モーニング娘。の新曲「愛あらば It's All Right」のCDとDVDを買ってきた。この曲の歌詞には、初めてラジオで聞いたときから打ちのめされっぱなしだ。オレはこの曲こそ、モーニング娘。の最後の曲に聞こえる。四期が入ったことで、その生き方が変わり、「I WISH」から始まった彼女達をとりまく幸せな愛の物語は、その象徴というかそのものでもあるなっちの脱退と共に、遂にこの曲で終わりを告げたのだ。
オレはどちらかと言うと、愛だの恋だのという曲を好まない。それはこの歳まで生きてきた中で身に付いた保身的な考えだと思う。例えば、女の「愛している」という言葉なんて、明日になればまるで昨日の新聞のように忘れ去られて、価値のない紙くずのようなモノになることを知っている。しかし、この曲にあるように「太陽は全てお見通しさ」という言葉にはウソが無いことを知っている。いや、本当はそんな事がウソなのも知っている。ウソかもしれないけど、人間はせめてそこら辺だけでも信じていなければ、「やっていけない」のだ。生きてゆけないのだ。
この曲は、ゲイノウカイというとんでもない世界で生きてきたなっちを含む娘。達に、つんくや周りの良心的なスタッフが、最後に渡したメッセージだと思っている。彼らは今まで娘。達をさんざんな目に遭わせてきた。もちろん彼女たちがそれを望んだ事もあっただろうし、仕事だからしょうがないという側面もあるだろう。しかし事ここにいたってそれは限界を超えた。なっちの脱退ですべてが終わることを感じたのだろう。 普通曲を作る人間は、歌い手にメッセージを渡さない。何故ならメッセージは聞き手に渡すモノだからだ。それがこの曲ではすべて娘。達に向けられた歌詞になっている。そして過度の装飾をせずに、淡々と歌詞は進んで行く。聞いている人が聞き取れるようにゆっくりと。シャボン玉のように、「どうだ、これ面白いだろう」というイヤらしい狙いも見えないし、誰か一人を無理矢理持ち上げて歌わせる事もしていない。みんなが均等に歌を繋いで行くだけなのだ。そしてやさしくも強い観念のこもった短い歌詞。オレはそこに、つんくの「すまんなぁ。オレにはもう何も手を貸してやることは出来ひんのや」という気持ちがとれる。多分に妄想かもしれない。だけどオレはそう感じるのだ。
DVDの方を見てもそう感じる。クローズアップバージョンでは、そのパートを歌う娘。を順番に映してゆくだけだし、メイキングでも全員を同じ構成で均等に撮っている。まるで記念に残る卒業アルバムのように。それはなっちの「卒業」じゃなくてモーニング娘。全員が何かから卒業するように。誰か一人が卒業するのではなく、みんな一緒に今日までのモーニング娘。を卒業するように。
先生が生徒の名前を呼ぶ。その生徒との時間をかみしめるようにしてその名前を呼ぶ。そして生徒は背筋をのばし、今までで一番いい顔で、いい声で、「ハイッ!」と返事をする。そういう暖いモノが、このシングルDVDには収まっている。
「卒業」という言葉がオカシイと感じるからこの「なっちやめないで!」に参加してるのに、どうして「卒業」の例えを持ってくるのかと、おかしな感じがするかもしれないが、何度も言うように、この曲は均等に作られている。モーニング娘。のメンバーが、その在籍期間や年齢や人気に関係なく均等なのだ。みんなが一緒に卒業するのだ。実力の評価で娘。から卒業するなんておかしくないか。だったら残ったメンバーには実力がない事になってしまう。そんな事は絶対にない。オレはモーニング娘。は卒業するものではないと今でも思っているし、脱退を「卒業」と言う人々には嫌悪感さえある。それはこれからも変わらないだろう。しかしでも、何故かそういう気がするのだ。それを上手く伝えられない・・・。
あるスタッフの一人(もちろん彼もモーニング娘。を心から愛している)は「こんな作りじゃダメだ」と上司に言われたかもしれない。つんくだって「この曲では押しがきかない」なんて事務所のお偉方から言われたかもしれない。だけど彼らはどうしても、これをこの形で作らなくてはいけなかったのじゃないだろうか。それは免罪の気持ちもあるかもしれないし、もうどうにもならなくなった歯車に対する最後の抵抗だったのかもしれない。これから荒波が立つ海にこぎ出して行かねばならない娘。達へ、自分たちが彼女たちより長く生きてきて得られた「確信」のような信じられるものを、彼女たちに渡したかったのだと思う。実際にジャケットや初回版に付いてくる写真集での彼女たちの表情はとてもリラックスしている。歌詞カードでの枕投げシーンはバラバラに撮影したモノではなくて、一緒にみんなで騒いだんだろうなぁと伺えるし、ジャケットを見れば説明する必要はないくらい皆幸せそうにしている。安易な合成が多かった最近のアートワークの中でこれは特筆すべき事だと思う。それほどこの曲に力を入れたのだ。それは売れるようにとかじゃなくて、如何に今の瞬間を娘。達に残してあげようかという強い気持ちだと思う。
