昭和30年
昭和30年 2月27日 衆議院議員総選挙。
昭和30年 2月27日 豆腐十円に値下げ 長崎地区が率先して
昭和30年 2月27日 家庭経済にもっとも密接な関係をもつ牛乳および豆腐については、各方面からその値下げが提唱されながらも、なかなか実現に至らず、掛け声ばかりに終わっているが、世田谷など他区において十円牛乳の出回っているところもあり、当区も一部にそのような動きがあり注目されているところ、長崎地区の豆腐商人が十五日かち十円豆腐を売り出し始めて話題になっている。
昭和30年 3月6日 衆院選国民の審判下る
昭和30年 3月6日 中村梅吉氏( 民主 ) 十万票で最高点。神近市子氏 ( 左社) 河野蜜氏 ( 右社 ) 浜野清吾( 民主) ) が当選。
昭和30年 3月13日 新区長に木村秀崇氏一
昭和30年 3月13日  四十五日の空白を置いた豊島区長の椅子は区議会内閣派の調整をまって三月四目本会議を召集し、木村秀崇氏の区長昇格を承認との同意を得て7日再開ここに木村豊島区長の誕生が成った。 木村区長はその誠実さ、と系数的才能を買われての推薦だが、その第一声としては、あくまでも地味な区行政の推進を画しており、特に前須藤区政の事業整備を言外にもらしている。すなわち、新年度予算においても教育方面は一応手の尽くされたものとして、土木、民生に特に重点を置くなどうちに強固な意志を秘めての新区長として、その面白躍如たるものを見せている
昭和30年 3月13日 池袋西口区整始まる東横前の十四一戸取り壊し
昭和30年 3月13日 池袋西口の本格的な区画整理の第一段階として、かねてから注目されていた東横百貨百前、十四戸の立ち退きについて第4復興と同立退者側との聞に交渉が続けられていたが、七日朝ついに最終交渉も決裂、同七時半より強制執行された。
昭和30年 3月20日 長汐問題解決す
昭和30年 3月20日 結核にかかつても入院するまで半年や一年はかかるというベッド不足の折から池袋翌一丁目五五一番地の長汐病院 ( 長汐達也院長 ) では昨年暮、一千万円からの債務を負って七十四床の病棟を建設、都の正式許可を得て患者を収容した。ところが付近住民から反対署名運動しが起こり、一時は険悪な空気が流れたが、住民側は病院の熱意に納得し、施設の一部改善を要求して円満解決した
昭和30年 3月20日 豊島荘の拡張計画現行料を五十円値上げ
昭和30年 3月20日 昨年八月熱海来の宮に開設された区民温泉「豊島荘 」 は、区民の好評を受け、毎月の月初めに受け付ける翌月分の申し込みも数日にして満員締め切りになるという現状で、関係者を喜ばせているが、九日、十日の両日豊島荘で行われた運営委員会では現行の一泊二食三百円を三百一五十円に値上げし、さらに好評に応えて施設の拡充案も話題になったといわれており、これに対して一部には質素と簡素こそ区民の厚生施設に望むもので値上げなどには反対だというものもあり今後の運営が注目される。
昭和30年 3月27日 池袋 ―品川間トロリ―バス四月中旬に一部運転開始
昭和30年 3月27日 昨年来工費五億円を持って進められていた池袋―品川聞の東京都営トロリーバスの路線計画は、渋谷区および東急の反対にあって全線貫通が遅れていたが、十九日の東京都議会交通委員会において一切の障害が取り除かれた。
昭和30年 3月27日 遠山の金さん百年祭巣鴨法妙寺で盛大に挙行
昭和30年 3月27日 いれずみ判官の名で知られる遠陽一山左衛門尉景元の百年祭が二十三日、巣鴨法妙寺において行われた。
昭和30年 3月31日 豊島文人会
昭和30年 3月31日 十日、池袋三業地入り口の大江戸で豊島文人会が開かれた。この文人会は昭和二十七年に大塚鈴む良で第一回の産声を上げて今日まで毎年行われてきた発起人は、江戸川乱歩、原久一郎、三角寛、大下宇陀児、春山行夫、阿部静枝、竹内雷男 (豊島新聞社長)の諸氏。会費十円
昭和30年 4月3日 一興行時間の制限、四月から実施 映画館側の見解を聞く
昭和30年 4月3日 「映画館の乱立から二本立て、三本立て興行が普通となり、それがため国民の保健に又教育上に大変悪影響があるとして政府では先に「上映時間二時間三十分の興行を主張し、業者側の自主的協力を求めていたが、都興行組合と都側との聞に協定が成立し、四月から実施されることになった。内容は、映画興行時間は二時間三十分を原則とするが、当分の間三時間まで認める。
昭和30年 4月3日 豊島郷土会を結成
昭和30年 4月3日 「池袋に生まれ、池袋に育ち、池袋に骨を埋める」という立場の人々が集って、豊島郷土会を作ろうという声が起こり、今年の一月ごろから準備を進めていたが、廿七日進行会館で結成式が行われた。集まったのは約六十人。
昭和30年 4月14日 運動場周囲に植樹
