昭和40年 2月9日 豊竹保育園を区へ
昭和40年 2月9日  豊島区婦人団体協議会(武部りつ会長)は二月二日に代表者会議を開き、同会が経営する「豊竹保育園」を無条件で豊島区に譲渡することを正式に決めた。これにともなって同会の関、粕谷副会長らが近日中に手続きをすることになった。なお、敷地となっている蓮光院側にも総代会で事情を説明し、区側の敷地買収に協力を求めることにしている。
昭和40年 3月2日 商店街で集団給食
昭和40年 3月2日  巣鴨地蔵通り商店街振興組合(柴田哲雄理事長)は、かねてから進めていた経営合理化対策の第一歩として「給食センター」をつくることを決め、その具体的な準備を進めている。この「給食センター」は、多忙な商店にかわり、食事の世話をしようというもので、豊島区では初めて。これが実現すると、各商店は家事の雑用から解放されて商店経営に全力を尽くすことができ、新しい商店経営のあり方として各方面から注目されている。 巣鴨地蔵通り商店街振興組合の加盟店は二百十三店舗。区内では池袋に次ぐ第二の盛り場で、特に区画整理後の伸展は目ざましく、毎月四の日のとげぬき地蔵尊の縁日には十万人を超える人出で、各商店は食事の支度をするヒマもないほど。加えて最近の人手不足でお手伝いさんのいない店が多く、健康管理の面からも問題が生じてきている。 「給食センター」は、こうした悩みを解消するために立案されたもので、組合で大きな調理場をつくり、数種類の献立で希望に応じて各店に給食する。全店が参加すれば、従業員と家族を含めて一日六千食にも達する。食費は、協同仕入れ、協同作業で合理化し、一日一人百五十円程度で、栄養価の高い“商店給食”ができるという。
昭和40年 4月6日 学童保育所スタート
昭和40年 4月6日 豊島区は「カギッ子」対策として、今年度から区立学校十二校に学童保育所を開設する。この学童保育所は、学校から帰っても両親が働きに出ていて家庭での保護を受けられない子どもたちが年々増えている社会情勢から、学校が退けてから午後六時まで学校で学童を保育するというもので、準備が整う十二日からスタートする。 開設する学校は仰高、巣鴨、西巣鴨、大塚台、池一、池二、池三、池五、日出、長崎、椎名町、千早の十二小学校。収容人員は一保育所五十人。今年は六百人が目標だが、小学校にないところは近くの保育所に行くことになる。保育所の設備面は、畳敷きの部屋をつくるほか、テレビ、電蓄、オルガン、図書、遊具などをそろえて、指導員が面倒を見る。区としては、学童保育の充実とあわせて、両親の教育も検討している。
昭和40年 7月13日 「黒い雪」に意見書
昭和40年 7月13日  豊島区青少年問題協議会は、七月二十日から八月三十一日まで行われる「青少年を守る運動」の夏季対策として七日、青少年委員を招集して実施協議会を開いた。その席上、いま社会問題として大きく取上げられている「黒い雪」とこれに連なるピンク映画問題をとりあげ、豊島青少協として関係方面に意見書を提出しようという意見が出され、全員が賛成。深夜映画の規制、映倫委員の改選と規制の厳正などの要望もあわせて都と文部省に意見書を提出することになった。
昭和40年 7月20日 道和中の山本さん、中学生珠算日本一
昭和40年 7月20日  七月十一日、神奈川県平塚商工会議所主催の珠算全国大会が開かれ、中学生の部で豊島区立道和中学校三年生の山本幸枝さんが見事満点で総合一位になり、中学生日本一の栄冠を手にした。 この珠算大会は毎年行われ、今年は都内から百人、近県から三百人の計四百人が参加し、見取り、掛算、割算、伝票、見取り暗算の五競技でその技能を競った。
昭和40年 9月28日 住居表示第二次実施地区「西池袋」に決まる。
昭和40年 9月28日  十六日に召集された豊島区議会本会議の最終日に、六月二十三日以来、区民委員会に付託されていた「豊島区町区域の新設」案を議題にのせ、区民委員会の決定どおり賛成多数でA2地区(雑司が谷六丁目の全域と七丁目の一部、目白二、三丁目、池袋二、三丁目の各一部)の町区画は原案どおり「西池袋」に決まった。この議決によって昭和四十一年一月一日から「西池袋」という名がかぶせられることになる。なお、A2地区の区案反対の住民は、ただちに行政処分による仮処分申請をするもようで「自分たちこそ区政の主権者だ」とする住民が、住民自治の立場で「区政にもの申す」全国でも初のケースとして注目される。区の住居表示第二次実施地区は、池袋駅から西へ環状六号線までの池袋の西の部分と目白、椎名町一・二丁目、雑司が谷の一・九平方`bで、区の原案によれば、西池袋という町名を予定した町丁区画五つと、目白という町丁区画五つにわけ、これを住居表示審議会にかけた。この住居表示審議会への提案に対して、区民への広報作業が足りなかったとか、臨時委員の委嘱に問題があるなど、いろいろと問題があったが、審議会はこれを一応よしとして区長に答申した。区長はこれを区議会に提案したが、この町区画新設のA2地区から「区案に反対」という陳情が出され、さらに「住居表示に関する請願」が今月八日に出され、住民自治を主張する区民の新しい手段として注目を浴びた。 この区案の要旨は「A2地区は住宅地がほとんどで、もともと“上り屋敷”と呼ばれていたこの一帯は目白台の名を持ち、目白駅にも近く、商業地域のような“いけぶくろ”という名をつけられては困る」というもの。 このため@区長は住民の希望どおり「目白0丁目」にするA区議会もこれを決議するB判断がつかないときは、住民投票のような資料で判断するという請求書を区長と議長に提出した。一方賛成派は「住居表示はわかりやすく、訪ねやすいという本質から当然西池袋という町名をつけるべきで、区案を一日も早く進めてほしい」というもの。 区民委員会は前後八回の委員会を開き二十四日「議論はつくされた」として採決、結果は賛成多数で原案通り可決した。
昭和40年 11月16日  東京一の健康優良児に松岡君
昭和40年 11月16日  昭和四十年の健康優良児東京一に高松小学校六年の松岡正明君が選ばれ、教育委員会や学校もてばなしで喜び、祝福している。 正明君は、身長一六六a、体重六〇`とおとな顔まけの体格で、スポーツでは野球のリトルリーグの投手、相撲は少年横綱、しかもリレーの選手で五〇b七秒余という 快足を誇り、加えて学業は優等生。 審査は一区二人ずつ書類、面接、内科診療の三段階にわけて行われた、三人が同率一位で選ばれた。この朗報に担任の田中教諭と藤野養護教諭は「松岡君は素直で子どもらしく、学校全体の誇りです」と話している。
昭和40年 12月14日 全国一の人口密度
昭和40年 12月14日  十月一日に行われた「国勢調査」の結果が都から発表された。これによると豊島区の国勢調査人口は、三十七万二千九百八十六人(男十八万七千五百二人、女十八万五千四百八十四人)ということで、一平方キロ当り二万八千六百六十九人となり、前回まで全国一位の台東区を追いこして日本一の人口密度地区になった。