昭和38年 1月15日 豊島区は貧しい
昭和38年 1月15日  豊島福祉事務所はこのほど、昭和三十七年の豊島区厚生白書を発表した。この白書は、同所が取り扱っている事業内容をまとめたもので“貧しい豊島”の断面を報告している。 全般的にみて豊島区は、東京都の平均保護率一四%を上回る一六・七%に達し、二十三区中六位。生活保護 区内における保護実施状況は、昭和三十年十月の二千八百世帯七千七百三十人を頂点として、以後漸減し、三十七年七月で二千二百五十世帯五千八百人と、人口比で一六・七%となり、二十三区中世帯数で八位、保護率で六位。保護世帯は巣鴨、池袋地区で漸減しているが、高田と長崎地区は横ばいとなっている。特に保護世帯が多い町は、要町三丁目、池袋二丁目、同一丁目など。少ないところは目白一・二丁目、駒込一・二・三・四・五丁目など。児童福祉 問題児の指導、長期欠席児童の保護、児童文化財の提供、児童保育など、児童福祉全般にわたって実施している。 三十六年四月から三十七年三月までの一年間、同所で取り扱った相談件数は九百九十件で、前年より四百件も多くなっている。内容は、保育所の入所が四百十二件、問題児の処理が三百四十件、相談・助言が百五十八件など。この中には、警察からの通告十八件が含まれており、暗い影を投げている。売春 正常な生活からはみ出してしまった婦女子からの相段件数は、この一年間で四百十五件。本人が自発的にきたのが二〇%強で、あとは更生保護相段所か警察から。売春をするようになった原因は、貧困が三八%、家庭不和が一一%、精薄者が九%など。このうち夫のいる女性は三四%にも達している。
昭和38年 3月12日 赤痢・結核ふえる
昭和38年 3月12日  長崎保健所が昨年一年間調査した、管内の衛生状況の大要がこのほどまとまった。これによると、町会、婦人会、衛生協会など民間団体の協力にもかかわらず、赤痢や結核などの主な伝染病発生数は、昨年より増えている。この理由について保健所では、管内の上下水道の不備をあげているが、一方で管内に多いアパート生活者の衛生観念の低さを指摘している。 長崎保健所管内は、長崎、椎名町、千早、千川、高松、要町一帯で、人口は約十万人。世帯数は約三万で、一世帯あたり三・三人と都内での最低。これは住宅地で、アパート生活者が多いため。管内の上下水道設備は非常に悪く、水道栓数は一万三千七百三十三で普及率は四五・七%。管内に約五千の井戸があるが、その半数は飲料不適になっている。下水は、一部谷端川支流が暗渠になっているが大部分はU字溝で、これが管内の衛生のガンになっている。 一方、池袋保健所の衛生白書によると、前年に比べて伝染病の発生数が減少したほか、乳児の死亡数が半減した。特に母子衛生に力を注いだ結果、総出生三千九百二十七人で、乳児の死亡は五十六人。前年は百六の乳児死亡を出している。
昭和38年 4月16日 婦団協、政治団体化の是非
昭和38年 4月16日  豊島区婦人団体協議会(武部りつ会長)は、地方選挙に当たって会の政治意識を高めるとともに組織の強化を図るため、協議会を政治団体として「政治資金規正法」の適用を受けるべきか否かを検討している。しかし「組織上かえってマイナスになる」という意見が強く出ており、その成り行きが注目されている。 婦団協が政治団体化を考えたのは、婦人の政治意識を高めるという目的と、同会から出馬している二人の候補者を全面的に応援して議会におくり、婦人会活動を政治的に強化させ、区への発言力を強めようというねらいがある。もともと同協議会は戦後、婦人開放、地位向上を目的としてスタートした会だけに、幹部の政治意識は高い。
昭和38年 5月21日 区庁舎に常設映画館
昭和38年 5月21日  区教育委員会では、視聴覚ライヴラリー事業の一つとして、現在ある区庁舎地下の物置を本格的な常設映画館に改造して、区役所に来た人に自由に鑑賞してもらう計画を立てている。現在、教育委員会には劇映画を含めて二百六十本のフイルムが保存されているが、一般の利用はほとんどない。 この計画は、庁舎地下の物置兼用となっている試写室を全面的に改装し、一般の区民も鑑賞できる常設の映画館にしようというもの。約三十坪の部屋全部に防音テックスを張り、商業映画と同じサウンドスクリーンを取り付ける。費用は約百万円。六月早々から改造にかかる予定。
昭和38年 6月18日 長雨で区道は穴だらけ
昭和38年 6月18日  じとじと降り続く雨。この長雨で区内の大半の簡易舗装道路はガタガタになり、区の土木課はその修理に追われている。区内の道路はほとんどが舗装されている。しかしその舗装の九十%は簡易舗装で、人道用につくられたもの。 それが最近の自動車ラッシュで痛めつけられ、そこに長雨。いたるところに亀裂や穴があき、車が通るたびに家が震動したり泥が跳ねたり。そのたびに苦情が出ていた。 区の土木課には四台の応急修理車と六個班の人力修理班があるが、毎日晴れ間をぬって出動し、道路の穴埋めを行っている。自動車は一台一日一〇〇平方bで、穴の数にして百から二百か所。人力は九尺道路以下の細い道で、穴にして一個班が五百から六百以上修理しているから、一日三千か所から四千か所の穴を埋めている計算。この修理費だけでも年間約五千万円にもなる。
