自宅は池袋に近い。地元で何か紹介できるようなところはないかと思い、考えてみた。
名所が少ない場所だが歓楽街のすぐ傍に国の重要文化財がひっそり建っているのだ。今回は自宅から徒歩で行ける憩いの場を紹介しよう。

池袋今昔
戦前は東京の郊外で静かな文教地区だった。山手線の東口は雑司が谷の墓地に通じ、西は芝浦工業大学、豊島師範の広い構内に続き立教大学があるだけの静かな緑濃い美しい場所だったと記憶している。
戦後は一変した。闇市、巣鴨の刑務所、リックサック一杯に詰め込んだ芋の買出しの人でごった返した街、最近は凶悪な犯罪が多発する歓楽街、特に夜間は危ないので十分注意する必要がある。また、無法なチャリ族が歩道を我が物顔に占領する所、など悪名が高い。有名になったのはサンシャインビル程度でお世辞にも魅力ある場所とはいえないと思う。
よいイメージは何一つとしてない魅力に乏しい街だ。
生まれたときからここに住み、転勤で全国各都市を転々とし、舞い戻った者が云うのだから間違いなかろう。
ここは都内でも有数の歓楽街だが本当に美味いものを食べさせる店や特徴のある飲み屋はないと思う。最近はラーメン屋の競争が激しいと何かの雑誌で読んだことがあるが‥ ラーメンは好きだが、どう頑張ってみても所詮ラーメンだ。
池袋と梟(フクロウ)
この街の象徴は梟だという。確かに街を歩くと、いろいろなフクロウにお目にかかる。何故「フクロウ」なのかは分からない。一説によるとその昔このあたりは袋状の盆地であり、沼が点在していたという。池袋の名前の由来だ。それにあやかって「いけふくろう」⇒「ふくろう」となったという。実にナンセンスで無意味なことだ。右上写真にある石の彫り物は池袋駅JR東口に置かれており、デートの場所らしい。これから紹介する名所にも大谷石の彫刻があった。
わが憩いの場
だが、こんな、ガサツなところにも本当に静かで心休まるような場所が少数だがあるのだ。
その一つはこれから紹介する国の重要文化財に指定されている自由学園、明日(ミョウニチ)館である。もし池袋に立ち寄られるようなことがあったら是非訪問をお勧めする。また、誇るに足る文化施設はやはり西口にある東京芸術劇場だ。東京都の持ち物だが特徴がある建物でコンサートホールとしては有数のものだ。さらに豊島区で数少ない美術館がある。これが熊谷守一美術館だ。

明日館
駅西口から徒歩5分、この雑踏と喧騒の池袋の近くとは思えないほど静かな住宅街がある。この重要文化財はその一隅にある。


桜のころの明日館
(07/04撮影)

明日館大食堂(
07/04撮影)

前掲の文章にもあるとおり彼は岐阜県の出身であったが後に豊島区の現在地に居を移したと言われている。自宅跡に作られたのがこの美術館だ。現在ここを守っているのは娘の榧(カヤ)さんである。
ここは散策のコースでもある。静かな住宅街の一隅にあり、建物は装飾が殆どないコンクリートを打っただけのものだが中は一階が作品の展示室、地下は喫茶室となっている。
一階部分は一部が半地下になっており、椅子に座ってガラス越しに外を眺めると目線がほぼ地上すれすれになり、意外な景観になる。ここには守一氏や陶芸作家の榧さんの作品が展示され、それを購入することも出来る。展示されている作品の数は30点ほどでそう多くはない。
一通り観て回ったら地下のカフェで陶器の作品を眺めながらコーヒーをすするのもよい。雰囲気は上々だ。

★作品の中から4点をスライドで示します。
下の右側ボタンを押すとスライドが始まり左のボタンを押すと中止します。

長崎アトリエ村(池袋モンパルナス)
冒頭、この街はガサツでつまらない街だと書いたが、1930年代には「池袋モンパルナス」という言葉があり、芸術家の卵たちが、活動していた所だという。前記熊谷守一氏がその一員であったかどうかは知らないが美術家が中心であった。

才能と若さと可能性をもてあましつつ、名声と富に恵まれなかった若者たちが集まったフランス、パリの歓楽街、モンパルナスにあやかって付けられた名前らしいが、場所は長崎界隈から池袋にかけてであり、いくつかのパルテノン(貸アトリエ)が存在していたと言われている。パリのように昔は 池袋でも、駅から歩いておよそ二十分の範囲の麦畑や大根畑や、葦や芒がおいしげる湿地に、貸アトリエの集落があった。大きいものだけでその数五つはあったと云われている。

そして辺りが暗くなり繁華街にネオンが灯る頃になると、その住人たちは夜な夜な当てもなくフラフラと吸い寄せられるように集まっていたというが‥
この「長崎アトリエ村」の発祥の地が要町というところであり、正にわが家の居住地なので、痕跡がないかと辺りを探訪したが、何処を探してもそのような建物は現存していない。この辺も戦時中の爆撃で焦土と化したので当然だ。
自宅の数軒先に二つの大きなアトリエがあった。一つは鶴田画伯のアトリエ、もう一つは彫刻家の多田氏のアトリエであった。いずれも大きな母屋に廊下でつながっていた。幼い頃何回か内部に入れてもらったことがある。大きな天窓のついた明るく広い床張りの制作室があり、中には製作中の画や彫刻、数多くの作品群、製作用具などが並んでおり、日常目にする光景ではないので驚きで一杯だった。アトリエの主はいずれも貫禄十分な芸術家で畏敬の目で眺めたものだ。