でも、正直に生きてりゃいっぱい
感動に出会うさ
だって今日は今日でまた新しい
とっても自然な親切に
出会ったわけだし
まるで母が愛しい我が子に向かって言っているかのようだ。オレはこの言葉を、母がオレに言う場面を想像することが容易に出来るし、多分それは誰でもそうだろうと思う。この曲にはそんなやさしい気持ちがいっぱい詰まっている。つんくや、この曲に関わった人たちもオレと同じように「なっちやめないで!」と叫びたいのだと思う。
例えば、こう考えてみる。
モーニング娘。には、結成の当初からつねに二つの物語があって、それらが重なり合うようにして成り立ってきたのではないか。その二つのものを、「公式の物語」「非公式の物語」と呼んでみることにする。
「公式の物語」は主に「つんく」からもたらされてきた。メンバーの加入とか、新曲のインパクトとか、そしてごっちん以降のメンバーの「卒業」もまさに「公式の物語」だ。「公式の物語」の展開は、ある日突然天から降ってきたもののごとく「つんく」の口から娘。たちおよび私たちファンに告げられる。
おそらくこの物語はモーニング娘。という「ビジネス」と直結していて、この「公式な物語」の展開こそが「ビジネス」としての娘。を発展させると「事務所」は考え続けてているのだろう。
「公式の物語」はしばしば娘。たち個々に「不条理な試練」を強いる。せっかく手売り5万枚を達成し結束を固めたオリメンのもとには最悪のタイミングで異物たる新メンバーが送り込まれ、なっちはNYに不要な「本格修業」に飛ばされ、彼女たちが築き上げてきたイメージをぶち壊す珍妙な振り付けを与えられ(LOVEマシーン)、やがて時は経ち心から愛していた自分のユニットの解体や、血肉を分けたかのようなメンバーの「卒業」が言い渡され‥‥。
もちろん「公式の物語」がなければ、そもそもモーニング娘。は存在し得ないだろうし、また娘。たちも多かれ少なかれ「公式の物語」のなかで生きているのだから、そこからドロップアウトするのでなければ、そのなかで前向きに進んでいくしかないだろう。ハロモニ。やメイキングビデオのなかでただ無邪気にはしゃいでいるだけに見えた娘。たちだって、芸能界のなかでチャンスを掴みたいと当然思っているのだろう。であれば、なっちにしろ辻加護にしろ、無理にでも前向きにこれを捉えてやっていくしかない。1月11日の「ハロモニ。」(テレビ東京)のインタビューにおける辻加護の躁状態とでもいうべきテンションの高さは、事のあまりの唐突さと大きさに興奮していたというばかりでなく、そうにでもならないとやっていけないという側面を含んだものだったように思う。
(娘。たちも、最初に2期が加入するときは、私たちファン同様明らかに激怒していた。またタンポポやプッチモニに4期メンバーが投入されるとき、カヲリや圭ちゃんは抵抗感を隠さなかった。しかしその後、彼女たちは深く悲しむことはあってももう怒ることは(少なくとも表立っては)なくなってしまったように思う。そんなことが延々と繰り返されるならばそれを「前向きに」捉えなければやっていけないのかもしれないが、その間に彼女たちの見る夢が何か変わってしまったのだとしたら、それはやはりひどく残酷なことだ。)
モーニング娘。が学校だとすると、「公式の物語」は先生たちの考えた学校のシステムや、そこに組み込まれた学校行事のようなものだ。「卒業アルバム」には学校行事を記した公式の「歴史」が刻まれていくだろう。
「事務所」は、この物語こそが他ならないモーニング娘。そのものなのだ、と言いたいように見える。この物語こそが唯一「正しい」ほんとうのモーニング娘。物語なのだと。これこそが「正史」なのだと。(まだ「序章」の段階なので真の意図はわからないが、「よろしくセンパイ!」という番組が不気味なのは、「事務所」側がこの時期いよいよ娘。版の「正史」を、「日本書記」を作ろうとしているかのように見える点にある。)
