見えた娘。たちだって、芸能界のなかでチャンスを掴みたいと当然思っているのだろう。であれば、なっちにしろ辻加護にしろ、無理にでも前向きにこれを捉えてやっていくしかない。1月11日の「ハロモニ。」(テレビ東京)のインタビューにおける辻加護の躁状態とでもいうべきテンションの高さは、事のあまりの唐突さと大きさに興奮していたというばかりでなく、そうにでもならないとやっていけないという側面を含んだものだったように思う。
(娘。たちも、最初に2期が加入するときは、私たちファン同様明らかに激怒していた。またタンポポやプッチモニに4期メンバーが投入されるとき、カヲリや圭ちゃんは抵抗感を隠さなかった。しかしその後、彼女たちは深く悲しむことはあってももう怒ることは(少なくとも表立っては)なくなってしまったように思う。そんなことが延々と繰り返されるならばそれを「前向きに」捉えなければやっていけないのかもしれないが、その間に彼女たちの見る夢が何か変わってしまったのだとしたら、それはやはりひどく残酷なことだ。)

モーニング娘。が学校だとすると、「公式の物語」は先生たちの考えた学校のシステムや、そこに組み込まれた学校行事のようなものだ。「卒業アルバム」には学校行事を記した公式の「歴史」が刻まれていくだろう。

「事務所」は、この物語こそが他ならないモーニング娘。そのものなのだ、と言いたいように見える。この物語こそが唯一「正しい」ほんとうのモーニング娘。物語なのだと。これこそが「正史」なのだと。(まだ「序章」の段階なので真の意図はわからないが、「よろしくセンパイ!」という番組が不気味なのは、「事務所」側がこの時期いよいよ娘。版の「正史」を、「日本書記」を作ろうとしているかのように見える点にある。)
また、ファンサイドに視点を移せば、その物語の中で頑張ろうとしている娘。たちをこそ応援すべきだ、という主張がそこにつながっていくことになるだろう。実際、自分が見ているいくつかのサイトの中でも、「公式の物語」に沿って萌えを展開している人たちは、なっちや辻加護の公式発表の言葉と齟齬がないせいか、なんとなく正しく見えるということがある。彼らは「公式の物語」の中の娘。と同様に「前向き」だ。しかしこの場合の「正しさ」とはいったい何だろうか。おそらく「正しさ」というのはつねに「公式の物語」の側にしかないものなのだ。「正しい」ことによって、そこから抜け落ちるものがあるような気がしてならない。

「公式の物語」が、すなわちモーニング娘。のすべてなのではない。あるはずがない。私がモーニング娘。をほんとうに愛しているのは、その物語の裏にいつでも「非公式の物語」が水脈のように流れているからだ。「非公式の物語」はきわめて小さな物語だ。それはしばしば小さすぎてほとんど物語にすらならないような娘。たちの仕草や会話や声や表情といった断片でもある。「非公式の物語」は、本来「ビジネス」とも「事務所」とも、そして「つんく」とさえ何の関係もなく、娘。たちの間で、彼女たちの吐息のように日々紡がれては消えていく。
あるいはそれは娘。たちの関係性の物語だ。なぜなら娘。たちはどんなときだって一人でいることはなく、他の娘。たちと結ばれていてモーニング娘。だからだ。私たちはテレビ番組やメイキングビデオのほんの瞬間の中に、とりわけ「ハロモニ。」の中にその幸福の断片を見出すことができる。「公式の物語」が学校のオフィシャルな外郭に相当するとするなら、「非公式の物語」は日々教室や校庭の隅で生まれては消えていく小さなエピソードの数々である。

「公式の物語」が大人の論理に彩られているとするなら、「非公式の物語」はあくまで子供のものである(そう、モーニング娘。は、最年長のなっちやカヲリからして、それどころか「卒業」して三十路に到った裕ちゃんでさえ、いつまでもあんなに子供ではないか)。そこには生産性のかけらもない。アナーキーなものだ。
それは「公式の物語」からすれば退廃としか写らないものを含んでいる。娘。たちがそこに拘ることは、すなわち変化を拒むことは、「ビジネス」的な危険すら孕んでいると見なされているかもしれない。つまりラブマ的なビッグバンはそうした停滞した環境の中からは生じにくいと「事務所」は考えているのではないか。