これ等のアトリエは奇跡的に戦火を免れ、しばらく存続していた。特にヒマラヤ杉と大竹で囲まれた鶴田画伯の母屋とアトリエはつい最近まで現存していたが、代も変わり老朽化が著しく、素晴らしかったヒマラヤスギも含め総てが取り壊され、優に200坪はあろうかという空地になったままだ。噂で聞いた話では子孫に当たる方が、由緒ある木造建築物を保存しようと区に働きかけ、念入りな調査があったらしいが、区の台所も火の車であったので結局目的を果たせなかったらしい。取り壊される直前に中庭に入り、壊れたガラス窓からアトリエの中をのぞいてみた。主の居ないアトリエ内部はすっかり荒れ果て、見る影もなく、幼い頃ドキドキしながら見た光景は何処にもなかった。時代の移り変わりとはいえ残念なことだ。由緒ある古い建物がまた一つ消えた。

「池袋モンパルナス」は地元の住民としてはかなりの興味をそそられる史実だ。このことを少し知りたいと思い駅近くの「豊島区立郷土資料館」に出かけてみた。
主たる展示品は模型や古い道具類、資料などだがわが豊島区を象徴するものとして雑司が谷の鬼子母神(このサイトで紹介済み)池袋のヤミ市、駒込巣鴨の園芸市、などと共にここで述べた「長崎アトリエ村」の展示も行われていた。


アトリエ村の模型

アトリエの内部模型

室内の間取

解説によると東京の郊外にも大正デモクラシーの流れを受けて昭和の初期には自由主義的なモダニズムの文化が生まれつつあったとのこと。住宅も和風建築に洋風な応接間などを組み込んだ文化住宅が流行ったらしい。
HPを作るので調べるといろいろなことがわかって面白い。少し池袋を見直した。(04/02/21)  もどる

くわしい地図はここ美術館 > 熊谷守一美術館 (地図)をクリック

わが街   いけふくろう?

以下はパンフレットからの抜粋である。

自由学園明日館(みょうにちかん)は、1921年(大正10)、羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園の校舎として、アメリカが生んだ巨匠フランク・ロイド・ライトの設計により建設されたという。空間を連続させて一体構造とする設計は、枠組壁式構法(2×4構法)の先駆けとの見方もあるという。
木造で漆喰塗の建物は、中央棟を中心に、左右に伸びた東教室棟、西教室棟を厳密なシンメトリーに配しており、ライトの第一期黄金時代の作風にみられる、高さを抑えた、地を這うような佇まいを特徴としている。プレイリースタイル(草原様式)と呼ばれるそれは、彼の出身地・ウィスコンシンの大草原から着想を得たもので、池袋の界隈に開放的な空間を演出している。
 1934年(昭和9)に自由学園が南沢(東久留米市)に移転してからは、明日館は主として卒業生の事業活動に利用されてきた。その後、明日館の歴史的、芸術的価値が評価され、1997年(平成9)5月、国の重要文化財指定を受けた。
関東大震災や第二次世界大戦の空襲からも免れた明日館だった、80年の歳月のなかで老朽化が顕著になったため、1999年(平成11)3月から2001年(平成13)9月まで保存修理工事が行われ、同年11月に再開業した‥云々

旧帝国ホテルの設計者であるライトが手がけた木造建物というのが非常に面白く歴史的な価値があると思う。前面は芝生で覆われ桜の木が植えられている。シーズンになれば一段と映えるだろう。

<内部の模様>


中央ホール

教室
@

教室
A

ピアノと木の椅子

会議室

ホールで飲んだコーヒー

木の温もりが感じられ、外光を巧みに取り入れた構造であり、ライト建築の幾何学模様が随所に見られる大変居心地のよい空間である。中央のホールで茶菓の接待もあり、ここに居るとしばし世間の雑踏や煩わしさを忘れることが出来る。

●場所 池袋駅西口 メトロポリタン口から徒歩5分
左図左下 豊島区西池袋2‐31‐3 
電話03-3971-7535
●開館時間 10時〜16時 (毎週月曜日休館)
 ●見学料 個人600円(喫茶付)
 

<東京芸術劇場>
有数のコンサートホール・ここは池袋としては立派
◆下の絵は売られていた絵葉書の一部(写真のものもあるがこちらの方が味がある)

熊谷守一美術館
ここはわが家から徒歩数分程度の至近距離にある個人の小さな美術館である。
熊谷守一(くまがいもりかず)/画家とは?どんな人だったのだろうか。
以下はモノログ:since 2002-09-13からの引用である。

1880年岐阜県に生まれる。裕福ながら複雑な家庭に育ち、のち家の没落にあう。東京美術学校(現東京芸大)西洋画科選科卒業。同級生に青木繁がいた。30代の6年間を郷里でくらし、そのうち二冬を山から切り出した木を川に流す日傭をして過ごす。上京後、二科会で発表。大変な貧乏暮らしで、風貌から「仙人」と呼ばれ、その画仙的な生きざま、作品、書が、多くの文化人を魅了する。86歳に文化勲章の内定を辞退するなど、ただ自由に自分の時間を楽しむことだけを望んだ生涯だった。1977年、97歳で亡くなる。郷里の岐阜県付知町に熊谷守一記念館。池袋自宅跡に熊谷守一美術館がある。
複雑さを超越し、一見単純なかたちと色をもつ作品はその人柄からも“天狗の落とし札”と形容されて独特の宇宙を築き上げ、今の多くの人を惹きつけてやまない。


全景

イーゼルと作品

内部の模様
油絵は4号程度の作品が多く殆どがカンバスではなく、木の板に画かれている。また、何点かの書も展示されている。かつてはここに自宅があり、晩年の十数年間は15坪程度の庭から外に出ることはなく、草木や昆虫などを観察し、作品にしたといわれている。