また、ファンサイドに視点を移せば、その物語の中で頑張ろうとしている娘。たちをこそ応援すべきだ、という主張がそこにつながっていくことになるだろう。実際、自分が見ているいくつかのサイトの中でも、「公式の物語」に沿って萌えを展開している人たちは、なっちや辻加護の公式発表の言葉と齟齬がないせいか、なんとなく正しく見えるということがある。彼らは「公式の物語」の中の娘。と同様に「前向き」だ。しかしこの場合の「正しさ」とはいったい何だろうか。おそらく「正しさ」というのはつねに「公式の物語」の側にしかないものなのだ。「正しい」ことによって、そこから抜け落ちるものがあるような気がしてならない。
「公式の物語」が、すなわちモーニング娘。のすべてなのではない。あるはずがない。私がモーニング娘。をほんとうに愛しているのは、その物語の裏にいつでも「非公式の物語」が水脈のように流れているからだ。「非公式の物語」はきわめて小さな物語だ。それはしばしば小さすぎてほとんど物語にすらならないような娘。たちの仕草や会話や声や表情といった断片でもある。「非公式の物語」は、本来「ビジネス」とも「事務所」とも、そして「つんく」とさえ何の関係もなく、娘。たちの間で、彼女たちの吐息のように日々紡がれては消えていく。
あるいはそれは娘。たちの関係性の物語だ。なぜなら娘。たちはどんなときだって一人でいることはなく、他の娘。たちと結ばれていてモーニング娘。だからだ。私たちはテレビ番組やメイキングビデオのほんの瞬間の中に、とりわけ「ハロモニ。」の中にその幸福の断片を見出すことができる。「公式の物語」が学校のオフィシャルな外郭に相当するとするなら、「非公式の物語」は日々教室や校庭の隅で生まれては消えていく小さなエピソードの数々である。
「公式の物語」が大人の論理に彩られているとするなら、「非公式の物語」はあくまで子供のものである(そう、モーニング娘。は、最年長のなっちやカヲリからして、それどころか「卒業」して三十路に到った裕ちゃんでさえ、いつまでもあんなに子供ではないか)。そこには生産性のかけらもない。アナーキーなものだ。
それは「公式の物語」からすれば退廃としか写らないものを含んでいる。娘。たちがそこに拘ることは、すなわち変化を拒むことは、「ビジネス」的な危険すら孕んでいると見なされているかもしれない。つまりラブマ的なビッグバンはそうした停滞した環境の中からは生じにくいと「事務所」は考えているのではないか。
しかし、その「非公式の物語」ほど、甘く美しいものがいま私たちの前にあるだろうか。モーニング娘。の表向きのめまぐるしい展開とは関係なく、そのなかでは、いつでもそのときどきでまるで時間が止まっているかのようだ。娘。たちがはしゃいだりじゃれ合ったりしている時間が。子供たちにとって、学校生活というのものの時間がそうであるように。
実際、「非公式の物語」が魅惑に満ちた水脈であることを「つんく」や「事務所」もわかっていないわけがない。彼らは「非公式の物語」からその甘い部分を「公式の物語」のほうにさんざん搾取してきた。その最たるものが辻加護ではないか。ミニモニ。というのは、私にとってはまず辻加護の遊び場、彼女たちの少女期のまどろみそのものだった。あの「矢口が勝手に作った」野蛮なミニモニ。、「ミニモニ。イエイ!イエイ!」のグダグダなミニモニ。を、「事務所」や「つんく」が掠め盗り、それを製品化したのだという思いが今でもある。今回の辻加護「卒業」および新ユニット結成は、その搾取をさらに押し進めるものではないのか。製品化されたミニモニ。からはもちろん素晴らしい曲がいくつも生まれた。また「ザ☆ピ~ス!」の頃には、娘。本体においても「公式の物語」と「非公式の物語」が、かなり幸福に寄り添って進んでいたようにも思う。だから、「非公式の物語」が「公式の物語」に滋養を与えること自体は、むしろモーニング娘。の豊饒さの秘密のひとつなのであって、それは否定すべきではない。ただ、「事務所」や「つんく」が娘。たちの関係性を搾取しているという事実は事実として残る。二つの物語の乖離が甚だしくなればなるほど、そのことの残酷さが浮き彫りになってきたのではないだろうか。
