February 07, 2004

夢の変質

こんなにもなっちを愛してしまってたからには、モーニング娘。を抜けたからといってもちろんそう簡単になっちを愛することをやめられるはずはない。私たちはおそらくこれからもなっちの活動を追い続けずにはいられないだろうし、結局彼女のソロ活動を「応援」してしまうだろう。しかしそれでも、やはりなっちにモーニング娘。をやめてほしくなかったという気持ちに変わりはないし、それにいつまでも、なっちが娘。を離れたということは何かの間違いで彼女はほんとうはモーニング娘。なのだ、という思いを拭い去ることもできないだろう。さらに言うなら、なっちには、いまからでもいいから何事もなかったかのようにひょっこり娘。に戻ってきてほしいとすら思っている。誰にどんな迷惑がかかろうが、知ったことじゃない。なっちが娘。に戻ることを歓迎しない理由が、残された娘。たちやファンたちのいったいどこにあるというのだろう。

それにまた、どうしてなっちはソロ活動と娘。を両立できなかったのか、という無念の思いもやはり拭い去ることができない。おそらくUFA(アップフロントエージェンシー=娘。たちの所属事務所)は、なっちの「ソロ活動」をイコール「ライヴツアー活動」と考えているのではないか。つまりCDの売り上げがさして望めない現在、盛大なライヴツアーを行わずしては、ソロ歌手としての彼女は商業的に成り立たないというような理屈が裏にあるような気がする。もし、CDをリリースすることがソロ歌手のメインの活動であるならば、なっちは(あるいはごっちんも)娘。をやめずともソロとしてじゅうぶんやっていけたのではないだろうか。それと同時に、事務所はなっちで比較的大きなビジネスをやろうとしている、ということがハッキリ見えてくる。なぜならカヲリのように、CD主体の小規模なソロ活動を娘。のなかに居ながら行っている例も一方で見られるからである。おそらく今後なっちには、娘本体やごっちんやあやや、あるいは1日3公演という狂ったステージ数をこなすハロプロのように、タイトなツアースケジュールが用意されてくることだろう。つまり、いまUFAのなかでソロ歌手として華々しくやっていくには、彼女たちは何より肉体を極限まで酷使しなければならないということになる。幅広い層への横断力を見込み良心的なあるいはインパクトのある楽曲を用意してCDを売るという賭けを打つより、娘。たちのダイレクトな魅力で限られたコアなファン層から金を取るほうがより確実で手っ取り早いというわけである。(そしてもちろん彼女たちのライヴは、あらゆる興行としての悪条件を越えて、いつだって素晴らしい。)
なんという資本の論理だ! そんなもののために私たちはあのかけがえのないものを失ってしまったというのだろうか。15人の娘。がようやく達することのできた無上の幸福は失われてしまったというのだろうか。

なっちがモーニング娘。を「卒業」することを正当化する根拠のひとつとして、なっち自身が娘。になってからもずっとソロ活動にあこがれており、それがなっちの「夢」だったのだ、という言い方がある。なっちはいまようやく夢を叶えたのだ、ファンならば本人の意思に沿って、なっちの「卒業」を応援しようではないか、という考えだ。
たしかになっちが「シャ乱Qロックヴォーカリストオーディション」を受けたとき、彼女が夢見ていた歌手というのがユニット歌手でなかったことは確かだろう。「『グループで』って聞かされたときは、正直いって『へっ?』って思ったよ」というような発言は、なっち本人も何度かしているはずだ。この引用は安倍なつみの著書『ALBUM 1998-2003』からのもの(P22)だが、なっちはまた、この本を読む者に、娘。にいながらソロデビューのチャンスをずっと「待っていた」という印象を与える。
「ソロデビューのことは、正直いって、なっちのココロの真ん中にいっつもあったよ。だって最初はひとり……って思って『ASAYAN』受けたわけだし。」(P70)

