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燈籠山祭りの歴史
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一部の写真はクリックして頂くと大きくご覧になれます。
*写真は保存会のご好意によって掲載させていただきました。
ご協力本当にありがとうございました。
これらの転載はご遠慮下さい。
起源
燈籠山祭りの起源は寛永初期(1624〜1643)にさかのぼり、
七月下旬土用入り前後の最も暑い頃、
春日神社に祀りしてある天児屋根命(あまのこやねのみこと)
をはじめ七柱の神々を夕涼みに町内へお出まし願ったのが始まりと言われている。

春日神社
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例祭を記した記録には載っておらず、
日取りから臨時祭・町衆を中心に始まった都市型の祭り、
大漁祈願・商売繁盛の恵比寿祭りがそもそもの始まりだったと思われる。
初期の祭り
現在の大町交差点バス停にはかつて里程標が設けられており、
その角々に青竹を立て、
注連縄を張り、
御仮屋とし榊神輿を迎えた事が延享4年(1747)の記録に残っている。
榊神輿渡御には町の有志を始め、
神社総代のデンガク燈籠や、
高張り提灯などに灯りを入れ賑やかにお供をして神社への送り迎えをしたと伝えられている。
この榊神輿渡御の神事は一時期途絶えていたが平成3年に復活し、
現在も20日(おすずみ祭)の各町会山合同運行の際に見る事が出来る。
なお御仮屋の場所は大町交差点から現在は南濱町へと移されている。
榊神輿渡御と町内に設けられた御仮屋での神事の様子。

燈籠山のはじまり
文化・文政の頃(1804〜1830)、富山県氷見の山車に模して町の有志が
作ったのが始まりであると言われているが、富山県高岡あるいは滋賀県長浜
のものを真似たとの説もあり、発生ははっきりしていない。
全国で燈籠・行灯型の山車を出す祭りが特に集中している地域は2ヶ所あり、
一つは
「ねぶた」や
「竿燈」を出す東北地区、
そしてもう一つが
「キリコ」
「夜高」
「たてもん」
を代表とする能登・越中の北陸地区となる。
燈籠山は先に述べた氷見や高岡・長浜の曳山文化と東北と北陸に代表される燈籠・行灯文化を融合した物と考えられる。
これは北前船に代表される航路による交流が盛んだった時代が祭りに多くの影響を与えたものだと思われる。
春日神社の葛原秀藤の日記「秀藤日記」によると、文政十一年(1828)の臨時祭の
記事に「細長燈籠」「小角燈籠」「長燈籠」「六月祭礼の燈籠」などが出たと記され、
最後の「六月祭礼の燈籠」が燈籠山の事ではないかと思われる。
この記録は、
キリコ(能登特有の山車)に関する特に古い記録の一つであるため、
燈籠山はキリコと同じ頃、又はそれ以前に成立していたと考えられる。
しかし、当時の形などはわからず、燈籠山が出来上がってきた過程にも資料がまったくない。
明治〜大正
初期の燈籠山上部の飾りは、鯉の滝登り・太鼓に鶏・菊水などであったが、明治に入り大塔宮
(おおとうのみや)などの歴史的な人物を題材に人形を飾るようになっていった。
往時は飯田町に7基の燈籠山が曳き廻され、
各町内では各々の人形の出来栄えを競い合ったと言う。
大正4年度「大正天皇 御大典記念」には燈籠山の枠障子や高欄・鬼板などで通りを飾り立てた事が残された写真で分かる。
この様に燈籠山は祭礼以外の特別行事などでも用いられ、
人々を楽しませていた事がうかがえる。

大正3年度 大正4年度
電線架設工事始まる
大正3年飯田町に電線架設工事が始まり、
高さ16メートルを誇る燈籠山はしだいに曳き廻される事が出来なくなり、
人形や大台・小台といった装飾を取り外し、
地山と屋台部からなる曳山として運行されるようになっていった。
当時屋根には、四本柱を差し込む四角い穴が開いたままだった為、
これを隠す目的として、屋根の前後に竹を細かく広げた物に造花をつけて飾ったと言う。
一時期途絶えていたが、平成6年に吾妻町がこれを復活。

昭和の時代
昭和に入ってからも一部の町内では燈籠山を出していたが、
運行はされず飾り山としての役割が大きかったと考えられる。

昭和11年度 昭和15年度
昭和30年代後半から、
各町内の曳山は、唐破風入母屋根・金箔・漆塗の豪華なものに作りかえられていき、
これが現在曳き廻されている各町内の曳山にあたる。
現在町内を曳き廻されている金箔・漆塗の豪華な各町内の曳山
やはりこの頃も祭礼以外でも催物などに出されていた様で、
昭和39年「国鉄能登線全通記念」では高さ約6メートルのミニ燈籠山が出されている。

