昭和37年 1月28日 盛んな街の図書館
昭和37年 1月28日  毎週土曜日の午後になると、西池袋四丁目の「栄和文庫」の前は近所の子供たちでいっぱいになる。この「栄和文庫」は、同地域の栄和会(木原亀治会長)がつくった町会の図書館。町会が予算を組んでこのような図書館を開いているところは数少ないと、区青少年問題協議会ではその成果に大きな期待をよせている。 この「栄和文庫」が誕生したのは、昨年四月のことで、篤志家から「有益に使ってほしい」と二万円が寄付されたのがきっかけとなった。町会の役員会で図書館新設が決まると、さっそく町会費で大きな本箱がつくられ、まず一万円で本を買い、木原長会長宅のガレージを利用してつくった図書館におさめた。 最初は百二十五冊だったが、町会内に公園が一つも無く遊び場に不自由していた子供たちが先を競ってこの本にとびついた。図書の貸し出しは、同町会の婦人部の人たちが四・五人交代であたり、一人五冊まで無料で貸し出す。
昭和37年 2月4日 「広報」を全戸に配布
昭和37年 2月4日  豊島区は、広報活動が弱いとされてきたが、このほど広報活動の中心となっている月刊「豊島区広報」を新年度の四月から、現在の一万部を十万部に増刷し、新聞折込を通して全戸に配布する計画をたてて予算五百万円を計上、区議会の承認を求めることになった。 「豊島区広報」は主として、出張所を経由して各町会長や地区委員から主な家庭に配布しているが、実際に区民の目にとまるのはほんの一部で、大部分の広報は出張所や地区委員、町会長の自宅にしまいこまれていて読みたい人は読めず、配布上からも問題があった。 区の計画によると、新年度から広報を十一万部印刷し、主要な日刊紙全紙に折込で各家庭に配布、区制のありのままを知ってもらおうという。
昭和37年 2月4日 谷端川の汚物
昭和37年 2月4日  椎名町駅付近から環状六号道路に沿って北上し、板橋に抜ける谷端川に最近“汚物”が多くなり、衛生上大きな問題となっている。 これは昨年、この沿道一帯の下水が暗渠になったため、無届で水洗便所に改良し、汚物をそのまま放流する家庭が増えたため。これが発見されると公衆衛生法違反と水道使用停止など、きつい罰則となる。
昭和37年 3月16日 自殺者が激減 
昭和37年 3月16日  池袋保健所では、昨年一年の管内の衛生白書を発表した。 同保健所では、盛り場を中心として、巣鴨、西巣鴨、駒込、堀の内、日出、雑司が谷、目白など、区内の主な小工業地帯と、区の人口の三分の二にのぼる二十二万人を管内にかかえている。この白書をみると、昨年一年間の伝染病発生数は前年より二〇%減少したのをはじめ、衛生状態はかなり向上している。 また、前年八十一人にも上った自殺者が、四十八人に激減していることがわかった。これは、従来自殺者が多かった池袋が区画整理の進行とともに環境がよくなり、健康的な町づくりとして、前進をはじめたためとみられている。
昭和37年 3月25日 芭蕉の位牌
昭和37年 3月25日  豊島区俳句人連盟(後藤一艸子会長)では二十二日、池袋三丁目の同雲寺を訪問し、芭蕉の位牌と芭蕉が信仰したとみられる正観世音菩薩、さらに芭蕉の木彫坐像の三遺物を調査した。 同雲寺住職によると、この三品は今までそれほど価値のあるものと知らずにしまったままにしていた。が、区俳句人連盟の問合せでその価値を知り、初めて公開した。 位牌は、高さ三〇aの木製で、中央に俳諧元祖芭蕉翁、右に本師梅花仏、左に能化玄武仏霊位と彫られ、裏面に寛政十戍午年(一七九〇年代)則、不舎観達中建之と彫られている。これでみると芭蕉没後八十年ほど経って弟子の梅花、玄武が没し、その弟子がこの位牌をつくったものらしい。 正観音は芭蕉が信仰したものとみられ、高さ五〇aで、本体は木彫だが、その他は金色の金属で、天保玄乙末年七月(一八三〇年)ご本尊修復の文字がある。本彫は、慈覚大師の作と伝えられている。