昭和30年 4月14日 池袋二丁目の立教大学グランドは赤土のため、春ともなると土ほこりがひどく、付近の住宅では洗濯物は汚れる、部屋の中は日に幾度掃除してもほこりが積もるなどの被害。これを聞いた立教大学は、ただちにグランドの回りにヒマラヤ杉の苗を植え善処。この誠意ある措置に付近住民は感謝している。
昭和30年 4月14日 大塚ホームに公衆電話
昭和30年 4月14日 国電大塚駅のプラットホームに公衆電話が四月一日に備え付けろれたが、現在までの利用した数は、開通した一日は六十八回、二日三十二回、三日二十二回、四日が四十二回で今後も徐々に利用者も増えてくるのではないかとみている。
昭和30年 5月22日 お寺の中で子供会
昭和30年 5月22日 「学校で催すより寺で催したほうが児童の気持を転換させ、のびのびさせる」との考えから西巣鴨四丁目の柊友会 ( 会長藤ヶ谷政明氏 ) では今年かろすべての催しを寺で行うことになった。即ち、藤ヶ谷氏は私財を投じて毎週一回日曜日毎西巣鴨朝日小学校で幻灯会を開き多くの親たちに感謝されている。
昭和30年 6月5日 谷端川を暗渠
昭和30年 6月5日 長年懸案となっていた谷端川暗渠工事が愈々施工されることになった。今回施工される部分は千早町二丁目の約八十米の個所で、区はすでに準備を完了。後は区からの予算百八十五万円の交付を待つばかり。
昭和30年 6月12日 地下工事の促進
昭和30年 6月12日 区画整理の実施に伴って今年六月から着工の予定であった池袋南駅際、日通裏から鉄道教習所に抜ける地下道の拡大工事は予算上行悩みとなっているが、これを一日も早く完成させ、地元の発展策を図ろうと雑司が谷上り屋敷会を中心に署名運動を展開している。
昭和30年 6月12日 区でオヤツ代復活
昭和30年 6月12日 一時閉鎖したが、ニコヨンの希望で去る四月再開した西巣鴨二丁目の簡易保育所に区かろがオヤツ代が復活することになった。区からの支給二円にあわせて区で一人一日二円を計上することになり計四円になった。
昭和30年 7月17日 区内の町会九十六団体都内でも最高の結成ぶり
昭和30年 7月17日 終戦後解散された町会も講和成立とともに暫時復活、現在では区内で九十六団体を数え、廿三区内でも最高の結成率を示している。
昭和30年 7月17日 区婦人団体協議会が「売春問題」で陳情
昭和30年 7月17日 売春法の問題が国会で論議されている折、豊島区婦人団体協議会では、一日も早く「売春法 」を通過させようと、区内に在住の衆・参議院の自宅を訪問、強力な陳情運動を展開。
昭和30年 8月14日 人口戦前に戻る
昭和30年 日進月歩の歩みを続ける豊島区も、終戦以来十年をむかえてようやく落ち着きがでてきた。ベニヤ板やトタンばり、それを毒々しいペンキで塗りたくり、やたらと横文字をならべて当時を振り返ってみると雲泥の差。終戦間際の昭和廿年四月十三日の大空襲によって豊島区は焼け野原となった。この前年人口卅万人といわれていたが、終戦後の十一月の人口調査によるとわずか九万二千百九十二名に減少。この人口も十年をへた今日、人口は卅万に復し、戸数も五万六千を数えるに至った。
昭和30年 9月11日 放浪の果てに男児出産
昭和30年 9月11日   家と定職のない浮浪夫婦の親子が野宿中に妻が産気づき、これを発見した目白署の巡査から消防の救急車へ、そして病院へリレーされ、無事出産した。この夫婦は、雑司が谷七丁目の砂利置き場で七歳と五歳、三歳の三人の子どもを連れ、日雇いをしたり、血を売って暮らしていた。
昭和30年 9月11日 あかずの大踏切
昭和30年 9月11日  十月十六日 池袋の東西をつなぐ最短距離で、車馬の通行可能な場所といえば池袋の第二鎌倉踏切。ところが、この通称池袋の大踏切と称される場所が「あかずの踏切」として都内はもとより、近県にもその名が轟いている。一日の閉鎖時間が約十六時間というから、一日の三分の二が完全に閉まっていることになる。この解決は都内でも一、二という重要な課題としてすでに青写真ができているという話だが、工事の難しさはともかく「お金がねー」ということでお流れ。
昭和30年 11月20日 池袋西口に知事賞
昭和30年 11月20日  東京都では第四回商店コンクールの各区予選を行っていたが、十六日の審査の結果、八十五商店会、四百店舗を優秀商店として表彰することを決定した。最終審査の結果、豊島区の商店では、井上カバン店(池袋東口)、白馬堂(池袋西口)、滑ロ崎(椎名町)、三幸靴店(巣鴨)。商店街は、知事賞に池袋西口商店会(高野録郎会長)、経済局長賞に都指定美観商店街池袋東口商店会(大蔵孝会長)。
昭和30年 12月18日 困っている人に質屋さんが衣料品
昭和30年 12月18日   巷ではボーナス景気で賑やかな歳末風景が見られるが、晴着はおろか肌着一枚買えない人も多い。こうした人のために区内の質屋組合(代表吉田氏)加盟百七店では、約四百五十点の衣料品を持ち寄り「困っている人に」と区民生課に寄贈した。