昭和49年
昭和49年 1月15日 鬼子母神のけやき
昭和49年 1月15日  東京都の天然記念物に指定されている雑司が谷鬼子母神大門けやき並木のうち、樹齢六百年と伝えられている最も古い木がついに枯死、倒壊の危険があるため、保存会の手で春早々に切り倒されることになった。これで同並木の古木は二本になる。このままでは数年のうちに全滅する心配が出てきた。 現在けやき並木は、若木を入れて二十余本植えられているが、天然記念物として指定されている樹齢五、六百年の古木は三本で、このうち東側中央に残っていた一本が公害などでこの数年来急に弱って仮死状態になり、樹皮がはげて落下し、危険になったため、皮はぎ作業をし、春に伐採することになった。
昭和49年 1月22日 山手線のフタかけ
昭和49年 1月22日  公共空閑地の少ない豊島区が、窮余の策として考えている国鉄山手線のフタかけ事業を、今年は議会の副都心委員会が中心になって、将来構想に向かっての運動をスタートさせようと計画している。 豊島区の公園面積は、区民一人当たり二・二平方bと、二十三区の中で最低。このオープンスペースを生み出すために考えたのが「山手線掘割部分のフタかけ事業」。豊島区内を貫通する国鉄山手線に掘割部分が多いことから、この一部にフタかけをすることによって、広大なオープンスペースを新たに造成できるという考え。 技術面、資金面で問題はあるが、世論の支持を受けて国鉄の理解を求め、実現していこうという。フタかけが可能と見られる三か所から生まれるオープンスペースは、約六万六千平方bになる。
昭和49年 2月12日 大塚台公園テニス場の波紋
昭和49年 2月12日   昨年六月に開園した南大塚三丁目の区立「大塚台公園」のテニス場設置と利用をめぐって、町会と軟式庭球連盟、中学校PYAからそれぞれ請願・陳情がだされ、三つ巴で賛否の請願合戦が展開されている。区では、「一体どういうことなのか、さっぱりわからない。あとは請願を受けた区議会に任せる以外にない」と、住民運動の板ばさみになって頭を抱えている。 大塚台公園は戦後、豊島区が作った公園としては最大規模のもので、広さは約三千五百五十平方bあり、昨年六月に総工費二千七百六十七万円を費やしてほぼ完成した。この工事中に、地元東池袋南大塚中町会(久世亀雄会長)有志から、同公園にSLを陳列してほしいという陳情が出された。区では搬入口に当たる公園南側のテニス場工事を一時中断して国鉄側と交渉に入った。その交渉がまとまりかけた昨年秋になって、同町会と大塚駅南町会(横沢慶市会長)から「公園の利用状況からみても規格にはまりすぎているキライがあり、子どもが自由に遊べない。テニス場は特定の人が利用するだけなので、子どもたちのために自由に使える広場にしてほしい」という陳情を出し、区に設計の変更を迫った。 この陳情に、テニス場の設置を期待していた体育関係者はびっくり。軟式庭球連盟(鈴木要会長)は早速「区民の体位向上のために予定通りテニス場を設置してほしい」と請願書を提出。賛否両論に頭を痛めた区は、地元町会の協力が得られないようではテニス場の管理運営が円滑に行かないと判断し、軟式庭球連盟に事情を説明して請願を取り下げるよう要請したが、鈴木会長は強い不満を表明。つづいて隣接する西巣鴨中学校(河村良校長)と同校PTA(秋田ハル子会長)から「テニス場予定地をバトミントン競技などに使わせてほしい」という請願書が出された。こうした中でテニス場設置反対の二町会が区議会に請願書を提出。結局この問題は区議会にまかせることになった。
昭和49年 2月26日 鬼子母神のイチョウ問題
