音楽のたのしみあれこれ

正面入口
<最近見つけた名曲喫茶店>
阿佐ヶ谷の北口にある「ヴィオロン」というクラシックレコードの喫茶店に行ってみた。あるサイトで発見し面白そうなので立ち寄ってみた。男性のマスターが一人でやっている店で、雰囲気は非常によい。
特にCDではなく総てレコードなのが良く音響も満足が行くものだ。アンプは真空管でヴィクトローラ クレザンデという名機だそうだ。コーヒー一杯400円は安い。

◆所在:杉並区阿佐谷北2-9-5 .03−3336−6414
火曜日定休 駅北口を出て荻窪方面へ向かい徒歩約5分程度

1.名曲喫茶の今昔

学生時代、と言っても50年も前の話だが授業を受けに行くと、お目当ての科目が休講になっていることが頻繁にあった。
そのまま家に帰っても仕方がないので、学生食堂で駄弁ったり、近くの喫茶店や、甘味店に行き時間を潰した。
これは決してむだなことではなかった。
当時はLPレコードが売り出された時代で名曲喫茶があちこちに誕生したが、コーヒー一杯でクラシックを聴きながらいろいろな話が出来た。聴きたい曲をリクエストすると順番にかけてくれたが、コーヒー代は学生にとってはそれなりの出費だったので混んでいて順番が回ってくるまで粘ったことが多かった。
青年期に足を踏み入れたばかりの若者の理想や夢を熱っぽく語り合い、時のたつのも忘れていたものだ。古き良き青春時代の思い出となり人生の肥しにもなっていると思う。

「らんぶる」という店によく出入りしたが、当初は新宿に出店していたものが少し経つと地元にも現れた。渋谷に「ライオン」というすごい店があるというので遠征したこともある。薄暗い店の中でいかにもクラシックの通らしい若い人々が深刻ぶった顔つきでジッと聴き入っていた。おしゃべりでもしようものなら「ウルサイ!」とばかりに、にらみつけられたものだ。
中には音楽に没頭する余り夢中で棒振りのまねごとをしている人もおり、見ていると可笑しかった。
聴きたい曲をリクエストし、その曲が聴けるまで長時間粘ったものである。

因みにこの店は今でも当時と殆ど変わらない佇まいを見せている。場所は道元坂を右に入った狭い横丁に面している。中の雰囲気も変わっていないので、50年前にタイムスリップした気分になる。
今でも渋谷に出向くときには懐かしさのあまり立ち寄ることがある。せいぜい居ても30分程度であるが昔とは異なり薄暗い店内の客は意外に生活に疲れた初老と思しき人が多く、音楽を聴くというよりあてどもなく時間つぶしや居眠りをしにきているようにも感ずる。勿論私もそんな一人だが‥
現在も時折懐かしいレコードを聴かせることもあるが、殆どはCD録音になっている。再生装置は大型だが音がとびきり上等とは感じない。自宅のオーディオもまずまずなので耳が肥えてしまい驚かなくなったのかもしれない。
時代も変わり、うまいコーヒーがセルフの立ち飲みで安く飲めるようになり、音楽も音がよいリーズナブルなオーディオやCDが普及し、このような店は都内にはもう数えるほどしかない。時代が大きく変わったのだ。

しかし、この喫茶店の歴史は古く、貴重なSPやLPのコレクションが沢山ストックされている。
これ等をPCのハードデスクに落としてデジタル化しCDに作り変えたらと勝手なことを考えてしまうのだが‥
しかしSPの変換は技術的に難しいかもしれない。また、著作権法との絡みも出てくるかもしれないのでそう簡単なものではないだろうが‥。

確か新宿に「らんぶる」は一軒残っているはずだ。歌舞伎町に「スカラ座」という蔦に覆われたレンガ造りの店があったが既に廃業したと聞いている。同じく「風月堂」は営業しているのかなぁ。一度たずねてみようかな。