昭和37年 4月1日 三角寛氏、文学博士に
昭和37年 4月1日  サンカ研究小説家で知られる池袋人世坐社長の三角寛氏(五九)に東洋大学から文学博士号が贈られた。 三角氏は、三十年にわたりサンカの民俗、言語、考古学などを研究師、論文にまとめて大学に提出していた。こうした研究で博士号を受けたのは三角氏が初めて。
昭和37年 4月22日 目白花いっぱい運動
昭和37年 4月22日  目白の町を花で飾ろうと、目白東町会、目白一二三会、目白四丁目町会が「目白花いっぱい運動」をはじめた。新生活運動の中に花を取り入れ、町も職場も花で飾ろうという。町内のヤマト種苗農具鰍煖ヲ賛している。
昭和37年 5月6日 池袋中央地下道開通
昭和37年 5月6日  昭和三十三年に着工以来、三年半を費やしてこのほど池袋中央地下道が完成し五月一日に開通式が行われた。午前十時半のテープカットで国鉄の今岡関東支社長を先頭に関係者、そして待ちかねた一般通行人が続き開通式を終えた。 池袋の東西交通は、発展する副都心池袋の大きな課題として注目されながらも、こまだ実現しなかった。この地下道の開通で通行人の交通問題はある程度解決した。しかし、これは池袋発展のための第一歩にすぎず、さらにビックリガード(改修中)、大踏み切り(三年計画だ今年から予算を計上)の完成が待たれる。 池袋駅は、国鉄山手線、赤羽線、西武池袋線、東武東上線、地下鉄丸の内線の連絡駅として乗降乗り換え客は一日平均六十五万人。これに東西の一般通行人を合わせると百万人にもなる。 昭和三十三年十月に大林組の手によって着工。総工費は十二億五千万円(西武、東武の部分を除く)。長さ二〇〇b、幅三〇bの地下道。これまで一般通行人は十円の入場券を買って駅の中を通行していた。
昭和37年 5月15日 豊島区の高額所得者
昭和37年 5月15日  昭和三十六年度の区内高額所得者が豊島税務署から発表された。ここ二年来好景気を反映して所得の伸びは年々上昇している。三十六年度後半に不景気風が吹いたが、三十五年の事業の伸びを三十六年に持ちこした形。 トップは相変らず金門製作所の小野田社長。作家の山手樹一郎氏(井口長次、要町一‐四一七)も三位で変らず。九位に売れっ子推理作家の水上勉氏(高松二‐三七)の顔も見える。
昭和37年 6月5日 全国平均を上回る豊島区の中学生の学力
昭和37年 6月5日 豊島区教育委員会は、昨年十月に行われた中学校二・三年生の学力テストの結果を発表した。これによると、国語、社会、数学、理科、英語の全科目に全国と東京都の平均を上回っていることがわかり、教育関係者を喜ばせている。 この学力テストは、国語など五科目にわたって全国で実施されたもの。全科目の総合平均点が全国で五八・七六、東京都が六三・四九、豊島区が六四・九四と大きくリードした。各教科別でも全教科で優れた成績を示した。 この好成績に区教育委員会では、各校における教育研究の熱意、学校差が少なく、平均した学力を持っていることを理由にあげている。しかし、中学校三年生の場合は、男子が八〇点を頂点にして進学意欲を示しているのに対して、女子は五、六〇点のものが多く、男女の差が目立って開き、今後の指導にひとつの問題を投げかけている。
昭和37年 6月12日 井戸水の六割が飲用不適
昭和37年 6月12日  水キキンの対策として池袋保健所では、五月から井戸水の無料簡易水質検査を実施しており、五月三十日までの検査結果がこのほどまとまった。 これによると、二十二日間に同保健所に持ち込まれた検査件数は、二千五百三十二件で、なんと一日に百十五件にもなった。内訳をみると、池袋保健所管内が八百件、長崎保健所管内が二百五十一件、練馬保健所管内が六百六十三件。このうち飲料適となったのは八百六十八件、ろ過すれば適が四十七件。不適が千六百十六件、再検査が一件で、飲用できるものは全体の三五%にとどまった。
昭和37年 6月26日 谷端川大下水の暗渠計画
