昭和39年 1月1日 「巨人病」に悩む東京
昭和39年 1月1日  東京の人口は、すでに千万人を超え、このまま増加し続けると昭和五十年には千四百三十万人にまで達するという。東京は日本全体で増える人口の約四〇%を受け入れており、その勢いは一向に衰えを見せない。しかも東京の人口を年齢別にみると、全人口の七割ちかくが十五歳から五十五歳までの生産年齢で占めており、「活気に満ちた大都市東京」を裏書している。 だが、このめざましい発展の一面、東京は深刻な「巨人病」に悩まされている。あまりの急激な人口増に、公共投資による設備の拡充が追いつけず、東京の都市機能が各部にわたってマヒ状態を示しはじめている。特に道路交通の混雑ぶりは「交通戦争」といわれるようになって久しい。
昭和39年 1月28日 一学級四十五人編成
昭和39年 1月28日  戦後のベビーブームの影響で、五年前までは小・中学校の児童生徒が激増、区立の小中学校もすしづめ状態だった。しかし、最近ではこれが高等学校に波及し、小中学校の児童生徒の方は減少。五年前に比べて一万三千人も減少している。 区の教育委員会もこのため今年四月に小学校に入学する児童のための学級編成を四十五人(都の予算面では四十九人)にし、さらに年々学年編成の児童生徒数を減らし、昭和四十三年までには平均四十五人、さらにその後の五か年計画で一学年四十人以内とし、ヨーロッパなみの編成にして十分な教育ができるようしたいという。
昭和39年 1月28日 中卒就職者は金の卵
昭和39年 1月28日  三月に卒業予定の中学生に対する就職斡旋が一月から公共職業安定所で始まった。これに先だって昨年六月に調査した求人求職の動きは、めざましい経済成長に伴う労働力需要の増加と、これに逆行する新規中学卒業予定者中の就職希望者の減少によって求人倍率は全国平均三・二となっており、地域的にも職種的にも需要のアンバランスが目だっている。 職安では、需給計画を策定して数的、質的、地域的偏重を是正し求職者に対しては、よい労働条件でより適して職を、また事業所に対してはその充足に努力してきたが、絶対数の不足はいかんともしがたい。
昭和39年 3月3日 姿消す学芸大付属豊島小
昭和39年 3月3日 学芸大学付属豊島小学校が時代の大きな流れの中で三月に閉校になる。明治四十四年四月に開校されて以来五十三年の歴史を持ち、日本の教育界に大きく貢献し、幾多の人材を世に送り出した同校だが、高度な東京の発展と、池袋副都心という大きな社会情勢のなかでついに身を引くことになった。跡地はバスターミナルと駐車場に生まれ変わる。
昭和39年 3月10日 池袋保健所に長い行列
昭和39年 3月10日 小児マヒ予防の国産生をクチン投与が五日から各保健所で始まった。その初日、池袋保健所は子供を背負ったお母さんの行列が延々二百b以上も続き、道行く人もびっくり。付近の商店から「商売にならない」と悲鳴が上がっている。 幸い事故もなかったが、重い子供を背負って投与を受けるまで二時間近くも往来の激しい大通りなどに立っているお母さんは大変。豊島区に人口は三十七万人。このうち池袋保健所は駒込、巣鴨、西巣鴨、堀之内、池袋、池袋東、雑司が谷、日出、目白、高田本、高田南と、区内の三分の二を抱えている。 人口十万人に一保健所という理想からみれば二倍以上、地理的に便利なために他の管内の人がここに来るため、実質的には三倍以上にもなる。朝から小雨模様にもかかわらず電車やバスを利用してお母さんたちがつめかけ、投与開始の午後一時半には長蛇の列。保健所の一階から三階の屋上まだ埋めつくし、保健所から文芸坐入り口で迂回して丸物付近まで達した。 この日だけで服用児は二千五百人を超えた。終了時間が午後三時半なので、約二時間の間に母子合わせて五千人以上が保健所につめかけてことになる。
昭和39年 5月26日 青少年育成も踊りから 