繰り返すが、「公式の物語」無しでモーニング娘。が存在するとはもちろん私も思ってはいない。しかし、モーニング娘。の「非公式の物語」こそを絶対に擁護したいし、それだけを語りたいのだ。「非公式の物語」というのは事務的な言い方だから、それを「愛の物語」と言い換えてもいい。一ファンとしては傲慢で狂った言い方かもしれないが、私はできればそれを守りたいとすら思っている。「愛の物語」ほど、儚くもろいものはない。どんなに仲がよかったクラスの友達も、転校していけばいつかその友情は冷めるか別のものになってしまう。娘。たちの愛ほど、いま「事務所」によってないがしろにされているものはない。娘。たちの愛の力から多くのものを奪い取っておきながら、どうして「事務所」は「卒業」などという美辞を弄してそれを傷つけることができるのか。そして私たちファンこそが、娘。たちの「愛の物語」を擁護しないでどうするのか。
もはや「愛の物語」を掬い取ることができるのは、ファンだけだ。
「愛の物語」を記憶(記録)できるのは、娘。たち以外には私たちファンだけなのだ。
私たちは愛の文脈だけで娘。を語るべきだ。「卒業」の不条理に怒り、娘。たちが表立って悲しむことをしないならそのぶんまで悲しむべきだ。あなたはこうした考えが狂っているとお思いだろうか? だったらあなたは愛というものが、「公式の物語」から見ればそもそも狂ったものだということを知らないのだ。
「愛の物語」にこだわることは退廃的で危険だ。
「なっちやめないで!」と叫ぶことは危険なんだ。
こっちに「正義」なんてありはしない。
「正義」はつねに「公式の物語」の側にあるものだ。
多くのファンが白いサイリウムを持って「卒業式」という「公式行事」に花を添えようとしているときに、ただ悲しみに泣き叫ぼうとしている。
娘。たちだっていくぶんかは「公式の物語」の文脈で生きているからには、私は愛する娘。たちにすら疎まれるかもしれない。
しかし愛というのが「公式の物語」から外れた、そういう過剰なものでなくてなんだというのだろう。
それに私たちも娘。たちも、愛なくしてどうしてこの無情の世界に在り続けることができるというのだろうか。
どうにかできないものだろうか。
耐えられず、気を紛らわしている間にも時は過ぎていく。
このままでは、7ヶ月の間に僕らの神経は摩耗し、戦略に麻痺させられた
ままにその瞬間を迎えることになるだろう。
事務所よ、撤回する位の勇気を持ってくれ…。あれからと言うもの、現実
について考えると、肩の力が抜けてぐたりと、何もできなくなってしまう。
死刑宣告を回避することはできないのかも知れないけど、僕はせめて全て
を言い尽くしたい。僕は圭ちゃんの時のような敗北感、無力感をもう味わ
いたくは無い。
今回の発表と言うのは、言ってしまえば最終的には娘。の解体を意味する
こと、事務所が娘。を解体するのに何のためらいも持ってはいないと言う
ことだ。今までの(姉さん以降の)脱退だって絶対に納得できないものばか
りだったけれど、ヲタはその度「未来」を信じて、無理矢理に、歯を食い
しばって自分を納得させてきたように思う。
しかし、今回の発表はその「未来」への希望も、想像さえも奪い取る死の
宣告だ。モーヲタと呼ばれる人達ならば分かっていると思う。なっちが、
辻ちゃんが、加護ちゃんが、娘。の根幹がこのように通り魔的に奪い去ら
れていくということが、何を意味するのかを。それは、残された娘。達も
同じように残酷に奪われていくと言うことなのだ。それは、今回と同じよ
うに乱暴な理屈を連れて突然に現れるだろう。
モーニング娘。とはシステムであり、ソロ養成機関であると言うのは、あ
まりに非人間的で不自然な理屈だ。それは、僕らが知っていたモーニング
娘。や、彼女達と過ごした幸福な時間からあまりに遠くかけ離れている。
□
どのメンバーを奪っていくかは、結局事務所の金勘定にかかっている。
「実力の評価による卒業」だなんて、これほど嘘臭い台詞は無いと思う。
圭ちゃんは未だに活躍の場も与えられていないんだ。事務所が必要として
いるのは、結局、辻加護と言う手早く稼げる強力なパブリックイメージだ
けであって、長期的なビジョンは相変わらず何一つ持ってはいないだろう。
なによりも、モーニング娘。という幸福な関係性の中から産まれた奇跡を
強引にパブリックイメージに落とし込んでしまうこと、それがどんなに取
り返しの付かない愚かなことか、それがどんなに決定的に娘。を損なって
しまうことか…。
目先のことばかり考えず、娘。達の未来を本気で考えて欲しい。脱退を卒
業と言い換えたり、嘘の言葉と嘘の笑顔でそれらを誤魔化すことは、もう
終わりにして欲しい。写真集などを含めたユニット、ソロでのアイテムの