中野駅北口にある古い店
音楽に興味を持ったのは高校時代に、近所のクラシック好きのT.U君とよく往き来があったことであるが、大学に入りK.M君と「芸術研究会」というサークルに入り啓発されたこともある。
このサークルは簡単に云えば[レコード音楽鑑賞会]であった。部室に顔を出すと手作りの再生装置がありレコード音楽が鳴っていた。女子学生も何人かメンバーだった。
リーダーはOさんという先輩で確か4年生であったと記憶している。
彼の風貌は学者風であり、態度は非常に老成しており言葉遣いも紳士的で丁寧であった。我々新入生に対しても決して先輩面をしたり威張りくさった態度を見せることはなかった。
音楽や芸術に対する造詣は深く尊敬するに値する人物であった。(以上は思い出話からコピー))

音楽に聴き方などはない。その時の状況や気分によって好きなジャンルの音を好きなように聴けばよい。
音楽は書いての通り「オトをタノシム」ものだから。しかし楽しみ方にはいろいろあると思う。
録音やライブをスピーカーを通して聴くのと演奏会場へ足を運び、独特の雰囲気とともに聴く生の音楽ではおのずと異なるのは当たり前だ。
生の演奏会は聴くこと自体目的だから始まる前の期待、プログラム、演奏家の身振り手振り表情、休憩時間のロビー、終了後の余韻と演奏そのもの以外にも楽しいことが多いが、スピーカーやヘッドホンを通して聴く音楽の楽しみも自由な楽しみがある。
私は家にいる時クラシックを無差別に流すのが好きだが、音量は出来るだけ絞っている。近所迷惑だからである。
いくら自分では良いと思っていても他の人には騒音に過ぎないこともある。今はオトに敏感な人が多くクレームをつけられる怖れもある。
酒を飲みながら聴くこともあるし、何か他のことをしながら一種のBGMとして聴いていることが多い。
本当に聴きたいと思うときにはヘッドホンで集中することにしている。だからヘッドホンにはカネをかけ性能がよく疲れの少ないものを選んでいるが、もともと散漫で飽きっぽい性格なので長続きはしない。
クルマの中で聴くのもよい。かつてはCDオートチェンジャーというものをトランクの中に設置し予めカセットにセットしておいた曲を無差別に片っ端から聴いていた。これは長距離ドライブのときに眠気防止に役立った。
この時にはあまり普段聴くことがない近現代のものや、宗教音楽をセットしておくと選択の余地がなく新発見の楽しみがあった。

2.手作りの再生装置やLPのこと

真空管
ターンテーブル
レコードラベル
レコードジャケット
レコードジャケット

ステレオやオーディオは今や誰でも持っている家電製品だが、当時は高嶺の花だった。、電蓄という装置があったが高級品で普通の家では5球スーパーというラジオでNHKやFENのAM放送を聴いていた。
私は勉強は大きらいで、いつも及第点すれすれだったが図工は得意だった。鉱石ラジオや模型の飛行機、鉄道などの工作は大好きであったが本格的にアンプを作った経験はなかった。

製作に取り掛かったが非常に苦労した。近くの電気店、詳しい友人、秋葉原の部品屋のオヤジ等にいろいろ教えてもらい、アルミのシャーシー、トランス、真空管、コンデンサー、抵抗器、スイッチ等、各種のパーツを買い、参考書や簡単な設計図を基に半田ごてやペンチ、ドライバー、テスターを駆使してそれらしきものを作り上げた。
アナログのモノラルアンプであるが筐体はなく総てがむき出しの代物である。