昭和37年  池袋六丁目の谷端川河岸は、昭和三十三年の十七号台風、続いて二十二号台風で未曾有の大惨事に見舞われ、浸水七千戸という大きな被害を出した。この大惨事は、谷端川治水の重要さを見せつけた。 その後、谷端川をめぐって北区が堤防のかさ上げを計画。豊島区はそうされると水が逆流して、台風時には三十三年の二の舞えだと、水争いが始まったが、豊島地区の水禍を防ぐため、都の下水道本部が大暗渠を計画。この計画は、池袋六丁目の谷端川中西前橋から下板橋駅付近までの全長五百bの暗渠計画で、川幅は約六b。 三十三年の大惨事以来、区が都の下水道本部に要請して護岸工事はできたが、この護岸をコンクリートの壁にし、それに蓋をかけて完全な暗渠にしようというもの。現在この谷端川の流れは北区の石神井川に落としているが、将来は荒川区の小台汚水処理場が完成すると、これにつないで完全な汚水処理ができるようになり、谷端川に流れる下水利用の水洗便所もずっと簡便になる。
昭和37年 7月24日 膨れ上がる池中
昭和37年 7月24日  生徒数が多すぎるため理想的な教育が難しいと音を上げている学校がある。区立池袋中学校で、現在の生徒数が二千二百九十八人。区内はもちろん都内でも二位か三位という状況。 ところがこの生徒のうちの約七分の一が区域外入学。それにこの生徒を収容する学校は、一万千四十六平方bと、生徒数に比して都の基準の半分以下。区の文教委員会でも再三この点を取上げてているが、地価のはね上がる繁華街に近いので、敷地難で新設、増敷地、分校などの計画も全てがだめ。今年が生徒数のピークだというが、来年になっても越境入学は減らないのではと、関係者は心配している。
昭和37年 8月7日 地番の混乱解消に
昭和37年 8月7日  区画整理の地域の地番が飛び離れたいるため、郵便や電報、デパートの配達などに混乱が生じ、郵便協力会でも表札をつける運動を行っているが、地番そのものの混乱のため、成果があがらない。昔から地番が住居の表示に用いられていたから、区画整理などで換地や減歩があるとこのような混乱がしょうじていた。そこで家庭そのものに住居番号を付けては、ということから今春、内閣で住居表示に関する法律がきまり、市街地の特に地番が混乱している地域から、新しい住居制度をしくことになった。豊島区でも、総務課内に係を新設して、五か年計画で新しい街づくりをはじめる。
昭和37年 8月7日 小型レントゲン車活躍
昭和37年 8月7日 池袋保健所にこのほど、小型のレントゲン車が配置され、活躍している。このレントゲン車は、その名を幸福によせて「青い鳥」。これから始まる秋の集団検診などに威力を発揮するはず。町の要望があれば、いつでも気軽に出張検診するという。
昭和37年 8月28日 森田マーケット(二百戸)九月末に取壊し
昭和37年 8月28日 区画整理事業の中で最も困難とみられていた池袋駅西口も、昨年マーケットがとりはらわれて以来、駅前の広場予定地を残すだけになった。それもこの九月末までに森田マーケットが立ち退かない場合は、強権の発動も辞さないという東京都側の強い意向から、残る一か月の余裕期間を通じてどのようになるのか注目されている。 昭和二十一年に区画整理法が施されてから十六年で池袋の東西は完全に整理だけは終わる。 池袋西口駅前の通称森田マーケットは、終戦直後、地主の後藤鈴五郎さんの許可なく第三国人が入り込んで不法に建物を建ててしまったのがマーケットの始まり。その後、森田組と勢力争いになり、森田組がおさえたかたちで今日におよんでいる。 約三千二百平方bの私有地に約二百戸のマーケットがひしめいている。 現在池袋の区画整理未完成地は、この森田マーケットと、これに隣接するノトヤをはじめ約二十戸だったが、現在取り壊し中で、すでに新しい店舗もできつつある。
昭和37年 9月11日 給食指導で駒小に文部大臣賞
