January 17, 2004

愛の物語

例えば、こう考えてみる。
モーニング娘。には、結成の当初からつねに二つの物語があって、それらが重なり合うようにして成り立ってきたのではないか。その二つのものを、「公式の物語」「非公式の物語」と呼んでみることにする。

「公式の物語」は主に「つんく」からもたらされてきた。メンバーの加入とか、新曲のインパクトとか、そしてごっちん以降のメンバーの「卒業」もまさに「公式の物語」だ。「公式の物語」の展開は、ある日突然天から降ってきたもののごとく「つんく」の口から娘。たちおよび私たちファンに告げられる。
おそらくこの物語はモーニング娘。という「ビジネス」と直結していて、この「公式な物語」の展開こそが「ビジネス」としての娘。を発展させると「事務所」は考え続けてているのだろう。

「公式の物語」はしばしば娘。たち個々に「不条理な試練」を強いる。せっかく手売り5万枚を達成し結束を固めたオリメンのもとには最悪のタイミングで異物たる新メンバーが送り込まれ、なっちはNYに不要な「本格修業」に飛ばされ、彼女たちが築き上げてきたイメージをぶち壊す珍妙な振り付けを与えられ(LOVEマシーン)、やがて時は経ち心から愛していた自分のユニットの解体や、血肉を分けたかのようなメンバーの「卒業」が言い渡され‥‥。

もちろん「公式の物語」がなければ、そもそもモーニング娘。は存在し得ないだろうし、また娘。たちも多かれ少なかれ「公式の物語」のなかで生きているのだから、そこからドロップアウトするのでなければ、そのなかで前向きに進んでいくしかないだろう。ハロモニ。やメイキングビデオのなかでただ無邪気にはしゃいでいるだけに見えた娘。たちだって、芸能界のなかでチャンスを掴みたいと当然思っているのだろう。であれば、なっちにしろ辻加護にしろ、無理にでも前向きにこれを捉えてやっていくしかない。1月11日の「ハロモニ。」(テレビ東京)のインタビューにおける辻加護の躁状態とでもいうべきテンションの高さは、事のあまりの唐突さと大きさに興奮していたというばかりでなく、そうにでもならないとやっていけないという側面を含んだものだったように思う。
(娘。たちも、最初に2期が加入するときは、私たちファン同様明らかに激怒していた。またタンポポやプッチモニに4期メンバーが投入されるとき、カヲリや圭ちゃんは抵抗感を隠さなかった。しかしその後、彼女たちは深く悲しむことはあってももう怒ることは(少なくとも表立っては)なくなってしまったように思う。そんなことが延々と繰り返されるならばそれを「前向きに」捉えなければやっていけないのかもしれないが、その間に彼女たちの見る夢が何か変わってしまったのだとしたら、それはやはりひどく残酷なことだ。)

モーニング娘。が学校だとすると、「公式の物語」は先生たちの考えた学校のシステムや、そこに組み込まれた学校行事のようなものだ。「卒業アルバム」には学校行事を記した公式の「歴史」が刻まれていくだろう。

「事務所」は、この物語こそが他ならないモーニング娘。そのものなのだ、と言いたいように見える。この物語こそが唯一「正しい」ほんとうのモーニング娘。物語なのだと。これこそが「正史」なのだと。(まだ「序章」の段階なので真の意図はわからないが、「よろしくセンパイ!」という番組が不気味なのは、「事務所」側がこの時期いよいよ娘。版の「正史」を、「日本書記」を作ろうとしているかのように見える点にある。)
また、ファンサイドに視点を移せば、その物語の中で頑張ろうとしている娘。たちをこそ応援すべきだ、という主張がそこにつながっていくことになるだろう。実際、自分が見ているいくつかのサイトの中でも、「公式の物語」に沿って萌えを展開している人たちは、なっちや辻加護の公式発表の言葉と齟齬がないせいか、なんとなく正しく見えるということがある。彼らは「公式の物語」の中の娘。と同様に「前向き」だ。しかしこの場合の「正しさ」とはいったい何だろうか。おそらく「正しさ」というのはつねに「公式の物語」の側にしかないものなのだ。「正しい」ことによって、そこから抜け落ちるものがあるような気がしてならない。

「公式の物語」が、すなわちモーニング娘。のすべてなのではない。あるはずがない。私がモーニング娘。をほんとうに愛しているのは、その物語の裏にいつでも「非公式の物語」が水脈のように流れているからだ。「非公式の物語」はきわめて小さな物語だ。それはしばしば小さすぎてほとんど物語にすらならないような娘。たちの仕草や会話や声や表情といった断片でもある。「非公式の物語」は、本来「ビジネス」とも「事務所」とも、そして「つんく」とさえ何の関係もなく、娘。たちの間で、彼女たちの吐息のように日々紡がれては消えていく。
あるいはそれは娘。たちの関係性の物語だ。なぜなら娘。たちはどんなときだって一人でいることはなく、他の娘。たちと結ばれていてモーニング娘。だからだ。私たちはテレビ番組やメイキングビデオのほんの瞬間の中に、とりわけ「ハロモニ。」の中にその幸福の断片を見出すことができる。「公式の物語」が学校のオフィシャルな外郭に相当するとするなら、「非公式の物語」は日々教室や校庭の隅で生まれては消えていく小さなエピソードの数々である。