であれば、なっちのソロデビュー自体は祝福されてしかるべきことなのだ。それを祝福しない理由はないし、また誰にもなっちの夢を差し止めることはできないようにも思える。
しかし問題は「ソロ活動」が本来別の次元のものであるはずの「卒業」と結びつけられ、そのとき「夢」のすり替えが行われたことである。言うまでもなく、祝福すべきはなっちのソロデビューであって、決してその「卒業」ではない。そして、おそらくはなっちが「夢」見ていたものもソロデビューであって、決して「卒業」そのものではなかったはずだ。それがいつの間にか、「ソロ活動」と「卒業」とがイコールで結ばれ、「卒業」こそが祝福されるべきものにすり替わっていた。そこにとんでもない送り手(UFA)側の詐術を感じる。
繰り返すが、本来「ソロ活動」と「卒業」がイコールで結ばれる必然性は何もなかったということなのである。その二つが結びつくのは、先に挙げた事務所側の論理、すなわち「ソロ活動」を「ライヴツアー活動」と置き換えるような論理のなかだけの話である。UFAはなっちの「夢」を自分の都合のよいほうにねじ曲げ、こう言ってよければ利用している。その際、なっちの「夢」が純粋であればあるほど、事務所の欺瞞は大きくなる。なっち「卒業」の件ばかりではない。いまやUFAにはそうした欺瞞が満ちあふれているように見えないだろうか。そしてそうした欺瞞は、娘。たちに対してもうほとんど物理的な暴力として働きはじめているのではないだろうか。実際娘。たちはもういつ倒れても不思議でない状態ではないか。ライヴやミュージカルを欠席したりステージに立ち続けていられなくなった娘。たち(真里っぺ、辻ちゃん、加護ちゃん、小川、こんこん‥‥)、1日3公演の後、深夜朦朧としながらラジオの生放送をこなす真里っぺ、体調を崩しながらもライヴをキャンセルできないあややや斉藤さん、そしてなっち「卒業」のステージでの辻ちゃん加護ちゃんの悲劇‥‥。私たちは娘。たちにこれからも起きるに違いないこれに似た悲劇を、ただ黙って見ていることしかできないというのだろうか。そんなのはもうたくさんだ。

 * * *

なっちの夢やあこがれが「ソロ歌手」であって、モーニング娘。のような「女の子だけのユニット」でなかったというのは、当然と言えば当然すぎる話だ。なぜなら、なっちがオーディションを受けたときには、モーニング娘。というユニットはこの世にまだ存在しなかったのだから。それにいま私は「モーニング娘。のような」ユニットと言ったけれど、じつを言えばそんなユニットは、いまこの世にモーニング娘。そのものを除いては存在していないし、またかつて一度だって存在した例しもないのである。
そして、あえてこう言い切ってしまうならば、そんなモーニング娘。をつくったのは、誰よりもなっちその人だったのだ。どうしてファンたちは、「卒業」が決まったとき、なっちがモーニング娘。のメインヴォーカルだったという、ごく当たり前のことすら忘れてしまったかのように振る舞っていたのだろう。そして、もちろん裕ちゃんやカヲリ、あるいは真里っぺや圭ちゃんのことを忘れたわけではないが、それでもあえて言い切ってしまうなら、モーニング娘。というのは全員がなっちのような女の子たちのユニットなのである。娘。たち全員が、まるでなっちの遺伝子を引き継いでいるかのように、前向きで、一生懸命で、バカで、かわいらしく、無意識で、すれていなくて、いつまで経っても子供のような女の子たちだ。したがって、辻ちゃん博士がなっちを「ママ」と呼んだことは彼個人の妄想でもなんでもなく、むしろただ客観的事実に触れたのだと言うべきだと思う。

なっちは、娘。になってからもずっと「ソロ活動」を夢見てきたという。しかし、正直を言えば私には、なっち本人の意思がどうあれ、娘。であることのほうが「ソロ歌手」になることよりはるかに素晴らしいことのように思えてならないのだ。実際ソロ歌手なんてものはこの世に無数に存在しているが、モーニング娘。は唯一モーニング娘。しか存在していないではないか。モーニング娘。こそがいまあらゆる歌手や芸能界のなかでもっともかけがえのない存在であることは、明らかだと思う(それは私が娘。に目が眩んだファンだからそう見えるのに過ぎないのだろうか。いや、決してそれだけではないはずだ)。ましてやそのモーニング娘。をつくったのは、他ならぬなっちその人なのである。もしなっち本人がそのことに気づかず、あるいはそれをじゅうぶんに理解していなかったとしたら、それを彼女に教えるべきは本来彼女の周りのスタッフであり事務所の役割であるはずだ。

もしそのことを事務所がわかっているなら、つまり自分たちの扱っているモーニング娘。がかけがえのない存在であり、自分たちにはそれを守る義務があることをUFAがわかっているなら、彼らはどうしてもなっちの「ソロ活動」と娘。の活動を両立させるべきだった。仮に彼らがそれをわかっていないのだとしたら、事務所はその鈍感さをファンから咎められ、責められて然るべきだ。また仮に彼らがそれをわかっていながら実現できなかったのだとしたら、事務所は己れの無能無力ぶりを大いに恥じ、ファンに謝罪すべきなのだ。しかしそのどちらのようすも見えないのはいったいどうしたことだろうか。
結局事務所は何もわかっていない上に、「卒業」を興行化するほど厚顔無恥であり、しかもファンは極端に無力化されており、何も知らされておらず、攻撃の手段を奪われているということではないのか。実際「22歳の私」でソロデビューが決まった当初、「卒業」はしないとされていた(http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2003/06/11/01.html)なっちが、ほんのひと月半後、一転「卒業」を発表した(http://www.sanspo.com/geino/top/gt200307/gt2003072801.html)間にはどのような経緯があったのだろうか。私たちにはあまりに説明されていないことが多すぎるし、あまりに事務所の論理を理解する機会を奪われている。

