February 03, 2004

貧者の心

多くの楽しみ、欲望の対象から遠ざけられ、それを奪われているからこそ見果てぬ夢
として憧れる。あまりにも搾取されることが多く、時には踏みにじられる。そんな状況の
下で、貧者は自分の窮乏の原因であると思う人間、また事実そうであることが多い人間
に対して、どうして悔しさや恨みで胸をえぐられる思いを抱かずに済むだろうか。また
とりわけ、貧者のこの心のおののきが何か結果を生むことはまずない。
(アルベール・メンミ『人種差別』法政大学出版局)


たとえば、こんな話から始めてみたい。

スターリン主義下のソ連では、「反政府主義者」として収容所に送られ、犠牲となった
人が約2,000万人にも及んだという。この犠牲者のほとんどは、逮捕されることに
何の理由もなかった。地域ごとに何人逮捕するかの目標があらかじめ決められていて、
当局はノルマを達成するために、市民を適当に集めて収容所へと送ったからだ。
そしていきなり逮捕された市民に、当局は「なぜ逮捕されたのかは、お前自身で考えろ」と
告げる。市民は「反政府主義者」として逮捕される理由を自ら捏造し、牢獄へと送られ、
処刑されたのだ。これはとても残酷としか言いようがない事実だけれども、体制の
圧倒的な支配の前では、人はこのように無力にならざるをえないのだと思う。
不条理だが逃れられない事実を前にしたとき、人は必死で自分を納得させるに
足る理由を求め、せめて「人間的な」物語を作り出そうとする。

そして、娘。の卒業に対して、逡巡しつつも最終的に「おめでとう!」と言った人たちも
また、スターリン主義下の市民と同じ悲劇の中にいるのではないか。みな、この
不条理な別れの知らせに驚き、悲しんで、それぞれ自分なりの前向きな物語を探し、
それに縋りつく。優しい人ほど、これが悲劇でなく希望なのだと、娘。を思うなら
無理にでも笑顔で送り出そうと、自分自身を納得させようとする。人は自分を生かす
物語なしには、前に進むことが難しいからだ。果てはヲタ同士で、スタンスの違いを
理由に争いあう。すべては不条理に、一方的に突きつけられた事務所の決定のために。
それこそが何よりも悲劇だとオレは思う。そして悲劇は確実に金になるのだ。

そもそも争う理由なんて少しも無いはずじゃない? 議論することが悪いとは思わない
けれど、相手に対する敬意を欠いた語りかけからは、たとえそれがどれだけ愛に
満ちていたとしても、「対話」は生まれようがないと思う。そしてオレはいま、なし崩しに
「そういうこと」になってしまった卒業制度に対し、ただのヲタは本当に無力なのか、
何かすることはできないのか、その可能性をこそ考えたいと思うのだ。オレたちはみんな、
毎日がどうしようもなくつまらなくて、だけど周囲の誰かみたいに器用に立ち回ることも
できなくて、そんななかで何となくTVを見ているうちに娘。に心を奪われてしまった、
ただのしょうもないヲタだ。だけどオレは娘。に出会うまで、誰かのために悲しんだり、
喜んだりすることなんて数えるほどしかなかった。


ところで、ビリーはゆえなくして世界から拒絶されているわけではない。実際のところ、
ビリーを愛すべき理由など世界のどこにも存在しないのだ。ビリーは嫌な奴である。
短気で怒りっぽく、なんの理由もなく怒鳴り散らしてばかりいる。言うことは矛盾して
いるし、自分の意に添わぬことが起これば全部他人のせいにする。どこの世界に、
こんな男を好きになる奴がいるものか。当然ビリーに友達などいない。ビリーの話を
聞く唯一の人間は知恵遅れ気味のグズなのだが、その彼にすらビリーは優しくできない。
ひたすら「間抜け、間抜け」とののしり、傷つける。結局のところ、嫌われ者が嫌われる
にはそれなりの理由があるわけだ。
(柳下毅一郎/映画『Buffalo '66』パンフレット)


自分はビリーほどひどい男じゃない、とためらいもなく言える人に、オレは語りかけて
はいない。オレは今でも自分がビリーのような男だと思うし、しかも外見はギャロじゃない。
まったく救われない。でもいくらかでも、おおらかな人間になれたら良いなあと
思ってるのだ。たとえばごっちんみたいに。世間では紋切り型の応援ソングと
思われているのかもしれないけれど、『I Wish』や『ザ☆ピ~ス!』のメッセージを、
ヲタのオレは素直な気持ちで受け取ることができるし、「ハロモニ。」を見て、ヲタの友達と
笑うことができる。そんなことで、オレはいくらか救われてる気がするのだ。

ことさら自分を弱者であると印象づけて同情を買うつもりもないけれども、良い年して
娘。の助けを借りなければ優しくなることもできないような人間だからこそ、この不条理な
「卒業」と、それを巡る自分と似たようなヲタの姿が切ない。そしてこの不条理さに
対抗する手段があるのかと言うと、それはヲタを止めるか思い入れの度合いを減らすしか
無いようにも思える。それができない優しい人は、せめて自分の納得できる物語を
作り出そうとするのだろう。事務所とヲタの関係は、冒頭の共産主義体制と市民のような
ものだと思うが、それが言い過ぎであるならば、売人とジャンキーの関係と言い換えても
いい。むしろオレたちにはそのほうが相応しいかもしれない。

では本当にオレたちは、売人の理不尽な決定に粛々と従うしかないのだろうか? 
少なくとも、意味のよくわからない卒業や、間延びした演出のライブや、バッタ物と
大差ないオフィシャルグッズに対して「そりゃねえだろう」と言ってもいいんじゃないのか。
現実へのカウンターとして、沈黙よりは局地的な異議申し立てを行うほうに、いくらかの
可能性が残されているんじゃないだろうか。そしてこの場は、持論の明証性を誇る場でも、
意見の異なる他者を論駁するための場でもない。「貧者のこの心のおののきが何か
結果を生むことはまずない」としても、美しい物語で自分自身を納得させるよりは、
愚直に思考することをオレは選びたいと思う。

ごっちん、ごめんなさい。

Posted by M・ゴッチング at February 3, 2004 12:03 AM