昭和38年 6月25日 赤字に悩む豊竹保育園
昭和38年 6月25日 婦人会の経営としては都内で初めてという豊竹保育園が開設されて三年になる。当初、経営を軌道にのせるまで三年の間、一般からの募金で赤字を補うという計画。いよいよ今年がその最後の年。募金を中止して、はたして保育事業の継続ができるのか疑問と、幹部の間で対策を協議している。 同保育園は、池袋駅東口から新宿方面へ徒歩十分という地の利もあって利用者は多く、現在定員いっぱいの四十人の乳児(三歳以下)が入っている。未亡人と夫婦共稼ぎの子どもばかりで、四十人のうち一歳以下の赤ん坊が十二人もおり、一般の幼児保育と違って手数が余計にかかる。働く人は武部園長らおしめの洗たく係りを含めて十一人もいる。
昭和38年 7月16日 幽霊人口一万九千人
昭和38年 7月16日  毎年七月は住民登録法施行の月。例年一日から末日までは住民登録励行週間として住民登録にもれている人を調査している。 六月一日現在の豊島区の住民登録法によって届けられている区民の数は三十五万八千三百四十一人、配給台帳人口は三十五万六百八十四人、国勢調査を基にした推計人口は三十七万六千六百八十七人。推計人口と住民登録者数の差は約一万九千人。おおむねこの数字に近い人たちが住民登録をしていないことになる。つまり幽霊人口。このような現象は特に繁華街に多いが、独身世帯の集まっている地域、アパートなどは特にこの傾向が強いようだ。日本の国民は誰でもどこかの市町村に一定の住所を持ち、住民となっている。日常生活の中で、この住民の資格から生じる権利義務は非常に大きいものがある。たとえば主食の配給、選挙権の行使、子どもの就学、生活保健、住民税の課税、居住証明などの行政事務はすべて住民登録が基になる。 住民は転入、転居など、住民登録に関する事項に変更があった場合には、十四日以内に届け出をしなければならないと決められている。正当な理由がなく、期間内に届け出をしない場合は、五百円以下の過料が科せられる。
昭和38年 8月20日 乳母車預かります
昭和38年 8月20日  西武鉄道池袋線の椎名町駅の一時預り所で乳母車を預かり、地域の人に喜ばれている。乳母車は一時預り所からみると、面積が大きく、車両扱いでどこも預かってくれない。このため、電車に乗る場合は、自宅から乳幼児を抱いてこなければならなかったが、駅で預かってくれるとなれば駅まで乳母車を使える。帰りには荷物も一緒に乗せられるので非常に喜ばれている。駐車料は一日二十円。これは西武鉄道が今、展開している「小さな親切運動」の一つ。
昭和38年 8月27日 西武百貨店で戦後最大の火災
昭和38年 8月27日  二十二日の午後一時十分ごろ、池袋東二の一八・西武百貨店(堤清二店長)七階食堂から出火、七階の六、九〇〇平方bと八階の六、一七九平方bを全焼し、午後八時半にようやく鎮火した。 この火事で七人が死亡、二十三人か重軽傷を負い、デパートの火災としては戦後最高で、被害総額は二十七億円を超すといわれる。出火の原因は、消毒作業で引火性の薬品を散布中にタバコの火が引火したもの。
昭和38年 8月27日 恐怖のトンネル
昭和38年 8月27日  池袋の東西を結ぶ通称びっくりガードの改修工事が進み都では十月一日の全面開通を目標に最後の追い込みに入っている。しかし「この工事は自動車にはいいが、人道は恐怖感を与えるだけでなく、犯罪を誘発する恐れがある」という批判の声が上がっている。このびっくりガードは西武池袋線と国鉄の下約数十メートルの間をくり貫いたもので、工事上の難関を乗り越えて完工の段階に入った。指摘されている人道は、道の両側にそれぞれ三b幅であり、階段で三b以上も下がり、約一〇〇bもの間はコンクリートのトンネル。中に入ると照明設備があるとはいえかなり重圧感を与え、停電やいたずらで照明設備が破損した場合は真っ暗になってしまう。このようにコンクリートの壁に囲まれた中に入ってしまうと、周囲の視界から完全に隔離され、婦女子がここを通るということは相当の危険が伴う。
昭和38年 10月15日 公園を十年間も放置