乱発は、結局モーヲタと言うものを囲い込み、縮小していくことに他なら
ない。破綻は、既に目に見えているようなものじゃないか。
娘。達に本当に必要なのは長期的なはっきりとしたビジョンであり、この
ように、いつ誰がやめるのか分からない生殺しの状態を続けることは、誰
にとってもプラスにならない。このようなヲタ自身もついていけていない
狂気的サイクルに、一般層から誰が飛び込んでくると言うのか。
脱退と加入を繰り返し、パズルのように人員を配置するそのシステムは、
誰の眼から見てももはや決定的に破綻している。それはただ、全ての娘。
に関わる人達を不幸にしていく。
□
…ファンサイトが辻加護卒業企画をやるのも結構だろう。それは気持ちの
問題だから何も言わない。だけど、もし娘。のことを扱うテキストサイト
と言うものがあったとして、それがファンサイト的な、思考停止の応援状
態と一線を画すものであったなら、なぜ「こちら側」からの反動的な運動
がちっとも起こらないのだろう?僕は情けなくて、情けなくてしょうがない。
僕らが脱退の度いくら前向きになろうとも、理不尽に娘。を奪っていくシ
ステムはその度に強固さを増していくんだ。
全てを許し続け、娘。達を追い続け、いつか、自分の中で何かが死んでい
ることにヲタは気づくだろう。その頃には、モーニング娘。というものが
何であるのか、誰にも分からなくなっているかも知れない。
もしあなたがメンバーの脱退について某かの違和感や、やりきれない思い
や、絶望を感じているのなら、この場所を使って、今こそ、思いきり吐き
出して欲しい。署名だけにでも、参加して欲しい。
□
ヲタとして、モーニング娘。と相対するファンとして、自分の意志の表明だけは
しておいて欲しいのです。現状の分析で無く、詳細な未来の予想でも無く、
逃亡的な容認でも無く、現象論で無く、僕はただ、みんなの意志が知りたい。
本当に感じたことを知りたい。
もし世界を変えるものがあるとするなら、それは僕達の意志以外にはあり得
ない。それが、この現実世界でどんなにちっぽけで、現実的な力を持ち得な
いものだったとしても、僕達は言わなければならない。
終わりが近づいているんだ。
終わりが近づいているんだ。
オレのターニングポイントは「やきそば」にある。あのとき泣いた辻ちゃんを、抱きしめたり笑ったりしている関係をみてすっかりはまってしまったのだ。あんなものがテレビで見られるはずがないと思っていたから。 それからは凄い勢いで動画を集め始めました。するとそこにはいつも加護ちゃんがいるのですよ。そしてりかっちをなんとか一人前にしゃべれるタレントにしようと、色んな手を使って頑張るまりっぺも。
それは、「だれがセンターをとるのか」とか「キャラが立つ」だとか、今のWWE(アメリカの有名なプロレス団体)みたい事をやっていたそれまでのモーニング娘。とはまったく違う方向だったのです。それまでまったく興味がなかったオレが、娘。にはまったのは、まさしく娘。の関係性における幸福感なのです。裕ちゃんやまりっぺに叱られながらもふざけている辻ちゃんと加護ちゃんを見て、そこに家族を映し見れなければ、それは不幸だとさえ言える。
その家族をなぜに他者が引き裂けるのか。そういうときに引き裂こうとしている人を諫めるのがファンの役割なのじゃないだろうか。ヲタを自認していれば尚更の事だ。サッカーのファン(サポーターっていうヤツ)は、自分が愛しているチームにとって良くないと思ったことは、どんどん提言してゆく。しかしモーニング娘。のファンは、いつも事務所発表を肯定し続ける。事務所や関係者に近いファン達は、まるで院外団のように彼らを擁護する。それがヲタやファンのありかただとしたら、オレはファンやヲタではない。オレは友達だ。
モーニング娘。にも沢山のファンがいる。そしてネットというモノを活用しているファンが半分以上を占めていると思う。それなのに何故みんな「見守ろう」とか「ユニットが楽しみ」とか言えるのだろうか。タンポポの理不尽なメンバーチェンジからたまった怒りが、遂になっちの脱退発表でこらえきれなくなって始まったのが、この「なっちやめないで!」というサイトです。やめて欲しくないのはなっちだけじゃないんですよ。モーニング娘。という幸福をやめて欲しくないのです。まさかこんなに早く「なっちやめないで!」という叫びにも似たスローガンを、他の娘。にも言わなければならないとは……。