昭和49年 2月26日  豊島区内唯一の天然記念物「鬼子母神のイチョウ」に隣接する土地に、鉄筋五階建ての寮の建設が計画されていることから、各方面で「イチョウ」を守る住民運動が起こっている。 昨年の秋に陳情した人の話から、建設地の買収によって問題は解決するかに思えたが、建築主が教育委員会を訪れて土地の売却説を全面的に否定したため「イチョウ」問題は振り出しに戻ることになった。 この問題について二月十六日に都総務局と都民室、豊島区の三者で話し合いが行:われたが、権限と金の裏づけのない文化財保護だけに解決に苦慮している。
昭和49年 3月19日 ごみ減量に総力体制
昭和49年 3月19日   豊島区町会連合会(金谷勇会長)は三月十三日、振興会館で常任理事会を開き、かねてからの懸案事項であった@ごみ減量運動A地域防災組織づくりについて協議し、連合会としての方針を決めた。 ごみ減量運動では、町会連合会百三十一町会中、七十余町会が資源回収運動を通じてごみの減量に協力しているが、板橋のごみ工場が七月から操業し、豊島区のごみも全部この工場で焼却することになっている。このため、豊島区ではその迷惑を少しでも減らそうと、町会連合会では、那口目白一二三町会長を特別委員会委員長に選び、資源回収の日程、方法などのプログラムを作成して、定期的に実施していくことになった。
昭和49年 4月2日 深刻な保母さん不足
昭和49年 4月2日   豊島区立保育園が、今年七月から来年一月にかけて五か所にオープンし、既設の保育園と合わせて二十五か所になる。四十九年度で予定した保母さんの新規採用が三月末現在で六割しか充足されず、このままでは定員不足のまま開園するか、最悪の場合は開園を遅らせることになる。 現在二十か所の区立保育園に三百三人の保母さんが働いている。四十九年度には上池袋の「上池袋第一」、長崎三丁目の「長崎」、駒込五丁目の「駒込」、南長崎五丁目の「南長崎」、南大塚二丁目の都電車庫あとに「南大塚」の各保育園がオープンする。これらの保育園に勤務する保母さんと退職者の補充分を合わせて新規に百十人を募集したところ、確保できた保母さんは六十一人で、そのうち新卒者が七割を占め、経験者はわずかに三割だった。
昭和49年 4月9日 ホクホクの公営競馬
昭和49年 4月9日  東京都が主催する競馬、競輪、競艇などの公営ギャンブルが美濃部イズムにしたがって廃止され、四十九年度の都予算からギャンブル関係予算≠ヘ完全に消えた。これに反して豊島区をはじめ東京二十三区の予算面では、この収入が年々うなぎのぼりで大きくなっている。 四十九年度豊島区一般会計の中では三億円と、昨年の二億八千万円を二千万円増やした収入が見込まれている。「都は都、区は区。都知事の姿勢は姿勢として、この貴重な財源を簡単に離せない」という二十三区の台所。三月末までに豊島区の金庫に入った四十八年度の区営競馬収入金は三億四千七百三十九万四千円、予算見込みの二億八千万円を六千七百万円も超える収入。そこで四十九年度は、収入見込みを三億円に増やした。
昭和49年 4月16日 74国民春闘
昭和49年 4月16日  74国民春闘≠ヘ四月十一日、最大のゼニストに突入した。国労、動労、私鉄総連を中心に官民八十一単産、約六百万人が参加するといわれる春闘共闘委員会の「決戦ゼネスト」だ。この中で豊島区も区役所の都職労豊島支部をはじめ都労連傘下の各職場は、十一日と十三日の両日、全面ストに、また豊島区労働組合協議会加盟の各単産もストに突入し、十一日の朝から池袋西口二か所で統一決起集会を開いた。
昭和49年 4月30日 倒産件数は史上最高