昭和39年度 昭和46年度
昭和58年 燈籠山復活
往時の燈籠山運行を是非見たいという町衆の強い願いから、昭和58年ついに燈籠山1基が復活する。
復活の際、各町内の蔵に残されていた燈籠山の部材を集め、地山・屋台部が製作され、
大台・小台はこの時新調された。
また最上部の人形(昭和58年度の題材は大黒天)は故:川元正一氏の指導の元、町の精鋭たちによって製作された。
復活した昭和58年7月の祭礼本番、初日にあたる20日はあいにくの雨にみまわれ、合同運行は中止に、
しかし二日目21日は快晴、無事町内曳山との合同運行に参加、
打ち上がる花火を背景に人々に勇姿を見せた。

同年秋、燈籠山復活にともない、燈籠山保存会及び、祭礼委員会が結成され、
復活した燈籠山はそれ以来ほぼ毎年祭礼に曳き出されている。
時代は平成
平成元年度、
和倉温泉の創立40周年記念「能登五大祭に触れる集い」に出陣し、
小木の伴旗・
七尾のでか山・
石崎の奉燈
・輪島の御神乗太鼓と共に多くの見物客を魅了する。
初めて集結した能登五大祭、各地区の山車。

無形民俗文化財に指定
平成8年度燈籠山は珠洲市の無形民俗文化財に指定される。
掲載された新聞記事
同年若山川河川整備に従い新しい吾妻橋が架けられ、
港地区から橋までの横架線も取り除く事が出来、
燈籠山運行の範囲が広がる事となる。
以来、橋に並ぶ各町内の曳山と中央にそびえ立つ燈籠山、
そして打ち上がる花火は祭りの見せ場となった。
吾妻橋に並ぶ各町内の曳山と燈籠山

新調された吾妻橋には恵比寿様と大黒様の人形が飾られ、
欄干は燈籠山や町内曳山をあしらった装飾が施された大変豪華な物となっている。
新調された吾妻橋
また平成10年度には飯田バス停にあいあいパークが建設され、
ここには町民によって製作された燈籠山祭りの壁画が飾られている。
あいあいパークと燈籠山祭りの壁画
新世紀へ
新世紀をむかえ、これから燈籠山祭りはどうなって行くのか。
昭和58年の復活から保存会・祭礼委員会の結成、
時代は平成に変わり市の無形民俗文化財にも指定された。
年々取材なども増えてはいるが、全国に向けてまだまだ情報を発信していく必要がある。
近年TV・新聞等の取材も多くなった燈籠山。
燈籠山が運行されているのは復活当時港地区のみであったが、
平成8年に吾妻橋まで出来るようになった。
平成2年度新道路が落成し燈籠山を運行させたいという願いから燈籠山通りと命名されるが、
当時港地区から燈籠山通りへは横架線が残っており燈籠山の運行はされなかった。
燈籠山通りを運行される各町内の曳山。当時春日通りから燈籠山通りには横架線が残っていた。

しかし燈籠山通り完成から19年後の平成21年春日通りの拡張工事が完了、港地区から春日通り、
そして燈籠山通りへと横架線の無い道がつながり、各町会・そして燈籠山の合同運行が実現する。
この年は5月に落成記念行事も行われ、町内曳山数基と燈籠山が春日通りを運行した。
平成21年 春日通り拡張完了・わくわく広場完成記念の様子。

将来は町全域を燈籠山が運行出来る様に、
そして現在1基だけ残る燈籠山を2基3基と増やして行きたいと言う意見も出て来ている。
これらを現実にするには人を必要とし、過疎化著しい珠洲市の中で飯田も同じ問題をかかえている。
近年曳手の不足から県外よりボランティアの参加を募る試みも行われていが、
地元出身者の流出を防ぎ、帰省者の確保も考えていかなければならない。
課題は多いように思われるが、燈籠山を復活させ今現在も運行している町である。
この心意気があれば今後も課題を解決し、
この日本一の燈籠祭りを全国に向け伝えて行く事が出来るだろうと思われる。
「祭りにゃ〜帰ってこいや!」進学・就職にと都会へ出ていく若者を能登の人間はこう言って送り出す。
そして能登の若者は正月でも盆でもなく、自分の生まれ育った故郷の祭りに帰ってくる。
親が待っている、じっちゃん・ばっちゃんも待っている、幼なじみと酒を飲み、
燈籠山を曳き、子供の頃の思い出話に花を咲かせる。
親と子、人々のつながり、町の統一性など祭りが担う役割は大きい。
守っていかなければならない、先人達が残してくれたこの燈籠山を、そしてこの祭りを…。
2011年1月28日更新
<参考資料>
書籍:
写真譜・能登の祭り歳時記 [桜楓社]
キリコの祈り [蒼洋社]
奥能登のキリコまつり [奥能登広域圏事務組合]
加越能の曳山祭 [著者:宇野通 能登印刷出版]
能登キリコ祭り [せいしん社]
能登の飯田 [飯田町を知る会]
能都キリコ祭り振興協議会
畝源三郎のホームページ
ようこそ福野夜高祭へ
青森ねぶた正調囃子保存会
津軽の侫武多