僕は、モーニング娘。が好きだ。そして、僕と同じく、モーニング娘。を好きだという人は多くいる。しかし、好きだと言うのは簡単だが、実際のところ、どういうふうに好きなのだろうか。
モーニング娘。を好きになる過程というものを、ここで少し仮定してみたいと思う。
一つ目の仮定。テレビで見て、モーニング娘。のメンバーのうち、誰か一人のことを「かわいいな」と思う。そして、その子に注目するために、モーニング娘。がテレビに出るたびに見るようになる。そして、その子が、モーニング娘。の中でどんなポジションにいるのか、どんな役割を持っているのかが気になる。すると、必然的に、その子をとりまく、他のメンバーたちのことも気になってくる。他のメンバーたちの個性も少しずつわかってきて、一人一人が、それぞれ異なった魅力を持っていること、そして、それらの魅力が絡み合って、「モーニング娘。」という総体が出来ていることがわかってくる。こうして、一人のメンバーに注目していたのが、いつの間にか、他のメンバーのことも好きになり、総体としての「モーニング娘。」が好きになっている。
二つ目の仮定。これは、一つ目の仮定の逆方向だ。グループ全体としての「モーニング娘。」に、「なんか面白そうなグループだな」と興味を持つ。そして、モーニング娘。に注目するようになる。そのうち、モーニング娘。のメンバーの一人一人の個性に興味が向く。そうして、一人一人のメンバーのことが好きになっている。
一人一人のメンバーが好きだったのに、いつしか総体としてのモーニング娘。も好きになる。総体としてのモーニング娘。が好きだったのに、いつしか一人一人のことも好きになる。そうして、「グループとしてのモーニング娘。が好きだし、そのメンバー一人一人も好きだ」という状態になる。モーニング娘。を見ていると、自然にそうなってしまうんじゃないだろうか。これは、モーニング娘。というグループが持つ魔法だと僕は思う。
もちろん、「メンバー一人一人が好きだ」と言っても、その「好き」のレベルは、その人の好みによって、メンバー一人一人について異なってくるだろう。だけど、少なくとも、「一人一人、みな個性を持っていて、みな必要な存在なのだ」という認識はできるようになると思う。
また、上に書いたことは、楽曲を評価するときにも言えることだと思う。例えば、「真夏の光線」という楽曲を聴き、その美しさに感激したとする。その美しさの理由を掘り下げようとすれば、必然的に、そのパート割り、すなわち一人一人の声の組み合わせに耳を向けることになるだろう。そうして、一人一人の声の良さという点にも気付くことになり、ひいては、「このメンバーがここの部分を歌っているからこそ、総体としてのこの歌は素晴らしいんだ」と思うことになるだろう。
上に書いたことから、僕は何を言いたいのか。それはつまり、モーニング娘。を愛するときに、「一人一人のメンバーを愛すること」と「全体としてのモーニング娘。を愛すること」を分離することは出来ないし、「一人一人のメンバーを愛すること」と、「モーニング娘。の楽曲を愛すること」を分離することもできない、ということだ。モーニング娘。においては、一人一人のメンバーの魅力と、全体としてのモーニング娘。の魅力と、モーニング娘。の楽曲の魅力とは全てつながっていて、渾然一体となっているのだ。
そして、この考えを突き詰めていくと、僕は、モーニング娘。という存在が、奇跡であるようにさえ思えてくるのだ。モーニング娘。という存在も、モーニング娘。が歌う歌も、今この時に、このメンバーが、ちょうどめぐり合ったからこそ成立している。そして、今、僕はそれと同時代に生きているからこそ、それをリアルタイムで見ることができる。それは、いくつもの偶然の一致によって起こったことであり、奇跡というほかないことだと思うのだ。そして、その奇跡をただ喜ぶ以外に、僕にできることは何も無いと思えてくるのである。
僕は、モーニング娘。を、上に書いたような見方で愛してきた。だからこそ、僕はなっちの卒業に反対するのだ。
「メンバーの誰か一人が卒業しても、モーニング娘。はちゃんとやっていける」という考えを、僕は持つことが出来ない。上に書いたとおり、一人のメンバーが抜けるということは、総体としてのモーニング娘。もまったく変わってしまうことを意味する。確かに、モーニング娘。は、名前の上ではちゃんと存続する。だけど、その本質はまるっきり変わってしまうのだ。それは、紛れも無い事実だと僕は思う。