昭和37年 9月11日  豊島区立駒込小学校(岡本忠雄校長)が学校給食優秀校として、豊島区で初の文部大臣賞を受けることになった。表彰式は、十月五日に仙台で開かれる第十三回全国学校給食大会。 文部大臣賞を受けることになったのは、同校の給食指導にある。設備が特別良いわけでなく、むしろ部分的には粗末。 同校の児童数は千二百五十余人。この児童に全教員とPTAが一緒になって給食指導にあたった結果が文部大臣賞になったという。 昼休みの時間は四十五分。この間に手洗いから配膳、後片付けをしなければならない。しかも衛生的に。食事前の手洗いについても水道事情が悪く、蛇口に長蛇の列ができ、千二百五十余人が洗い終わるまでに三十分かかってしまう。これを解消するために二つのドラム缶を用意し、そのドラム缶のところどころに穴を開け、鉄パイプを通して簡易手洗い所を三か所に設置。また、配膳作業をする児童のために紐のない給食着を考案したり、配膳の方法を研究して改善。同時に、献立の工夫研究なども行った。
昭和37年 10月23日 ごみの容器回収の前途は多難
昭和37年 10月23日  東京都は、オリンピックまでに東京の町からごみ箱を一掃しようと、二十三区全域をごみ容器による定期収集方式に切りかえる。 豊島区でも来月板橋区中台に塵芥焼却場が完成するのを機に、来年四月から全戸の容器収集に切りかえるという。 すでに実施している区内の一部地域では、この容器収集は非常に好評だが、この容器を買えない人の間からは苦情が出ている(雑司が谷)。豊島区町会連合会(大曽根_治会長)でも、容器収集の全区完全実施のため、区制施行三十周年事業の一つとして、全戸に容器を配布する予算をあげて欲しいという請願を出しており、ごみ容器収集の波紋は以外に大きい。
昭和37年 10月23日 立教で陸橋をつくる
昭和37年 10月23日  立教中学ではさきに、一億円の工費をかけて体育館を完成した。その完成にあわせて体育館と校舎を結ぶ陸橋工事を進めている。 立教は、最近の進学ブームで拡張につぐ拡張を重ねた結果、校舎も池袋に通じる都道を挟んで二分され、PTAの間から交通事故を心配する声があがった。陸橋はこの事故防止を目的に作られるもの。幅一〇bの都道をまたぐ鉄骨コンクリート製で、総工費は約六百万円。完成は十一月中旬で、公道上の私設陸橋は豊島区内で初めて。
昭和37年 12月4日 姿消す戦後のマーケット
昭和37年 12月4日  「都も遂に強権出す」。池袋最後のマーケット街としてその去就が注目されていた西口駅前のマーケット群約二百戸が十一月十四日に都から十一月三十日までに自発的に立ち退くようにという通達を受けていた。 三十日の午前九時には、この一角九軒の取り壊しが始まり、夕方までに千成モナカ、果実ゆう文、オモチャグリムなど、なじみ深い店が取壊された。なお、残るマーケット群については、六日までに立ち退かない場合は強制執行も辞さないという強い態度を都は打ち出している。 このマーケット群は、池袋二の八六六の私有地約三、二〇〇平方bに戦後、地主の承諾なしに約二百戸のマーケットが建設された。以来、これが売買され十六年が過ぎた。池袋の駅頭にあるため、発展を阻害するから早期に立ち退くようにという声が各方面から出ていた。しかし、この土地が池袋の他のマーケット街とちがって、私有地であることから一番後にまわされてしまった。居住者の代表からは「年の瀬から正月まで営業させて欲しい」という陳情、請願が出されていた。一方で、地元西口商店街を中心とした区画整理促進同盟では「西口の発展を遅らせるもの」として早期整理を陳情。その成り行きが注目されていた。 この日、朝八時半に都建設局第四区画整理事務所から約五十人、池袋警察署から警官十五人が整理にあたるなか、自発的に整理に応じた九軒が次々と取壊された。中には、家主と借家人との話し合いがついていないために「ね耳に水」の商店もあったが、大きな混乱もなく整理が執行された。