本を読んで感じたこと、なるほどとおもったこと

○城塞

*秀吉の死後、家康は豊臣政権の相続者たろうとして、狡智をつくし、関が原決戦という政権継承へと進んでいく。これは合戦の現場の戦闘そのものよりも、それ以前の政略において絶対的な有利を占めていた。豊臣の「党禍」をついた絶妙の狡知。石田三成ら文官派と加藤清正、福島正則らの野戦武将派の抗争を旨く利用した。この双方は利害というよりも、根っこは、突き詰めていくと単純な感情的な問題でしかく、その間隙を家康にまんまとつかれ、やがて大阪冬、夏の陣を経て結果的に家を潰された豊臣家と正反対に徳川家は300年近く泰平の時代を作っていったのである。

・秀吉は、織田信長の一武将にしか過ぎず、それが織田政権の末期近江二十万石の大名に初めて抜擢されたが家来の絶対数が足りず地元「近江衆」を大量に召抱えざるを得なかった。石田三成、長束正家、などがそれであり、彼らは滅亡した浅井氏との主従筋が多く、当然ながらその浅井の出身である淀殿、秀頼に忠誠を誓いながら中央の政権を実務的に担う者になっていった。これに対して一大反発していったのが秀吉と同郷の尾張出身者であった。召し抱えられた時代は殆ど一緒だが加藤清正、福島正則らは秀吉が、親衛隊としてたえず身辺におき戦場の経験をさせ武官として教育した。「尾張衆」は秀吉の正室、ねねの世話になり育てられた。
 「近江衆=淀殿」、「尾張衆=ねね」はそれぞれ結束していった。豊臣政権が成立すると「尾張衆」は遠国の大国を貰い。「近江衆」は上方で小封を貰った。「尾張衆」は「遠ざけられた」とひがみが強くなっていった。朝鮮出兵など大きな戦があると小封の近江衆から出兵命令を受けざるを得ない心理的苦痛を持ち続けていた。
・家康は、これらの一切を見通し、特に「尾張衆」の心理を繋ぐため秀吉が病に倒れてから、ねねの所に日参したりして、加藤、福島らを旨く、家康がわにつけた深謀は大した物である。(03/20/05)