しかし、その「非公式の物語」ほど、甘く美しいものがいま私たちの前にあるだろうか。モーニング娘。の表向きのめまぐるしい展開とは関係なく、そのなかでは、いつでもそのときどきでまるで時間が止まっているかのようだ。娘。たちがはしゃいだりじゃれ合ったりしている時間が。子供たちにとって、学校生活というのものの時間がそうであるように。

実際、「非公式の物語」が魅惑に満ちた水脈であることを「つんく」や「事務所」もわかっていないわけがない。彼らは「非公式の物語」からその甘い部分を「公式の物語」のほうにさんざん搾取してきた。その最たるものが辻加護ではないか。ミニモニ。というのは、私にとってはまず辻加護の遊び場、彼女たちの少女期のまどろみそのものだった。あの「矢口が勝手に作った」野蛮なミニモニ。、「ミニモニ。イエイ!イエイ!」のグダグダなミニモニ。を、「事務所」や「つんく」が掠め盗り、それを製品化したのだという思いが今でもある。今回の辻加護「卒業」および新ユニット結成は、その搾取をさらに押し進めるものではないのか。製品化されたミニモニ。からはもちろん素晴らしい曲がいくつも生まれた。また「ザ☆ピ~ス!」の頃には、娘。本体においても「公式の物語」と「非公式の物語」が、かなり幸福に寄り添って進んでいたようにも思う。だから、「非公式の物語」が「公式の物語」に滋養を与えること自体は、むしろモーニング娘。の豊饒さの秘密のひとつなのであって、それは否定すべきではない。ただ、「事務所」や「つんく」が娘。たちの関係性を搾取しているという事実は事実として残る。二つの物語の乖離が甚だしくなればなるほど、そのことの残酷さが浮き彫りになってきたのではないだろうか。

繰り返すが、「公式の物語」無しでモーニング娘。が存在するとはもちろん私も思ってはいない。しかし、モーニング娘。の「非公式の物語」こそを絶対に擁護したいし、それだけを語りたいのだ。「非公式の物語」というのは事務的な言い方だから、それを「愛の物語」と言い換えてもいい。一ファンとしては傲慢で狂った言い方かもしれないが、私はできればそれを守りたいとすら思っている。「愛の物語」ほど、儚くもろいものはない。どんなに仲がよかったクラスの友達も、転校していけばいつかその友情は冷めるか別のものになってしまう。娘。たちの愛ほど、いま「事務所」によってないがしろにされているものはない。娘。たちの愛の力から多くのものを奪い取っておきながら、どうして「事務所」は「卒業」などという美辞を弄してそれを傷つけることができるのか。そして私たちファンこそが、娘。たちの「愛の物語」を擁護しないでどうするのか。

もはや「愛の物語」を掬い取ることができるのは、ファンだけだ。
「愛の物語」を記憶(記録)できるのは、娘。たち以外には私たちファンだけなのだ。
私たちは愛の文脈だけで娘。を語るべきだ。「卒業」の不条理に怒り、娘。たちが表立って悲しむことをしないならそのぶんまで悲しむべきだ。あなたはこうした考えが狂っているとお思いだろうか? だったらあなたは愛というものが、「公式の物語」から見ればそもそも狂ったものだということを知らないのだ。

「愛の物語」にこだわることは退廃的で危険だ。
「なっちやめないで!」と叫ぶことは危険なんだ。
こっちに「正義」なんてありはしない。
「正義」はつねに「公式の物語」の側にあるものだ。
多くのファンが白いサイリウムを持って「卒業式」という「公式行事」に花を添えようとしているときに、ただ悲しみに泣き叫ぼうとしている。
娘。たちだっていくぶんかは「公式の物語」の文脈で生きているからには、私は愛する娘。たちにすら疎まれるかもしれない。
しかし愛というのが「公式の物語」から外れた、そういう過剰なものでなくてなんだというのだろう。

