昭和50年
昭和50年 1月14日 皇后陛下の歌碑
昭和50年 1月14日  上池袋一丁目の区立宮仲公園に戦時中、隣組が建てた「皇后宮の歌碑」があるが、この歌碑を石の棚で囲む計画が民間の有志によってたてられ昨年十二月、区に許可を求めてきた。これに対して、区では一応内諾をだしたが、その後の調査で、当時この歌碑を建てて区に寄贈した人の同意がなく、不特定多数の人から募金(二百五十万円)することは好ましくない、募金と建設工事に組織的な信頼性がないなどの理由で内諾を取り消し、許可しないことを正式に決めた。 「皇后宮の歌碑」は、昭和十八年五月、隣組防空訓練の皇后陛下台覧を記念して、地元の池上作三さん(88)が私財を投じて同公園に立てたもので、岡山産の万成といわれる赤みがかった、高さ約三bの立派な二段重ねの石碑。その表面には皇后の御歌「なぐさめむことのはもがな戦ひのにわをしのびてすごすやからお」が変体仮名で刻まれ、裏面に「台覧之処 昭和十八年五月十九日隣組防空訓練」と記され、建立者のなどの刻名は一切なく、現在、区有財産として保存されている。
昭和50年 2月4日 八ミリ映画「豊島の中山道」完成
昭和50年 2月4日  南池袋一丁目で開業している牧野医院の牧野武医師(62)が約一年を費やして八ミリ映画「豊島の中山道」を制作、二十七日に豊島区民センターで開かれる、郷土史研究会「豊島を語る会」で試写することになった。 「豊島の中山道」は、カラーで約二十分。旧中山道の巣鴨とげぬき地蔵通り入り口から、明治通りにいたる約一・五`の間にある六地蔵や大日堂、刺抜き地蔵、延命地蔵、庚申塚、さらには旧家として残る榎本留吉さんの家などを中心に撮影されている。 特に、数の少ない四の日と日曜日が重なる日を選んで高岩寺を訪れ、善男善女で賑わうとげぬきの縁日をフィルムに収めた。
昭和50年 2月11日 豊島区管弦楽団
昭和50年 2月11日  区民に楽器演奏の場を提供し、一般区民が気軽にオーケストラ演奏を鑑賞できるようにしょう、と本格的な豊島区管弦楽団結成の準備が、区教育委員会によって進められている。 豊島区教育委員会では、昭和三十七年に音楽教室を開催、長谷川東さんを指導者に、まずバイオリン科を始めた。その後四十四年にはオーケストラ科を設けた。このとき、すでにレパートリーは二百五十曲に達していた。 これまでに発表会や成人式での演奏、小学校や中学校、高等学校の児童や生徒を対象に、公開練習会を開き、そのつど好評を博してきた。この水準をさらに高めるため、前国立音大指揮科の伊達良さんを招き、豊島区管弦楽団を結成することになった。 構成は、音楽教室オーケストラ科で学んでいる百七十人のうちから、本人の希望でレベルの高い三十人を選び、このメンバーを核に、一般区民から楽器に自身のある五十五人のアマチュア管弦楽団員を募集し、総勢八十五人編成とする。
昭和50年 3月18日 「獅子舞」がピンチ
昭和50年 3月18日 豊島区の郷土芸能で唯一住民に引きつがれている長崎神社の「獅子舞」行事が、維持修理費の不足から危機に立たされており、氏子会や保存会を中心に資金面を援助する後援会結成の話し合いを進めている。 また、相談を受けた区教育委員会でも「宗教的行事とは切り離した、無形文化財の保存という意味から助成措置を考えてみたい」といっており、「獅子舞」保存運動は区全体に広がろうとしている。
昭和50年 6月24日 中学浪人が50人も
昭和50年 6月24日  今年三月に豊島区立の中学校を卒業した生徒は二千五百六十七人。このうち就職したのが四十九人、定時制高校入学者が五十六人、各種学校入学者が二十一人、自家営業が七人で、残りのほとんどが公立か私立の高校に入学しているが、約五十人の中学浪人が出た。農村部に比べて都会は高校進学率が高く、公立高校の増設が叫ばれているが、財政難のためなかなか難しい。 豊島、板橋、文京、北の四区を学校群にもつ東京第四学区には都立高校が十三校あるが、今年の募集人数は五千二百二十人。これに対して中学の卒業生は一万三千七百四十四人で、差し引き八千五百人が私立高校や各種学校、就職と言うことになる。このため、各区で高校問題協議会や懇談会などを組織し、都に高校を増設するように、運動を続けている。
昭和50年 8月19日 学童疎開に思い出を
昭和50年 8月19日  戦時中、山形県楯岡町(現在の村山町)に学童疎開していた区立椎名町小学校の五年生(百二十二人)は、三十年たった現在四十歳すぎの社会人になっている。その人たちのこのほど、大戸正彦村山市長から「戦時中、家族のもとをはなれて疎開された皆様に、当時の施設などをご覧いただき、昔を偲んでいただきたい」という公印付の懇篤な案内状が送られてきた。宿泊費は同市が負担し、八月二十二日上野発の時刻から歓待の内容、帰京までの日程が組まれている。 当時の疎開児童の交換会は、現在各地で行われているが、市からの公式な招待は豊島区としても始めてのケース。招待を受けた世話人代表の熊谷明悟さんは、昭和二十五年に楯岡中学校の生徒が上京の折りに親切に世話をした当時のPTA役員宮崎角蔵さん(区議)を父兄代表にし、椎名町小学校教諭一人と、住所のわかっている同級生三十人に呼びかけ、佐々木健雄さんら総勢二十人の参加を決めた。
昭和50年 8月26日 財政危機、豊島区の施設計画に赤信号