 * * *

かつては、娘。たちの「夢」は、事務所という現実のなかにおいても全きものだったはずだ。タンポポやプッチモニが輝いていた頃には。娘。たちの「夢」と彼女たちを取り巻く現実の間には、まだそれほどの齟齬はなかった。「夢」は、いつか完全な状態で叶うはずのものだったし、だからこそ娘。たちはみんな自分の「夢」に関して必死だった。しかし、彼女たちの「夢」とファンの「夢」そして事務所の思惑がそれなりに寄り添っていた幸福な時代は、おそらく2002年7月31日/9月23日を境に終わってしまった。いま、娘。たちの「夢」は搾取され、事務所の都合の枠内で部分的に実現されるものに過ぎなくなっている。例えば飯田圭織。残酷な言い方かもしれないが、ソロシングルデビュー曲を歌うカヲリの姿からは、タンポポの頃の彼女のような生気と輝き、歌うことの幸福感はもう感じられない。すべては変わってしまった。残酷なまでに変わってしまったのだ。

でも「夢」なんてものはあくまで現実の枠内でしか実現できないものじゃないか、とあなたは言うだろうか。現実と絡まない「夢」は「夢」のままで終わってしまうではないか、と。まったく立派な大人の論理だ! しかしこれほどモーニング娘。に似つかわしくない論理がはたしてあるだろうか。そして、娘。たちの子供の「夢」が事務所の都合にすり替えられるとき、途轍もない欺瞞が生じ、娘。たちもファンも疲弊に追いやられている事実を私たちは決して見逃してはならない。私はただ娘。たちといっしょにこの悪循環から出て、もう一度完全な幸福のほうへと向かいたいだけなのだ。

もし、いまの彼女たちの「夢」が事務所に用意されたものであるとするなら、それを用意した事務所はファンたちの批判に開かれていてしかるべきである。また私たちファンはそれを批判する義務すらあるように思う。その前提のなかではじめて、私は彼女たちの現実化した「夢」を「応援」することができるように思うのである。

しかしその上でさらに言うなら、やはりモーニング娘。とは完全な幸福、完全な「夢」以外の何物でもないと思う。つんくや事務所はモーニング娘。をもっと不完全なもの、完全さを欠いた女の子たちのユニットと考えてきたかもしれない。それを完全なものにしたのは、娘。たち自身なのだ。私たちファンは娘。たちとこれからも完全な「夢」を見ていけばいいはずだ。しかしそのためには、もう戦うことを回避している余裕は、私たちには残されていないのではないだろうか。

Posted by ディピオ at 12:43 AM

February 03, 2004

貧者の心

多くの楽しみ、欲望の対象から遠ざけられ、それを奪われているからこそ見果てぬ夢
として憧れる。あまりにも搾取されることが多く、時には踏みにじられる。そんな状況の
下で、貧者は自分の窮乏の原因であると思う人間、また事実そうであることが多い人間
に対して、どうして悔しさや恨みで胸をえぐられる思いを抱かずに済むだろうか。また
とりわけ、貧者のこの心のおののきが何か結果を生むことはまずない。
(アルベール・メンミ『人種差別』法政大学出版局)


たとえば、こんな話から始めてみたい。

スターリン主義下のソ連では、「反政府主義者」として収容所に送られ、犠牲となった
人が約2,000万人にも及んだという。この犠牲者のほとんどは、逮捕されることに
何の理由もなかった。地域ごとに何人逮捕するかの目標があらかじめ決められていて、
当局はノルマを達成するために、市民を適当に集めて収容所へと送ったからだ。
そしていきなり逮捕された市民に、当局は「なぜ逮捕されたのかは、お前自身で考えろ」と
告げる。市民は「反政府主義者」として逮捕される理由を自ら捏造し、牢獄へと送られ、
処刑されたのだ。これはとても残酷としか言いようがない事実だけれども、体制の
圧倒的な支配の前では、人はこのように無力にならざるをえないのだと思う。
不条理だが逃れられない事実を前にしたとき、人は必死で自分を納得させるに
足る理由を求め、せめて「人間的な」物語を作り出そうとする。