今は2〜3万円も出せば結構質のよいアンプが手に入るが当時は自作しか方法がなかった。電源トランスと出力管がポイントだと言われた記憶があるが、その真空管は確か42か6V6とかいわれていた。
製作過程等はすっかり忘れたし専門的になるので記述するつもりはないが、試行錯誤を繰り返し、やっと音が出たときにはうれしかった。
もともと自宅のラジオの調子が悪いときにはドカンと叩いて治すようなバカなマネはしなかった。
接触不良や部品の劣化が原因であることがおおいので、テスターを使って確かめて小さな故障は治していたので何とか完成にこぎつけることが出来たのだと思う。
そのお陰で今でもあらゆる電気製品の故障や取り扱いには比較的詳しく、説明書、マニュアルを読んだり電気製品を見て回るのは大好きである。

当時プレーヤーはイギリス製のガラードのオートチェンジャーが有名だった。そのメカニズムを一目見てスゴイ機械だと仰天した。欲しいなと思ったが手が出る代物ではない。自作以外にない。
先ず台座を木で作り、モーターとピックアップを取り付けたが、これはターンテーブルの内側のアイドラーをレバーで機械的に切り替えることによりSP、LPの回転数を変えており、赤井電機という会社の製品だった。当時アカイのモーターは有名だったと記憶している。
ピックアップとカートリッジは音源を拾う非常に大事な部分だが、クリスタルは出力が大きく安価であったので、一体型の製品(アイワと記憶している)を購入した。本当はオイルダンプかピッカーリングのトーンアームにマグネットのカートリッジが欲しかったが、高くて手が出なかった。
このクリスタルのカートリッジは先端につまみがありそれを反転するとLPとSPの針が入れ替わり針圧はスプリングで調整されるなかなか凝ったメカニズムであった。当時モーターもピックアップも街の工場のような中小メーカーが作ったものであり、日本の物作りの原点を見たような気がしている。

プレーヤーの工作は単純でメーカーの取り付け図面が付いていたので比較的楽だった。
レコードの溝をトレースするサファイア針の圧というのが重要だということであったが、ゴロゴロ鳴るモーターの音も絞れば気にならず音飛びも少なかった。
よい音を出すにはスピカーがポイントだというのでハコを木で作り、口径の大きい「コーラル」という製品を取り付けた。
何しろ低音さえ出ればよいと考えていた時代だった。
今はクラフトのハコで鳴らす人は限られた人だと思うが当時スピーカーキャビネットは売っていなかった。現在市販されているオーディオスピーカーは小型の製品が多く、それでも十分な低音が出るが、スピカーの性能が格段によくなりハコ自体の構造も工夫されているので当然だ。
現在は手作りスピーカーの大家として有名だった故長岡鉄男氏の設計になる魅力的で不思議な形をしたキャビネットのキットも市販されているが、こんなものが「あの時有ったらなぁ」と思う。

近所にTU君という同年輩の友達がいた。彼は私以上にクラシックレコードを聴くのが好きであり、よく往き来していた。
あるとき彼の家に遊びに行って仰天した。彼は当時珍しかった大型の電蓄を持っていたが、その横にまるで「棺おけ」を一回り小さくしたような木製の箱が縦に置かれ、上部にの穴にスピーカーが設置され、下部は四角いポートが作られていた。
この異様な木のハコはバスレフというバッフルで低音がよく出るとのことで、近所のラジオ店のお兄さんが総て設計製作し取り付けたという。そしてアンプは電蓄を改造し、6V6のプッシュプルにしたと説明した。