その事実に対してどう振る舞うか、というのは、場合による。そのメンバーが誰であるかとか、どういう理由で脱退するのか、ということを考えなければならない。だけど、今回卒業するのは、なっちなのだ。モーニング娘。に最初からいて、モーニング娘。の最も重要な一部分を担っているなっちなのである。そのことだけを考えても、安易に、「卒業おめでとう」とは言えない。否定したくなるのが自然な感情であると思う。
ましてや、その理由がはっきりしていない。なっち本人が決めた決断だとは聞かされていない。「安倍なつみは、モーニング娘。を卒業できることになりました」ってどういう意味だ? モーニング娘。が、そんなふうに簡単にメンバーを抜けさせられるものじゃない、ましてやメンバーの卒業を前提に作られているものでもないと僕が思っていることは、上に書いたとおりだ。
繰り返し言いたい。モーニング娘。は、メンバーが抜けても、何の変わりもなく存続していけるような集団じゃない。そんな集団じゃないんだ。
僕は、ちょっとした付き合いで、最近娘。の応援団体というものに名
を連ねている。10代が中心の完全現場系の応援団体で、僕は多分その
中で最年長だ。参加していると言っても掲示板に書き込みをしている
だけで、実際に会ったことはない。2~3年前だったらそういう場所に
も平気で出かけていっただろうけど、もう僕はあまりヲタの友達と言
うものを必要としていない。僕はモーニング娘。と関わるということ
において、戦略的にはなれず、分析的にもなれない。オタク的にもな
れず、現場系と言う訳でも無い。ただ、非生産的に萌えを享受し、数
人の友人とそれを分かち合うだけだ。
世間から見れば、僕らのような振る舞い、娘。との付き合い方は陰気
で、理解し難いものに映るだろう。いや、ヲタの輪の中から見てもきっ
とそうに違いない。
そのように閉鎖された空間では、誰しもが自分を掘り下げる作業に取
り掛からざるを得ない。自分の眼が、耳が、感じとったもの。感じな
がら、言葉にならなかったもの。言えなかったもの。今までいい加減
に部屋の片隅に追いやっていたものを、1つ1つ片づけていく。そし
て整理すればする程、その先には自分と娘。しか居ないことが分かる。
世界は開かない。世界はただ閉じていく。
…友達のことを言えば、僕はそのような閉鎖された空間の中で、彼ら
一人ひとりに、類は、彼らと集まるその心地よい空間に、無意識に娘。
性のようなものを見出しているのかも知れない。
娘。は開かれ、そして分断された。
やはりあの幸福な時代はどうしたって忘れられないし、「どうして?」
と思う気持ちは今でも心の奥底に残っている。もちろん、現実は認識
している。回り出した車輪を止めることはできないし、川の流れを逆
に変えることもできない。いや、それより、むしろ萌えメンバーは増
えているし、現状に対してのフラストレーションは急激に軽減されて
いる。僕は多分、娘。に満ち足りている。
しかし、本当はあの頃とはなにかが違うこともわかっている。僕には
その「なにか」を言葉にすることはできない。その「なにか」は、僕
を更に閉ざされた場所へと導いていく。ハロプロ無人島妄想や、ハロ
プロ学園妄想。閉ざされた、僕と仲間達、そして娘。達だけしか居な
い場所へ。
□
そこはひどく心地よい。
そこには優しげな死の香りが、甘く、哀しく、いつまでも漂っている。
………僕にはなっち先生の弾くピアノが聞こえるんだ。生徒達は皆帰っ
てしまって、僕しかその演奏を聴くことはできない。僕は目を閉じて、
なっち先生の情感を、そのタッチから感じ取る。なっち先生が泣いて
いるのが分かる。先生は、何かを思い出している。先生は、その一音、
一音を惜しむように、慈しむように撫でていく。
僕は一人で泣いている。
なっち先生の悲しみは決して癒されることは無いし、先生はこれから
も自分を失いながら生きていくのだ。そして、先生にはそれが分かっ
ている。僕は、それを心の奥の方で感じることができた。僕は、音楽
室の扉を開けて先生に会いたかったが、なぜだかそれは、とてもいけ
ないことのような気がした。僕は、ドアを開けられなかった。そして、
遠ざかる先生の演奏を聴きながら、僕は階段を降りる。
そして、下駄箱の前で僕はふと気づく。
僕には帰るべき場所が無かったことに。
なっち先生のピアノが、今でも小さく僕の耳に聞こえる。
僕はふと、落ちていく陽に目を留める。
□
なっち先生はいつまでもそこに居る。