そして、娘。の卒業に対して、逡巡しつつも最終的に「おめでとう!」と言った人たちも
また、スターリン主義下の市民と同じ悲劇の中にいるのではないか。みな、この
不条理な別れの知らせに驚き、悲しんで、それぞれ自分なりの前向きな物語を探し、
それに縋りつく。優しい人ほど、これが悲劇でなく希望なのだと、娘。を思うなら
無理にでも笑顔で送り出そうと、自分自身を納得させようとする。人は自分を生かす
物語なしには、前に進むことが難しいからだ。果てはヲタ同士で、スタンスの違いを
理由に争いあう。すべては不条理に、一方的に突きつけられた事務所の決定のために。
それこそが何よりも悲劇だとオレは思う。そして悲劇は確実に金になるのだ。

そもそも争う理由なんて少しも無いはずじゃない? 議論することが悪いとは思わない
けれど、相手に対する敬意を欠いた語りかけからは、たとえそれがどれだけ愛に
満ちていたとしても、「対話」は生まれようがないと思う。そしてオレはいま、なし崩しに
「そういうこと」になってしまった卒業制度に対し、ただのヲタは本当に無力なのか、
何かすることはできないのか、その可能性をこそ考えたいと思うのだ。オレたちはみんな、
毎日がどうしようもなくつまらなくて、だけど周囲の誰かみたいに器用に立ち回ることも
できなくて、そんななかで何となくTVを見ているうちに娘。に心を奪われてしまった、
ただのしょうもないヲタだ。だけどオレは娘。に出会うまで、誰かのために悲しんだり、
喜んだりすることなんて数えるほどしかなかった。


ところで、ビリーはゆえなくして世界から拒絶されているわけではない。実際のところ、
ビリーを愛すべき理由など世界のどこにも存在しないのだ。ビリーは嫌な奴である。
短気で怒りっぽく、なんの理由もなく怒鳴り散らしてばかりいる。言うことは矛盾して
いるし、自分の意に添わぬことが起これば全部他人のせいにする。どこの世界に、
こんな男を好きになる奴がいるものか。当然ビリーに友達などいない。ビリーの話を
聞く唯一の人間は知恵遅れ気味のグズなのだが、その彼にすらビリーは優しくできない。
ひたすら「間抜け、間抜け」とののしり、傷つける。結局のところ、嫌われ者が嫌われる
にはそれなりの理由があるわけだ。
(柳下毅一郎/映画『Buffalo '66』パンフレット)


自分はビリーほどひどい男じゃない、とためらいもなく言える人に、オレは語りかけて
はいない。オレは今でも自分がビリーのような男だと思うし、しかも外見はギャロじゃない。
まったく救われない。でもいくらかでも、おおらかな人間になれたら良いなあと
思ってるのだ。たとえばごっちんみたいに。世間では紋切り型の応援ソングと
思われているのかもしれないけれど、『I Wish』や『ザ☆ピ~ス!』のメッセージを、
ヲタのオレは素直な気持ちで受け取ることができるし、「ハロモニ。」を見て、ヲタの友達と
笑うことができる。そんなことで、オレはいくらか救われてる気がするのだ。

ことさら自分を弱者であると印象づけて同情を買うつもりもないけれども、良い年して
娘。の助けを借りなければ優しくなることもできないような人間だからこそ、この不条理な
「卒業」と、それを巡る自分と似たようなヲタの姿が切ない。そしてこの不条理さに
対抗する手段があるのかと言うと、それはヲタを止めるか思い入れの度合いを減らすしか
無いようにも思える。それができない優しい人は、せめて自分の納得できる物語を
作り出そうとするのだろう。事務所とヲタの関係は、冒頭の共産主義体制と市民のような
ものだと思うが、それが言い過ぎであるならば、売人とジャンキーの関係と言い換えても
いい。むしろオレたちにはそのほうが相応しいかもしれない。

では本当にオレたちは、売人の理不尽な決定に粛々と従うしかないのだろうか? 
少なくとも、意味のよくわからない卒業や、間延びした演出のライブや、バッタ物と
大差ないオフィシャルグッズに対して「そりゃねえだろう」と言ってもいいんじゃないのか。
現実へのカウンターとして、沈黙よりは局地的な異議申し立てを行うほうに、いくらかの
可能性が残されているんじゃないだろうか。そしてこの場は、持論の明証性を誇る場でも、
意見の異なる他者を論駁するための場でもない。「貧者のこの心のおののきが何か
結果を生むことはまずない」としても、美しい物語で自分自身を納得させるよりは、
愚直に思考することをオレは選びたいと思う。

ごっちん、ごめんなさい。

Posted by M・ゴッチング at 12:03 AM