昭和39年 5月26日  家庭とこどもたちがおどりを通じて明るい街づくりをしようという趣旨から二十三日、豊島公会堂で「福祉舞踊連盟」の結成披露が行われた。 この会は巣鴨母の会(遠藤たかの会長)、池袋母性協会(清田静会長)、目白母の会(粕谷みや子会長)の三警察母の会が中心となって組織されたもの。これらの会はヒロポン撲滅、深夜喫茶禁止、刃物をもたない運動、悪書追放、交通安全、都市美化運動、睡眠薬など今日まで、いろいろな問題に取り組んできたが「健全な精神は健全なる身体にやどる」ということわざどおり、楽しい日本的な舞踊を青少年の健全な育成につなげようと連盟の結成に踏み切ったもの。
昭和39年 7月7日 池袋西口に雑草と汚物が散乱 
昭和39年 7月7日  夏季衛生運動が盛んに行われているが、こともあろうに池袋西口の繁華街から目と鼻の先の地域がカとハエの群生に悩まされていることが、一住民の訴えで明るみになった。目下、関係者の間で解決の努力が続けられているが“副都心池袋”と自称するには全く恥ずかしい話。この地域は池袋と雑司が谷の両町にまたがる国鉄社宅の一角。約二百三十坪の空閑地で有刺鉄線が厳重にはりめぐらされている中に雑草が生い茂り、しかも付近の飲食店やアパートの住民が投棄する雑芥やよっぱらいの放尿などで臭気がプンプンするばかりか、下水や雑草の陰にかくれた防火貯水槽がカの発生源となり、付近の住民は六月はじめから近代的なビルの工事音を聞きながらカヤをつり、ハエの来襲になやまされているという。もともとこの空閑地は以前からあったが、昨年までは付近の子どもが自由に出入りして遊んでいたため地元有志が草刈りをしたりしてほとんど雑草がはえず、また投棄物も少なかった。しかし今年新しく有刺鉄線を張ってから状態が悪化したもので、付近の照井さんらは「これ以上がまんできない状態」と強く訴えている。
昭和39年 7月14日 戦争裁判遺跡を東京拘置所移転後に
昭和39年 7月14日  戦犯収容所として戦後巣鴨プリズンの名はわれわれの頭にしみ込んでいる。この現東京拘置所跡に戦争裁判遺跡を保存しようという声があったが、三日閣議でこれが本決まりになった。閣議の決定によれば、移転後拘置所内の戦犯処刑場跡六百六十平方bを戦争裁判の遺跡として保存することが決められたもので、終戦後同拘置所に収容され処刑された戦犯者の遺族たちの巣鴨会(代表・荒木貞夫元陸軍大将)、白菊会(会長・山下久子さん)など十一団体の三年にわたる陳情が実ったもので、遺族関係者らは処刑場跡地に処刑されたA級戦犯者らの慰霊碑や堂を建て全戦犯者の服役生活を記念する計画だという。 なお、東京拘置所は昭和三十八年三月までに移転を完了する予定であった(中村梅吉代議士が法務大臣当時に閣議で決められた)が移転候補地に難点があって遅れているが、都は公共的駐車場として生まれ変わらせようと計画、またこの移転跡地については、地元西巣鴨の鶴見秀男氏が中心になって「ノーモア戦争」の願いをこめた記念碑の建立を関係当局に陳情していたが、このたびの決定について、これら関係者からよろこばれている。
昭和39年 7月28日 「たらちねの鐘」
昭和39年 7月28日  長い間問題になっていた「たらちねの鐘」も、区が二百十万円の設置予算を組んでやっとケリがついた。 木村区長は「私の立場としては賛成、反対の両方の人の気持をきづつけたくないと思ってじっくり時を待っていました。反対をしていた人も“区長の良識にまかせる”といってくれましたので、たらちねの名にこだわらず、時の鐘「時鐘」として鳴らし、区民の皆さんに親しんでもらいたい。聞く人の心によっていろいろと受け取り方があると思いますが、明るい気分で聞いてもらいたいと思います」と。
昭和39年 9月29日 豊島区の福祉白書 
昭和39年 9月29日  豊島福祉事務所でこのほど、昭和三十八年度における事業概要を発表した。この事業概要は、同福祉事務所が三十八年度中に取り扱った生活保護法関係など、福祉五法の公式な事業報告といえるもの。概要によると、生活保護関係の扶養世帯はやや漸減の傾向を示しているが、豊島区は千分の一四・六と、都平均の一二・八を上回る保護率を示し、二十三区の中で六位にある。華やかな池袋など盛り場の消費生活の反面には、こうした僅かな扶助費で生活を支えている世帯が多いことが浮き彫りにされた。これら保護世帯に支払われる扶助費は、総額四億円を超えている。来年から福祉事務所の区移管が決定している。