その時ブルーノワルターが指揮したベートーベンの英雄交響曲を聴かして貰ったが、正直言って低音はボンボンと箱鳴りし、貧弱で乾いたようなヘンな音がした。一応「スゴイ!」とほめておいたが、この音なら電蓄の音のほうがはるかにマシだと思ったのを覚えている。この改造には相当なカネを要したと思われた。
私は近所の木工店でラワンの端材をただ同然で手に入れ、ハコを自分で作ったが音響力学は無知でありバスレフは困難と判断し、サイズを小さくしてエンクロージャーにした。
苦労したのはスピーカーに合わせてバッフルに丸い穴を開けることだったが、糸鋸でトライしたが失敗し、木工店のお世話になった。内部に吸音材を貼り、ハコをサンドペーパーで磨きニスを塗って完成させた。見た感じはマアマアであった。肝心の音のほうはラジオより少しマシという程度だったがその後しばらく使っていた。
リスニングルームは和室の6帖間で、近所迷惑になるのであまり大きな音は出せなかった。不恰好でごちゃごちゃした機器類を設置したのは床の間であった。
当時は掛け軸もなくガラクタの置き場だったが、床が木でできており安定性があったので装置一式を床の間に設置して聴いていた。
一番気を使ったのはプレーヤーを水平に置くことで、水準器を買ってきて水平になるように注意を払った。

だが、 オーディオのクラフトはこの時限りでやめてしまった。
その後の経済発展、新技術の開発でメーカーから次々にトランジスターを使った音質の良い製品が比較的安価で提供されるようになり、クラフトする意欲が無くなって行ったからである。

3.LPレコードやラジオで聴く音楽
学生時代にアルバイトで貯めたカネで初めてLPレコードを買った。宝物のように大切に扱った。
レコードは磨り減るというので聴くときは真剣そのものだった。再生装置の針圧には特に気を使った。

レコードといえば当時は78回転のSPから33回転(ドーナツ盤という45回転のレコードもあった)のLPに変わりつつあり、音質は驚くほど向上していた。
前に述べたような名曲喫茶でよく聴いたレコードは古典からロマン派にかけてのものであり、ビバルディ、バッハ、モーツアルト、ベートーベン、ブラームス、チャイコフスキー、ショパン、といった作曲家のポピュラーな名曲の数々であった。
演奏家でよく覚えている人は指揮者のトスカニーニ、ワルター、カラヤン、オーマンディ、アンセルメ、ミュンヒンガー等、ヴァイオリンのハイフェッツ、フランチェスカッテイ、ピアノのギーゼキングなどの人々である。彼等のレコードが音楽喫茶ではもてはやされていた。

但しレコードの値段は高く、確か一枚3000円程度したと記憶している。当時の学生には簡単には手が出なかった。国内メーカではコロンビア、ビクターが主でドイツグラモフォン、や外国のウェストミンスターの廉価版なども売られていた。売っているところはヤマハとか山野という有名楽器店に限られていた。

最初に買ったLPレコードは確かコロンビアから発売された、モーツアルトのビアノ協奏曲26番、戴冠式であり、演奏家はカサドジュというフランス人であった。その次が同じくモーツアルトのクラリネット協奏曲で本来はジャズプレイヤーであるベニーグッドマンがクラリネット独奏をしたものだった。その後、コレクションは徐々に増えていったがどんなコレクションだったのか覚えていない。
当時のレコードはプレスが悪いためか保存がよくないためか分からないが湾曲しているものがあり、それをターンテーブルに乗せ回転させると、トーンアームが上下に波打つのであった。

また、ラジオ放送もよく聴いたがクラシック放送では米軍のFEN(極東放送)が定時によくNYフィルの演奏会の録音を流していた。この放送の指揮者でよく聴いた名前はミトロプーロスであったが、なかなか良い番組だった。ただ当時は総てAM放送であり雑音が多く聴きづらいこともあったが‥

この頃が一番楽しく、社会人になってしばらくすると仕事や付き合いと称する「夜遊び」で忙しく、クラシック音楽からは疎遠になり、軽音楽特にムード歌謡曲、ハワイアンやダンスミュージックに夢中になった。
さらに度重なる転勤を機にこつこつ貯めたレコードを殆ど処分してしまった。重く場所をとるレコードを持ち歩くことに抵抗があったことが原因である。今考えると「もったいないことしたな」と後悔しているが‥

再びクラシック音楽に親しむようになったのは50歳を過ぎてからである。 もどる

BGMはチャイコフスキー作曲の「花のワルツ」で約3分程度