赤レンガ駅舎の98年

     赤レンガの東京駅が完成したのは大正3年(1914)、今年は97歳です。
     完成までの歴史と完成してからの98年の軌跡をたどってみましょう。



駅舎が完成するまで 
 赤レンガの東京駅は6年半の歳月をかけて中央停車場として建設され、大正3年12月20日に開業しました。明治
23年に「市区改正計画の一環として新橋〜上野間を市内貫通高架線で連絡し、東京市中央に一大停車場を設置す
る」と決められてから25年目のことです。
 わが国の鉄道は、明治5年に新橋〜横浜間が開通し、明治15年には私鉄の日本鉄道会社が北の玄関口上野駅
を開業させます。しかし新橋〜上野間は長い間直結せず、市民の足としては不便なものでした。また、二つの駅を繋
ぐことは東北方面と東海道を結ぶ流通の大動脈を作ることであり、当時の経済界の期待も大きなものでした。
 中央停車場の設計は、当初、新橋〜東京間の高架線の設計を担当したドイツ人技師フランツ・バルツアーが担当
し、明治36年に当時の建築界の第一人者辰野金吾にバトンタッチされました。辰野は洋風建築に和風の屋根を載せ
たバルツアーの東京駅案に対して「赤毛の島田髷」と評しますが、平面計画はバルツアーの案を踏襲します。つま
り、南から乗車口、帝室口、市内電車口、降車口と配置されました。
 中央停車場は日露戦争の勝利を背景として、諸外国にも見劣りしない威風堂々とした建築デザインが要求され、
辰野は留学時にイギリスで流行していた赤レンガに白い石を帯状に配する華やかな様式を採用したのです。
 大正3年12月15日、駅舎は完成し東京駅と名づけられました。3日後の18日に行われた開業式典には青島(チンタ
オ)を陥落させた神尾中将の凱旋祝賀式も行われて駅前は華やかな装飾で飾られ、多くの見物人で賑わいました。

駅舎が完成してから
 東京駅が開業した日は24,702人の入場客で賑わい、その後も東京名所の一つとして親しまれました。しかし大正
12年9月1日の関東大震災にもビクともしなかった東京駅でしたが、昭和20年5月25日夜半、B29の焼夷弾により炎
上。東京を襲った大空襲の最後の一撃を受けたのです。でも懸命の消火活動で駅構内では一人の死傷者も出さず
に、27日には東京駅から5本の列車を走らせています。
 華麗なドームは焼け落ちて空が見える状態でした。物資が不足する中、一刻も早い復旧のため、ドームは角屋根
に、3階は撤去されて2階建てとして昭和22年3月に応急修理が完成しました。当時、4、5年もてばいいと言われた
応急修理でしたが、60年も持ちこたえたのは、当時の鉄道マンの技術の高さと心意気の証といえましょう。
 赤レンガの東京駅は昭和30年代の十河国鉄総裁の時代に建替え高層化計画がありましたが、当時は超高層ビ
ル建設の技術が成熟していませんでした。この時の研究は、のちに霞ヶ関ビルとして結実します。さらに昭和50年代
にも建替え計画がありましたが、日本建築学会が中心となって保存を働きかけました。昭和62年に再開発、高層化
問題が浮上した時は、副総理や関係省庁の大臣が建替え推進を申し合わせるという事態になりましたが、赤レンガ
の東京駅を愛する全国の市民の熱意が国の方針を転換させたのです。

 東京駅では、大正10年の原敬首相の暗殺、昭和5年の浜口雄幸首相狙撃事件、また駅舎内のステーションホテ
ルでは政治の舞台裏の駆け引きなどもあったようです。
 もちろん、東京駅を舞台に出会いや別れ、希望にみちた出発など人生の節目と東京駅が重なりあって記憶されて
いる人も多いと思います。それらを東京駅は95年間、見つめながら建っているのです。


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