それに私たちも娘。たちも、愛なくしてどうしてこの無情の世界に在り続けることができるというのだろうか。

Posted by ディピオ at 11:58 AM

August 09, 2003

リクエスト

矢口さん、そしてなっち、こんばんは。

いつも楽しく聴かせてもらっています。
今日は番組になっちが来ると聞いて、メールしました。

なっちの卒業のこと、初めて聞いたとき、ものすごくショックでした。
できれば、嘘であってほしいと思いました。
でも、それは現実で・・・、いまでもショックは続いています。
正直悲しいです。ぼくはモーニング娘。のなっちが大好きでした。
もちろんなっちが卒業するまではまだだいぶあるし、卒業しても
なっちが嫌いになるわけじゃないけれど・・・、
でもぼくは「モーニング娘。のなっち」のことが本当に本当に
好きなのです。
というか、ぼくは「モーニング娘。」というのは、なっちのこと
だと思っていました。
なっちがいつも真ん中にいて、楽しそうに笑っているグループの
ことだと思っていました。
ごっちんや圭ちゃんの卒業もすごく悲しかったけど、でもなっちや
カオリがまだいてくれたから、ぼくたちはモーニング娘。が
あの昔からのモーニング娘。だと思っていられたのです。
ぼくたちが愛したなっちのいるモーニング娘。が、卒業によって
変わってしまうことが、悲しくてなりません。

娘。のままソロ活動もやるというんじゃダメなんですか?
ソロデビューおめでとうという気持ちはあるけれど、なぜ
なっちが娘。をやめなければいけないのかが、正直わかりません。
なっちは幾つになってもモーニング娘。のままでいいと思います。
それはなっちだけじゃなくて、もちろん矢口さんも、今いる
娘。のメンバー全員についても、そう思っています。
みんなずっと娘。のままでいいじゃないですか、それがなぜ
いけないんですか?

なっち、お願いですから、いまからでも卒業をやめにしてくれませんか?
「嘘だよーん、みんなを驚かせようと思っただけだよーん」と
笑って言ってくれませんか。
みんな怒りません。「なーんだ、よかった。そうだったのか」と
笑って許すと思います。
だからいつまでもモーニング娘。にいてくれませんか?
なっちにはずっとモーニング娘。でいて欲しいんです。

勝手なこと言ってごめんなさい。
でも、これがぼくのいまの正直な気持ちです。
できれば、なっちが卒業のこと自分でどう思っているのか、もっと
くわしく聞かせてください。

リクエストは「真夏の光線」です。
これがモーニング娘。の曲であり、同時になっちの曲だと思うからです。

では、矢口さん、なっち、暑い夏が来ましたけど、身体に気をつけて
毎日頑張ってください。

Posted by ディピオ at 04:23 AM

August 08, 2003

あの衝撃的な発表から…

あの衝撃的な発表から2週間が過ぎた。早くもすでに、なっちの卒業について語ろうする者は少ない。たしかに悲しみと無気力は、私が見て回るごく狭いwebの世界のあちこちにも重く垂れ込めてはいる。しかし、当初はかなりのショックと拒絶反応を引き起こしたかもしれないなっちの卒業宣言は、いまや逃れようのない定めとして、あっという間に人々の心の中で既成事実化してしまった。度重なる残酷な改変や卒業という事実を経て、崩壊に馴れてしまったかのように。こうして私たちは次第にニヒリズムへと陥っていくのだろうか(繰り返される卒業によって荒んでいった、過去のアイドルグループのファンたちがそうだったように)。だがしかし、ニヒリズムほどモーニング娘。に似つかわしくないものはないではないか。
それにしても、今回はよりにもよって、なっちなのだ。モーニング娘。の魂であるなっちなのだ。インタビュー等でなっちはしばらくモーニング娘。をやめないと言っていた。モーニング娘。が醸成する幸福を愛してやまない私たちとしては、呆れるしかないマイナスな展開が続きながら、しかしそれでも娘。を信じてきたのは、なっちとカヲリが娘。に残っていてくれたからだ。それだのに、突然こんな話があるだろうか。とても、ああそうですかと簡単に受け入れられるものではない。たとえ、なっち本人が望んでそれを受け入れたのだとしても‥‥

Posted by ディピオ at 04:20 AM