「公式の物語」が大人の論理に彩られているとするなら、「非公式の物語」はあくまで子供のものである(そう、モーニング娘。は、最年長のなっちやカヲリからして、それどころか「卒業」して三十路に到った裕ちゃんでさえ、いつまでもあんなに子供ではないか)。そこには生産性のかけらもない。アナーキーなものだ。
それは「公式の物語」からすれば退廃としか写らないものを含んでいる。娘。たちがそこに拘ることは、すなわち変化を拒むことは、「ビジネス」的な危険すら孕んでいると見なされているかもしれない。つまりラブマ的なビッグバンはそうした停滞した環境の中からは生じにくいと「事務所」は考えているのではないか。

しかし、その「非公式の物語」ほど、甘く美しいものがいま私たちの前にあるだろうか。モーニング娘。の表向きのめまぐるしい展開とは関係なく、そのなかでは、いつでもそのときどきでまるで時間が止まっているかのようだ。娘。たちがはしゃいだりじゃれ合ったりしている時間が。子供たちにとって、学校生活というのものの時間がそうであるように。

実際、「非公式の物語」が魅惑に満ちた水脈であることを「つんく」や「事務所」もわかっていないわけがない。彼らは「非公式の物語」からその甘い部分を「公式の物語」のほうにさんざん搾取してきた。その最たるものが辻加護ではないか。ミニモニ。というのは、私にとってはまず辻加護の遊び場、彼女たちの少女期のまどろみそのものだった。あの「矢口が勝手に作った」野蛮なミニモニ。、「ミニモニ。イエイ!イエイ!」のグダグダなミニモニ。を、「事務所」や「つんく」が掠め盗り、それを製品化したのだという思いが今でもある。今回の辻加護「卒業」および新ユニット結成は、その搾取をさらに押し進めるものではないのか。製品化されたミニモニ。からはもちろん素晴らしい曲がいくつも生まれた。また「ザ☆ピ~ス!」の頃には、娘。本体においても「公式の物語」と「非公式の物語」が、かなり幸福に寄り添って進んでいたようにも思う。だから、「非公式の物語」が「公式の物語」に滋養を与えること自体は、むしろモーニング娘。の豊饒さの秘密のひとつなのであって、それは否定すべきではない。ただ、「事務所」や「つんく」が娘。たちの関係性を搾取しているという事実は事実として残る。二つの物語の乖離が甚だしくなればなるほど、そのことの残酷さが浮き彫りになってきたのではないだろうか。

繰り返すが、「公式の物語」無しでモーニング娘。が存在するとはもちろん私も思ってはいない。しかし、モーニング娘。の「非公式の物語」こそを絶対に擁護したいし、それだけを語りたいのだ。「非公式の物語」というのは事務的な言い方だから、それを「愛の物語」と言い換えてもいい。一ファンとしては傲慢で狂った言い方かもしれないが、私はできればそれを守りたいとすら思っている。「愛の物語」ほど、儚くもろいものはない。どんなに仲がよかったクラスの友達も、転校していけばいつかその友情は冷めるか別のものになってしまう。娘。たちの愛ほど、いま「事務所」によってないがしろにされているものはない。娘。たちの愛の力から多くのものを奪い取っておきながら、どうして「事務所」は「卒業」などという美辞を弄してそれを傷つけることができるのか。そして私たちファンこそが、娘。たちの「愛の物語」を擁護しないでどうするのか。

もはや「愛の物語」を掬い取ることができるのは、ファンだけだ。
「愛の物語」を記憶(記録)できるのは、娘。たち以外には私たちファンだけなのだ。
私たちは愛の文脈だけで娘。を語るべきだ。「卒業」の不条理に怒り、娘。たちが表立って悲しむことをしないならそのぶんまで悲しむべきだ。あなたはこうした考えが狂っているとお思いだろうか? だったらあなたは愛というものが、「公式の物語」から見ればそもそも狂ったものだということを知らないのだ。

「愛の物語」にこだわることは退廃的で危険だ。
「なっちやめないで!」と叫ぶことは危険なんだ。
こっちに「正義」なんてありはしない。
「正義」はつねに「公式の物語」の側にあるものだ。
多くのファンが白いサイリウムを持って「卒業式」という「公式行事」に花を添えようとしているときに、ただ悲しみに泣き叫ぼうとしている。
娘。たちだっていくぶんかは「公式の物語」の文脈で生きているからには、私は愛する娘。たちにすら疎まれるかもしれない。
しかし愛というのが「公式の物語」から外れた、そういう過剰なものでなくてなんだというのだろう。

それに私たちも娘。たちも、愛なくしてどうしてこの無情の世界に在り続けることができるというのだろうか。

Posted by ディピオ at January 17, 2004 11:58 AM