鬼子母神大門ケヤキ並木 保存会

「幻」上川口屋さんの飴について

             


                                   鬼子母神境内 上川口屋(内山雅代)さんに聞く (屋号「川口屋」は(母 安井千代さん代)にて「上川口屋」に表記変更、以下共通とします)

 「記録されずに記憶で残ってきたことが」消えていきつつある今日です。機関の関心に沿ったものは十分な聞き取り等を経て正式に記録されていきます。
(H15年、お会式が区の無形文化財の指定を受けた時、聞き取り、調査が行われ多くの資料が残されました)  
並木も含め多くの関心を得て今日の注目に寄与している歴史、文化資産についてはその多くが伝聞のみのものともなりつつありますし、またそれらすらも灯になろうとしています。
 (100年先へ資料を残す取り組み)  我々ケヤキ並木保存会「資料」はそんな思いの中、調査、整理、聞き取りによって一つの形を見ようとしています。
この度は古来より名物だった「上川口屋の飴」について聞き取り、考証をしました。


1 創始よりの本家「川口屋の飴」と、近年の「川口屋の飴」


「新編若葉の梢」によると江戸名物の飴を売る店は皆「川口屋」を名乗ったと書かれています、何件もあった中の3件が「本家川口屋」を名乗っており、今日では雑司が谷「川口屋」のみが残っているとのことです。
資料整理の中、度々出てくる「本家川口屋の飴」の話(書籍記載の創始関係以外)を聞くことがないので、此の際「本家川口屋の飴」について少し掘り下げてみました。
文章で度々散見した近年における「川口屋の飴」資料 Bすら私は食べたことがありませんし、見たこともありません。どんなものだったのか?も含め聞き取りしました。
聞き取り等を経て「本家川口屋の飴と今、語られている「川口屋の飴」にはかなりの乖離があることに加え、古来よりの飴の歴史の過程で何を「本家」「元祖」とうたっているのか?についても飴の歴史が奥深すぎて時間の壁に行き当たりましたが、判る範囲で「飴」時系列の中探りました。


2 今のお店について(現況商い 飴、駄菓子類)


お店は其々の時代背景の中、所有や支配がなされて来ました。飴屋としての「本家川口屋」は明治以降において≒20坪の国有地に建っており、国と借地契約を結んでいたそうです。(母)安井千代さん所有の時代に「上川口屋」へと屋号を変更し、現在は(土地、建物共)内山さん所有となっているそうです。
整然と並ぶ菓子箱類を前に、「これからもこのお店を大切に残していきたいと思っている」とのことでした。


3 資料、古文書等


資料 @(2005年度資料館第2回企画展 鬼子母神門前とその周辺 )パンフコピー内P16に記載の以下,
「天明元年(1781) 譲渡証文(飴みせ、人形みせ)」個人蔵
「天保8年(1837) 古証文返納日延覚」個人蔵
「川口屋の飴袋2 枡・飴割台」個人蔵  「三官飴、唐飴、各袋、他」 
                                                                      「※※※」個人蔵(内山さん所有)分 等を「豊島区立郷土資料館」に 預託中です

4 起源、歴史について諸説


・ 創業1781年 上記資料 @「譲渡証文(飴みせ、人形みせ)」→「、お店の成り立ち起源
・  鬼子母神堂は加賀藩・前田利常の三女・満姫(後に広島藩主・浅野光晟の正室・自昌院)が1664年に寄進したもので、これに含まれていた飴屋が前身で現況店舗は明治時代
   の建物です
・ 安永10年(1781)=天明1年、俳人の堤亭が選んだ句集『種おろし』の中で江戸名代飴屋2軒紹介されている(新編若葉の梢P371ヨリ)販売飴の制作はより以前か?
・ 別 起源説 正徳年中(1711〜1716)川口屋忠治なるもの飴製造販売 との文章 (高田町史P23ヨリ)
・ 資料 A天保5〜7年(1834〜36)江戸名所図会7巻「長谷川雪旦」画(高田町史前写真ヨリ)
 【資料 A左下文章 訳】 「門前両側に酒肉店多し飴をもて此地の産とし川口屋と称するもの本元とす 此の屋号を称うるもの今多し」
・ 現在は第13代目内山雅代さん、第12代目安井ちよさんは 平成3年没(親子関係)