そして、僕は彼女にいつでも会いに行くことができる。
□
所属した応援団体から、あるメールが来た。
白いサイリウムと言う単語を見つけた瞬間に内容は分かった。
そして、僕はまた悲しくなった。おそらく彼らには悪気は無いだろう。
それは、彼らにとっては正しいことなのだ。なっちも、それを受け止
めるだろう。僕も、それを見て泣くだろう。…でも、僕はその場に入
っていくことはできない。
別れについて考えた時、僕はぎりぎりまで誠実でありたい。僕は、最
終的に、絶対にそれを認めることはできない。僕にはなっち先生のピ
アノが聞こえているし、その演奏に感じた、決して癒されることのな
い悲しみを自分の内にしまい込まなければならない。
でも、本当はそれだけではない。
娘。達は、閉ざされた幸せな少女達の空間は、それでも彼女を祝福す
るだろう。そこにあるのは善悪では無く、僕らを圧倒する、ただの風
景であるはずだ。光景であるはずだ。そして、僕らはおそらくその風
景に敗北するしか無い。
彼女達はその美しさによって、損なわれる。
彼女達の神々しい輝きは、暴力的な獣達にとってたまらなく美味な餌
なのだ。僕達は彼女達を損なわせたものが、この世界にあると言うこ
とを忘れてはならない。僕達が生きている、この血腥く醜い現実から
与えられたものであると言うことを忘れてはならない。
彼女がそれを、望んだ訳ではないんだ。
どうしてみんなそのことに平気なんだ? その瞬間の娘。達と建て前で
向かい合うことなんて、僕にはできない。
絶対的な恋愛は、いかなる狡猾な、残忍なシステムからも逃げうる筈
だ。僕達にできるのは、彼女の気持ちを信じること。そして、崖の縁
で、彼女の本当の気持ちを感じようとすることなんだ。
僕達がシステムに搦め捕られてしまったら、それは本当の終わりなん
だ。本当の、本当の終わりなんだ。
モーニング娘。ほど、その本質を見誤られているグループは、他にはないと僕は思う。
どのような誤解か。それは、「モーニング娘。は、かわいいから売れたのであって、歌はおまけみたいなものだ」とか、「次々とメンバーの加入と脱退を繰り返して、話題性と新鮮さを保っていたから売れたんだ」という誤解だ。これらの考え方は、おそらく、以前あった「おニャン子クラブ」とかいうアイドルグループには、あてはまるのだろう(僕はそのグループを見たことがないので、あくまで推測だが)。
でも、僕は思う。モーニング娘。の歌はおまけじゃない。むしろ、歌こそが重要なのだ。ひいては、その歌によって、いろんなメッセージや、喜びや、その他いろいろなものを伝えることこそが重要なのだ。それらのものがあるからこそ、僕はモーニング娘。が好きなのだ。笑うなかれ、僕は、モーニング娘。の歌が、崇高だと思えることさえある。
そして、その歌を生み出すために、つんくは細心の心配りをしていた。それは、1、2期タンポポや、1期プッチモニによく表れている。それらユニットの構成は、メンバー一人一人の素質をうまく組み合わせるために緻密に組み合わせられており、素晴らしい歌を生み出すための土台になっていた。
しかし、それらの心配りは十分には理解されなかった。去年の7/31のハロプロ大改変によって、それまでのタンポポやプッチモニはあえなく破壊された。その後に発表されたユニットの構成は、1、2期タンポポや、1期プッチモニを作ったのと同じ人間が考えたとは思えない、ずさんなものだった。(あれはつんくの意図ではなく、他の誰かの意図だと、僕は信じている。)そこにあったのは、「ユニットの編成や、メンバーの出し入れは、話題性のための手段で、誰がどこに行ったって差はないのだ」という、最初に述べた、誤解された考え方だったと僕は思う。去年の7/31は、モーニング娘。に対する誤解を象徴するような日だ。そして、なっちの脱退も、その誤解の延長線上にあるものだと僕は思っている。
僕が、なっちの脱退に賛成しないのは、今までこのサイトに書いてきた理由のほかに、このような理由もあるからだ。なっちが脱退するということは、モーニング娘。に対しての誤解がさらに進むことを意味していると思うからだ。モーニング娘。本来の、喜びに満ちた姿が捨て去られ、旧態依然としたアイドルグループの枠に押し込められることだと思うからだ。僕はモーニング娘。を素晴らしいと思うし、かけがえのないグループだと思う。そんな素晴らしいグループが、誤解され、歪められていくのを見たくはない。
問いたい。誤解を誤解のままで終わらせていいのか。