昭和38年 10月15日  椎名町八丁目に「西椎名町公園」があるが、ほとんどの区民に知られていない。 区内の西南、十三間通りをはさんで新宿区に接しているところ。面積は八、四五九平方bで、区内でも一、二を争う大きな広場。昭和二十六年に東京都が開園し、二十七年に豊島区に移管されたもので、三十二年には区有地として移転登記を済ませている。その後、片隅に児童遊園として遊具をそろえたほか、土木の材料置場などに利用されたりで、放置されたままになっている。しかも公園の全面積の三分の一にあたる北側に、戦後応急的に収容した人たちと、その後権利譲渡などで移住してきた人たちの家が立ち並び、中には風俗営業の店を開いているというありさまで、近隣の住民から非難の声が上がっている。 このため区では「いつまでも放置できない」として住民と話し合いをして解決しようとしているが、両者の考え方が真正面から対立しており、解決に時間がかかりそうだ。  区土木課の説明によると、ここは終戦後外地からの引揚者のため、都が応急的に改造したバス住宅を立てて一年の約束で無償で収容したもの。しかし、住宅不足のためつい延び延びになり、そのうちに引っ越して人が変わったりで、現在七十余世帯・約三百人が住んでいる。その中で当初からここに住んでいる人は約一割。住んでいる人も勤め人から商人までいろいろで、風俗営業の店も数軒並んでいる。 建物もバス住宅はどんどん壊され、二階建ての家が新築され「都から払い下げになる」という前提で相当の家が売買されたという。こうした中で区は、同所に都営の下駄ばき住宅を建てて現在住んでいる人を収容するという案を出したが、住民はあくまでも「払い下げ」を主張して譲らず、今日に至っている。
昭和38年 11月5日 池袋東口にディスコボロス像
昭和38年 11月5日  あと一年後に迫ったオリンピックを控えて各地で盛んな行事が繰り広げられているが、池袋東口では、駅前広場に有名シロン作のディスコボロス像の模写像が建てられることになった。この像は、池袋東口美観商店会(高村与作会長)と池袋東口東町会(前島猪太郎会長)がオリンピックムードを盛り上げるために建てるもので、ローマ国立美術館に保存されているオリンピア勝利者の象徴であるディスコボロス像を現地で模写し、十一月十五日から来年の十二月六日まで東口広場に飾り、オリンピックムードを盛り上げようという。 像の大きさは、本体の高さが四・五b、片側に一・五bの聖火台がある。来年のオリンピック終了後は、どこかあの団体に寄贈されるという。
昭和38年 11月12日 町ぐるみシツケ運動
昭和38年 11月12日  「小さな親切運動」にならって、町ぐるみ「小さなシツケ運動」が第五地区(清水保寛会長)の提唱で始められ、大きな成果を挙げている。 同地区では、青少年育成運動の一つとして、正しい人間に育てるには子どものときから正しい躾を身に着けることが大切と、十一月から「小さなシツケ」を合言葉に運動を展開している。今月の合言葉は「正しい言葉を身につけよう」。ポスター二百枚にこの合言葉を印刷し、子どもたちが描いた絵を添えて町の掲示板に貼り、みんなで努力しようという。同会ではこの運動をただ観念的なものに終わらせないために学校や家庭に協力を呼びかけている。
昭和38年 11月26日 最低生活に生きる二千人の親代わり
昭和38年 11月26日  要町三丁目の通称バタ屋部落は、都内でも独特の生活形態が営まれているところ。居住者は約二千人で、そのほとんどが紙屑を拾い集めたり整理したりのその日暮らしで、満足な光も入らない掘立小屋のような家に住み、そのうちの百四十世帯五百人が生活保護を受けている。この人たちの生活を心配して更生の道を勧めているのが民生委員の和田市三さん(七〇)で、その献身振りに部落の人たちは和田さんを「先生」と慕い、豊島福祉事務所でも「あの地域は和田さんなしでは何もできない」と頼りにしている。 約二千六百坪の民有地が終戦後の不在中に占有され、四年前の裁判で代表九人が署名捺印して昭和三十九年十一月までに自発的に退去するとの決定をみている。 ここには、ひかり商会など十四の仕切場があり、大八車やリヤカーなどを一日二十円から三十円で賃貸しして、家庭から出るくず物を集めさせて整理し、製紙工場に売却して日銭を稼いでいる。しかし、最近ポリ容器の混合収集が徹底したため紙の収集ができなくなり、今までの僅かな収入さえ減ってしまい、今後の生活に不安を感じているという。 ここに多くの人が集まった理由は、裸一つで誰が来てもその日から最低の生活ができるということにある。中には犯罪を犯す人もいて近隣の人たちから非難を受けることもあるが、大半の人は、厳しい生活の波に押し流されてきた社会の犠牲者で隣人愛も強く、常に更生の道を歩もうとしていると和田さんは言う。和田さん自身もこれまでに四、五人を就職させているし、和田さんの世話で更生し、部落を出て行った人も十数人いる。
昭和38年 12月3日 大樹のような人物に
昭和38年 12月3日  豊島区立大塚中学校の校庭に十一月二十九日、イチョウ、ヒマラヤスギ、柳の成木四十一本が植えられた。 この木は、同校PTA会長の菊池信夫さんが寄付した二十万円で購入したもので、大木を植えたのは「しっかり大地に根を下ろし、立派な人になれ」という思いが込められている。 同校の坂口信義校長は「菊池PTA会長の厚意に心から感謝しています」と語っている。