昭和49年 4月30日   三月の倒産件数(負債額一千万以上)は全国で一千件を超え、件数、負債額とも史上最高を記録した。石油製品再値上げ、電力料金値上げ、引き続く資材高騰、需要停滞、資金繰り逼迫、親企業からのしわ寄せなどで中小企業の経営は一段と厳しい状態に追い込まれている。企業の問題点調査(国民金融公庫)でも「求人難」に代わって「売り上げ不振」「支払い期間の短縮」を訴える企業が多い。 都経済局の発表によると、三月の都内の企業倒産状況は増加し、倒産件数二百五十一件、負債総額三百億円を超えている。豊島区では倒産が十三件、負債総額は三十六億二千万円で、特に中堅企業の倒産が目立つ。
昭和49年 5月14日 全町会員にごみ容器
昭和49年 5月14日   目白一二三町会(那口譲会長)は、ごみの分別収集と減量運動に協力して、全会員四百世帯にポリバケツ(ごみ容器)と万年ボウキを無償配布することにした。一般家庭には四五g入り、アパートと営業用には七〇gの大型容器。 那口会長は「豊島区のごみは板橋区の清掃工場で焼却しており、昨年の江東区のようなことを繰り返してはならない。そのためには、各町会でできる限りの協力をして、板橋区に迷惑をかけないようにしなければならない」と話している。
昭和49年 6月4日 初の区民集会室完成
昭和49年 6月4日   昭和六十年までに四十か所の区民集会室建設計画のトップを切って「池袋区民集会室」が、併設の「池袋ことぶきの家」と「図書貸出しセンター」とともに完成。六月二十日に落成式を行い、一般の利用は七月一日からになる。
昭和49年 6月4日 サトウハチローの墓
昭和49年 6月4日  作家のサトウハチローの墓が雑司が谷霊園一種五号二十四側に完成した。 高さと幅約一bの浮金黒花崗石づくりで、正面に自筆の「ふたりでみると すべてのものは 美しくみえる サトウハチロー」と彫られており、花建てなど一切なく、生前の人柄をしのぶがごとく質素の中にも暖かい人間性が秘められている。 裏面には「正五位勳三等 佐藤八郎 昭和四十八年十一月十三日永眠 行年七十歳 房枝(生存)まり子 大正二年七月三日 行年五歳 由美子 大正四年五月十三日 行年五歳 喜み子 大正六年八月二十三日 行年十九歳」と彫られ、二年おきに相次いで天折した子どもの名が悲しく並べられている。
昭和49年 7月2日 オーストラリアへ親善訪問 池三小の清水君ら
昭和49年 7月2日  世界子ども仲良し会(井上きたえ会長)主催の第五十二回国際少年親善使節として、豊島区立池袋第三小学校(酒井実校長)三年生の清水茂孝君(9)が、葛飾区立金町小学校四年生の岡庭美乃さん(10)とともに七月十九日から八月一日まで、オーストラリアを訪問することになった。豊島区立小学校の児童が同会の海外派遣の代表に選ばれたのは初めてで、清水君はこの大任を果たすべく目下国際的マナーと英語の特訓に汗を流している。茂孝君は、西池袋の目白速算清水時彦さんの次男。 世界子ども仲良し会は、子どもの国際親善を目的に設立され、毎年交歓会を開催するとともに、親善使節を世界各地に派遣している。今年はオーストラリアと交歓することになり、多数の候補者の中から成績、態度、家庭環境など、厳しい基準をパスした清水君らが選ばれた。 七月七日に日比谷公会堂で開かれる「オーストラリア、日本児童交歓たなばた祭り」で壮行会を行い、奥野文部大臣と各大使のメッセージを預かり、七月十九日に羽田を出発、二十日にシドニーに到着。以後、十日間にわたってキャンベラ、メルボルン、ケーンズなど、各地の学校や官公庁、国会などを訪れ、香港を経由して八月一日に帰国することになっている。
昭和49年 7月30日 集中豪雨のつめ跡