5 本家「川口屋 飴」について


江戸期 本家「川口屋の飴」については 新編若葉の梢p373記載 (先祖 丑之助により切飴を売る店はじめ)→(川口屋忠次の代に隆盛)により形状は「切飴」だと推察されますが
味を含め詳細は不明です。          以下 関連 『近世の飴』  まとめてみました。

『近世の飴』 調査、分類     八百啓介氏「近世における飴の製法と三官飴」参照にて
      1700年前後における飴については@麦芽水飴系とA砂糖飴系が混在していた
      近世における外来系の飴は@麦芽飴 →(2つの製法 煮詰める製法と練り固める製法
                                          A砂糖飴 →砂糖+糯米を混ぜ合わせ煮詰める        の2種類

   (もう少し細かく 1712年 和漢三才図会より)
@-1 糯米麦もやし(糖化酵素)を加えた→麦芽水飴
@-2 @-1を練り固め膏薬(地黄=増血強壮漢方薬)のような色→膠飴→切飴=地横煎(胃腸薬効)
@-2-2@-1を練り固め膏薬(地黄=増血強壮漢方薬)のような色→膠飴→「牽引」作業により空気混入→飴(堅飴)
@-3 @-2と同様であるが漢方薬等を使用せず練り固め時に「牽引」作業により空気混入させた白色飴(堅飴)
@-4 練る回数4〜5回に抑えて→黄白色→菊川飴(1693年 本朝食鑑)
@-5 @-3 極白飴→米粉にまぶして細切り→三官飴(唐人の技術「牽白」による製法)
A   (1718年 御前菓子秘伝抄)には砂糖飴(砂糖+糯米を混ぜ合わせ煮詰める)→「牽引」→(白色)飴(堅飴)

   (三官飴と唐人飴)参考資料にて 判断が分かれていますので(d/s,t意見として)
@-3等   古来の糯米と麦芽を原料の水飴に地黄を加え→練り固める(堅飴)中国系→「三官飴
A等     砂糖+糯米を混ぜ合わせ煮詰める砂糖飴→(堅飴
   (唐人飴売り→「一蝶画譜」軍配団扇を持った唐人姿にて飴売り)

尚、   参考とした 八百啓介氏「近世における飴の製法と三官飴」内にまとめとして
江戸時代には糯米・麦芽を原料として煮詰めた日本古来の麦芽飴と中世以来の地黄を加え煉り固めた膠飴(地黄煎)に加えて、新たに砂糖を原料とするが登場するが、それに
先がけて 糯米・麦芽を原料とする膠飴を牽引することにより空気を混入させる技法を用いた堅飴が発明された。
この結果、江戸時代においては糯米・麦芽を原料とする麦芽飴に空気を混入した堅飴と砂糖を原料とする砂糖飴の二種の外来系の飴が存在し「唐人飴」・「唐飴」(「南蛮飴」)と称せられたのである。
三官飴は、中世以来の膠飴(地黄煎)をもとに、近世初期に西日本各地に来航した唐人によってもたらされた気泡を入れるための牽白技術によるものと考えられる。 
とあります(が本文は文章が難解にて錯綜す)


6 近年「川口屋 飴」 について         注:<試食 後日訂正分を下線文字にて訂正、加筆>

「川口屋飴」近年における「川口屋の飴」だったと言われているものも創作年代は不明であり、昭和33年(椎名町の飴作り職人さん没)までは内山さん曰く(記憶の限り)以下です

(形 状) 飴の上部に赤い線(そうめん程)の入った軍配状(書いて頂いた説明図資料 Bの印象からは、長さ20センチ程「軍配」のような形状で(資料 @飴袋中の「軍配」の絵を
             模している?)d/s,t

(作り方) 上等米の胚芽を主原料とした(たぶん和三盆などの高級糖材使用)にゆずを加えた飴を「牽引」、炒った小麦粉の上で棒状にして作った「ゆず味の白い飴」
(作り方) <上等米と胚芽を主原料とした(砂糖不使用の)飴を「牽引」、炒った小麦粉の上で棒状にして作った「ゆず風味」白い飴

(どんな) 硬さは「お店で売っている黄な粉もち(ヌガー?)のような硬さ、食感で」包丁で切れて口に入れると「溶けていく、上品な味」の飴
どんな) <上記分類による@-3のような硬さ、食感で口に入れると溶けていく、上品な味」の飴で  具体的には 実試食飴中→佐賀市の「徳永本舗  もち米飴」にゆず風味のついた飴>