昭和50年 8月26日  インフレと不況の同時進行で、区の財政は「行政コストの高騰と税収の落ち込み」というダブルパンチを受けて深刻な財政危機を招いている。この財政状況の中で、四十七年十月に策定した「豊島区再開発基本計画」(昭和六十年度達成)におけるコミュニティ施設などの建設計画に、大幅な再検討が余儀なくされるに至った。 これは豊島区だけでなく、都の中期計画や国の開発計画にも同じ現象が見られている。この時期に「健康にして明るい活気ある生活都市・豊島」の構想の中で、いかに区民サービスを低下させない施策がとれるか、大きな決断が迫られている。
昭和50年 9月9日 「人生横丁」の井田さん、住民福祉に尽くす
昭和50年 9月9日  池袋東口「人生横丁」の寿司「幸ちゃん」の主人井田洸三さん(60)は、協同組合の理事長で、町会の副会長。長年の間、困っている人がいれば身銭を切って世話をし、敬老の日や祭礼、町会の各種行事のときなどには、様々な寄付行為をしてきた。この陰の奉仕に同地区の民生委員の吉田定子さんは「井田さんのおかげで、どれだけ町内の福祉事業がやりやすくなったかしれません」と、その協力ぶりに感激している。
昭和50年 10月21日 区民農園を計画
昭和50年 10月21日  農地のない豊島区が農地を無償で借り受け、区民に野菜づくりを楽しんでもらおうという「区民農園」計画がたてられ、早ければ来年度から実施される。 この「区民農園」は、練馬区の農家の農地約五、六百坪を区が借り受け、区民に無償で貸すもの。区の案では、一人二、三坪のミニ菜園にして、それぞれが好みの野菜づくりで、土に親しんでもらおうという。
昭和50年 11月25日 国勢調査 5年間に9・4%減 世帯数増えて核家族化
昭和50年 11月25日  昭和50年度国勢調査の豊島区調査表が20日、都本部に送られるとともに、豊島区の概数が発表された。最終集計によれば、豊島区の世帯数は13万5千700世帯、総人口は32万888人(男16万千934人、女15万8千954人)で、45年の調査に比べると総人口で3万3千539九人の減。この5年間に9・47%減ったことになる。 国勢調査は、大正9年の第1回調査から今年まで、5年ごとに行われてきた。第1回の調査時には現在の豊島区の区域に約11万人の区民が居住していた。その後、昭和15年(第5回)の国勢調査時には、31万2千人と戦前の調査の中で最高の人口を記録した。ところが、太平洋戦争という大きな動乱の中で、都市の人口は激減し、昭和20年に行われた人口調査では9万2千人と10万台を割り、30万人台に回復したのは、昭和30年調査時の30万557人になってから。
昭和50年 12月2日 老人の生活調査
昭和50年 12月2日  豊島区内に住む65歳以上の老人の福祉サービス基礎調査の中間報告書が区の福祉課によってまとめられた。 この調査は、今年7月に「福祉サービス研究会」(代表淑徳短期大学・高橋重宏教授)に委託し「一般老人」「独居老人」「寝たきり老人」の3つに分類し、女子大生150人の訪問聞取りで行ったもので、調査対象は2千人を超える大がかりなものになっている。このうち調査票が回収されたのは「一般老人」696人、「独居老人」633人、「寝たきり老人」267人で、調査内容も学歴、家族構成、住宅、環境、収入、病気の有無、介助の必要、食事、寂しさをまぎらわす方法、耐久消費財の保有状況、「独居老人」にはその理由、緊急連絡先など、突っ込んだ質問を含め90項目にわたっており、中間報告書だけでも46nの資料になっている。報告の主な内容は【生活を支える収入】「一般老人」は仕事によるもの34%、次いで年金・恩給が32%、「独居老人」は生活保護が46%、年金・恩給が34%、仕事によるものが25%、「寝たきり老人」は年金・恩給が半数、生活保護が13%。【現在の暮らしをどう思うか】 「一般老人」は半数が満足していると考えているが、「独居老人」では37%、「寝たきり老人」は28%が満足、全体的には60%が不満。【さみしさをまぎらす方法】 最高はテレビ、ラジオで90%、そのほかでは友人との会話、趣味など。心配事の相談相手がいると答えたのは80%、いないが「独居老人」が21%。老人クラブへの参加は「一般老人」と「独居老人」を合わせて30%、加入していないが65%。
昭和50年 12月9日 心身障害者らに愛の贈り物「オムツ1万枚」
昭和50年 12月9日  寝たきりの重症心身障害者や特別養護老人ホームの入所者らに「オムツ」を贈る運動が今年も東京善意銀行の主催で行われた。豊島区では、民生委員婦人部(部長・棒葉しずさん、116人)の呼びかけで、区内の町会婦人部や婦人会個人有志が協力、このほど昨年を上回る1万千653枚が寄せられた。そのほか現金1万5千円と「オムツ」以外の品物166点が寄付され、関係者を感激させている。
昭和50年 12月26日 豊島区も大気汚染ゾーンに
昭和50年 12月26日  中央公害対策審議会環境保健部会(部会長・金沢良雄成蹊大学教授)は11日、大気系の公害病患者に医療費や補償給付を行う「公害健康被害補償法」の第1種地域に豊島区を含む東京の11区と岡山県倉敷市水島地区など、14地域を新たに指定した。 すでに指定地区になっている東京、大阪、名古屋の今回拡大部分を含めて計37地域。この地域内の人口は千200万人といわれ、国民の一割が大気汚染の中で生活していることになる。