昭和49年 7月30日   梅雨明け前の二十日の昼前、一時間に五〇_という豪雨が東京を襲い、各地で床上、床下浸水の被害が出た。  豊島区でも高田三丁目で床上三十戸、床下二百五十戸の浸水被害が出た。豪雨のつめ跡は予想以上に大きく、区ではさっそく高田児童館に「災害対策相談所」を設置して、応急援護にのりだした。 同地域は、妙正寺川と神田川の合流点の下流に位置しているうえ、神田川改修工事の遅れや上流の雨量が三十分に七〇_という豪雨だったこと、同地が高田の谷間にあること、さらに完成間近い放射七号が川の役割をして、落合方面の水を押し流してきたことなど、多くの悪条件が重なってこの惨事を引き起こした。 この被害で、同じ神田川の流域にある新宿区では、罹災世帯が多いことから「罹災救援法」の適用を受けたが、豊島区は受けることができなかった。このため、日比区長は都の総務局長と交渉し「たとえ災害救助法の適用外でも、救助法適用と同様の扱いをする」という確約を取り付け、罹災世帯の対策に乗り出した。
昭和49年 8月13日 城西高校、甲子園で初陣飾る
昭和49年 8月13日  第五十六回全国高校野球選手権大会が九日、阪神甲子園球場で開幕した。今大会の東京代表として、晴れて三十四校の仲間入りをした初出場の城西高等学校(進藤宣夫校長・千早町一の四三)が、この日の第三試合に登場し、九州の佐世保工業高校と対戦。三対〇でシャットアウト勝ちし、二回戦に進んだ。 豊島区の地元商店街や町会は、初陣を飾った若者の活躍に大喜び。まるで優勝したような騒ぎになった。
昭和49年 8月13日 手作りの「座ぶとん」
昭和49年 8月13日  西池袋の上り屋敷婦人会(武部りつ会長)は七月三十日、町会を通じて老人約二百人に手作りの「座ぶとん」を贈った。 この座ぶとんの布は、某羽根布団の会社から小切れをもらい、会員のお母さんたちが家庭で縫い合わせたもので、綿代の五百円(一枚)は、婦人会の資源回収運動の利益金を当てたという。
昭和49年 9月3日 神田川の流量を三倍に。完成は54年4月
昭和49年 9月3日  七月二十日の集中豪雨で、豊島区高田二、三丁目の神田川流域が冠水し、大きな被害が出た。区はこの被害の原因について「高田馬場分水路工事を含む神田川改修事業の未完成、放射7号線道路築造工事の遅延、その他の諸条件に起因する」として、今後かかる災害の起らないよう都知事に、日比区長名で要望書を提出していたが、このほど建設省は、神田川の高戸橋から江戸川橋までの間の河川改修に着手する事業認可を東京都に与え、豪雨のたびに暴れ川≠ノなる神田川流域住民の不安を解消することになった。
昭和49年 9月3日 中核派上部団体「前進社」が千早町に移転
昭和49年 9月3日   武装闘争を目指して革マル派と対立し、死者まで出している中核派の上部団体「前進社」の事務所が八月二十八日、千早町一丁目の環状六号道路に面した新しいビルに移転した。屋上にはヘルメット姿の見張りが立ち、窓には鉄格子をはめ込んだ、まさに「千早城」だ。 この前進社の事務所は、これまで東池袋二丁目の池袋六つ又ロータリー際にあり、同地区の住民から移転運動が起きていたが、この急な移転に、住民は戸惑い気味。千早町の住民は「ゲバ騒動」に巻き込まれたら大変と、心配している。
昭和49年 9月10日 豊島区の人口が漸減
昭和49年 9月10日   一年に十万人が移動する―、といわれるほど人口の動きが激しい豊島区で、このところ人口の減少が目立っている。八月一日現在の住民基本台帳登録人口によると、三十万六千六百七十九と、今年になって約三千人ちかく減っている。昭和四十五年十月一日に実施された豊島区の国勢調査人口によると、世帯数十三万四千二百三十三、人口三十五万四千四百二十七人(男十七万八千九百十九人、女十七万五千五百七人)で、世帯数は八月の調査で六百五十世帯増えているのに、人口では五万人ちかく減っており、この数字のうえからも核家族化、単身世帯者の多い豊島区の人口動態がうかがえる。 