(特 徴) 真直ぐな柔らかい飴を曲げて上記形状にして「笹の皮に入れて」店棚下の冷所の置いておいて 「1枚2枚」との呼称にて(今の金額にしてたぶん約1000円/枚)を主に
        注文により販売していた「高級飴」又、「古くよりの「本家川口屋の飴」も味については(ゆず味)であったと思えること、そして形状については古い資料からもわかるよう        に  (切り飴)状であったと考えている」との聞き取りを得ました

(補 足) 

20年程前に東京の栄太郎飴さんが、聞き取り後に試作しましたが内山さんの印象とは違う物でありました
それから あるふぇーと(材)使用してないという信念がありました   和の飴として  京都→俵屋    東京→栄太郎が有名です    2/26 追記(内山さん口伝)

椎名町の飴作り店について町会 朝倉さんヨリ資料をいただき「石黒製飴店 南長崎3-2 tel951-6786(昭和49電話帖参)」にて内山さんの確認をいただきました
史実「33年まで販売は!」「まで創れる人がいた!」にて理解します

商や形態 :明治期には「駄菓子」商いがあった
        川口屋ゆず飴:始まりはやはり明治期と思われる(いわゆる元祖飴)についての詳細は資料が無い
        10月頃〜3月頃(溶けてしまわない、寒い時期のみ制作、販売していて、椎名町の作成所から月3回ほど各50くらいを木の箱に入れて納品されていた)
              :上記の様態で太さは3センチ位(千歳飴より少し太い)特徴として空気混入が無い滑としていた(当店では千歳飴も同様)やわらかいので棒状が楕円系となっていた。
                 菓子棚下に保管し、注文で配達した「配達先は何処もお屋敷であったとの記憶」店売りもしており「くちどけが良い高級飴でした」




あと書き


始めは「川口屋さんの飴」について調べ、文字としての資料を残そうと簡単に思っていました、しかし聞き取り他を進めていくと、お店の創業に関する「元祖」とか「本元」の持つ意味、また飴の製法についても「三官飴」「唐飴」の袋を前にすると「歴史」も少しは知らないと何も考証ができず説得力もないことに気づき、此の際 江戸時代の飴の「歴史」を浅く見てみようと入りましたが、これが迷路のような話ばかりでまとまりませんが「川口屋」飴、への変遷につき 思い馳せます。
江戸以前より飴の歴史は存在していましたので「川口屋」創業にて飴が確立したとも思えません。「唐人飴 みせ」の元祖、本家という意味でのとらえが自然ですし『一蝶画譜』1770年頃にもポルトガル人と思える「唐人飴売り」の絵が描かれていますので創業時(1781年)には江戸時代の飴分類、A「唐飴」が存在していたと思われます。 
また三官飴は延宝年間(1672年〜)にはすでに芝にて「陳三官唐飴」が売られており「元祖」から外れます。
切飴(三官飴及び唐飴)の違いは時代差による製造法に由来しており 、1781年創業元祖「川口屋飴」とのうたいはこれらの理由から「元祖 唐飴売りの店」で、同店でさらに古くよりの「三官飴」も商っていたとの理解が自然です。「川口屋」は「今までとは違った製法の」飴A元祖の店。以上独断にてまとめました。
近年における「川口屋の飴」については先述しましたが、むしろ創始期も含めすでに不明点満載です、今回は戦後の作成再開時よりの記憶による伝聞でした。
ただ形状説明の中に出てくる内山さんの「軍配状」という言葉が昔の飴袋に出てくる唐人たちが手にしている「団扇」→「軍配」が長い歴史の中で味と共に自然に表現されているのでは!!と、「はっと」驚き見たこと付けくわえさせていただきます。
断と推察の中で話を進めることの非礼は、これからの考証の糧になることにて免じていただきたいと思います。
(尚、千歳飴は1615年頃 浅草 浅草寺での売り始めが由来の一つです)

いつか「幻」が解けて「復活」の日の為に  「記憶を記録しました」

                                           平成30年11月21日 (追12/27 追R1、5/24)       鬼子母神大門ケヤキ並木保存会 w/s、t


               資料@ 預託古文書                                          資料A 「江戸名所図会 7巻」
                                                 
          資料B 近年「川口屋飴」 形状図(内山さんによる)
       

                             


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