さる七月、八月の二か月にわたって、区の戸籍課住民係が行った実態調査で、豊島区に住民登録をしていない世帯が四千三百七十七件もあることが判った。その内訳は、出生未届け五十一件、転入未届け四千三百件、その他で、ほとんどがアパート暮らしの単身世帯。しかし、逆に転出しても未届けの人が約四千件もあってプラス、マイナス、ゼロ。 副都心池袋という繁華街を中心に持ち、郊外との接点として交通の便もよい豊島区の特性は、日本一のアパート密度、単身世帯密度の多い土地柄。人口を的確におさえ、公共施設の分布など長期計画を立てていく豊島区にとってこの調査は、非常に大切なものだが、出てきた数字に係りはびっくりしている。
昭和49年 9月10日 霊園はごみ捨て場
昭和49年 9月10日  秋のお彼岸を前に雑司が谷霊園と染井霊園の大掃除が行われたが、出てきたのは空き缶の山。そのほかには、使えなくなった電気製品や鍋類。一番困るのが犬のフンで、時には作業員が踏んで、滑って怪我をするときがあるという。管理事務所では「霊園はごみ捨て場ではない」とカンカンに怒っている。
昭和49年 9月17日 旧東京拘置所跡地の発掘調査
昭和49年 9月17日  開発工事が進められている旧東京拘置所跡地の現場から大昔の化石が発掘された。 現在、止水壁工事もおわり、地下二三bまで掘り下げている。そのあらわれた断面から出てきた化石は、アナダラ族の貝(赤貝の一種)で、六十万年以前のもの。他に出てきた木片は、百万年から二百万年前のだという。二〇b以下というと関東ローム層の下の東京れき層。海になり、川になり、そして陸になり。この化石はそうした大きな歴史の流れを語っている。
昭和49年 10月22日 有楽町線30日に開通
昭和49年 10月22日  営団地下鉄丸の内線(池袋―新宿―荻窪)の殺人ラッシュを緩和するための第二丸の内線といわれる「有楽町線」が十月三十日に開通する。池袋から銀座一丁目間(一〇・二`、十一駅)を約二十分で運行。ラッシュ時は三分間隔で運転する。
昭和49年 11月19日 池袋に場外馬券場を
昭和49年 11月19日 日本中央競馬会は十五日、「現在休場になっている池袋場外馬券場を再開したい」と、地元東池袋東和町会(大熊保次会長)の同意書を添えて、豊島区に文書で協力を依頼。場所は、東池袋一の二一、テアトル池袋映画館横の空地(大林組所有)の一角約三三〇〇平方b。場外馬券場は現在、全国で十二か所、うち都内に八か所あり、指導によってこれ以上増設できないことになっているが、年々増えるフアンのサービスや混雑緩和のため、昭和三十四年以降休場している池袋場外馬券場を、この際再開し、フアンの期待にこたえようというのが中央競馬会の意向。 農林大臣の非公式諮問機関である競馬懇談会は昨年三月「競馬をギャンブルとして罪悪視する考えに終止符を打ち、国民大衆の娯楽として健全化する」という中間報告を出し、この世界に付きまとっていた後暗さを消した。馬主の競馬から、フアンの競馬へと、社会的にも大きな変革がこの一、二年の間に進んだ。 本格的な競馬ブームは昭和三十九年ころからで、レースを楽しむ固定フアンは一千万人ともいわれる。この競馬ブームで馬券の売上げは四十年に八百六十七億円だったのが、昨年は六千六百五億円と跳ね上がっている。この数字からも、競馬が今日のレジャーとして大衆に深く食い込んでいることがわかる。 ややもするとバクチ∞ギャンブル≠ニして白眼視する風潮もあるが、競馬で余暇を楽しむという方向に社会常識が変わってきたのも事実のようだ。こうしてフアンは増大し、競馬場は満員ということから、馬券売り場で馬券を買い、テレビで競馬を楽しむフアンが増えてきている。